審判来たりて笛を吹く・4
デネボラがレグルスに襲いかかったあと、血塗れのまま彼女は彷徨っていた。
傍からは金目当てでレグルスを襲ったように見えるし、屋敷内でも血気盛んに「あのガキを殺せ!!」と騒ぎ立てている。
実際は性的に見られた上で襲われたのを返り討ちにしたのだが、そもそもデネボラは元に戻るどころか、理性すらなくなってしまったのだから、屋敷に戻ることすらできなくなっていた。
(────…………)
喉が渇いた。お腹が空いた。
爪先を血で汚しているものの、レグルスを襲った際に牙は使っていない。そもそも雌ライオンが街路を歩いていたら大騒ぎになってしまうため、理性が蒸発した今も、路地裏を歩いていた。
だんだん疲れ果ててペシャンと路地に座り込んでしまったが、腹が減って動きも鈍くなっていた。
彼女はなにも考えることができず、ただ腹の音がなるままになっていたとき。
「なんだ、ライオン?」
無神経な声を投げつけられて、イラリとした。
「グルルルルルルルル…………」
背の高い男であった。日焼けした肌で、真っ黒な伸ばしっぱなしの髪を掻きむしり、金色の目でじっとライオンを見ていた。
「その脚、どうした?」
血塗れな爪先を指差してそう指摘するので、毛が逆立った。
(────………………っ!!)
ただ不愉快だと思って、そのままガブリと噛み殺そうと襲いかかったとき、彼はためらいもせずにカードフォルダーに手をかけると、いきなりなにもない場所から、なにかでライオンを跳ね飛ばしたのである。
「ガラァァァァァァァ…………!!」
ライオンは壁につんのめり、そのまま崩れ落ちた。
そこで。ライオンから毛がだんだん消え、そこから剥き身の肌をさらけ出す。日焼けした肌、栗色の長い髪、翠の瞳……。早熟な体に、デネボラは必死で腕で隠すが、それでも全てを隠しきることはできず、その場でうずくまる。
溜息をついた男は、自身の着ていたジャケットを脱ぐと、黙って彼女に被せた。
「なにがあった?」
「……あんた、あたしのことをどうして殺さなかった?」
「むしろ貴様が俺を殺さなかったことのほうが興味あるが。ライオンになったとき、俺を殺そうとしただろ? どうしてそのまま殺さなかった? それに、貴様は襲われたとき、襲った相手を殺せたのか?」
「…………っ!!」
思わずデネボラはジャケットで胸元を押さえながら男の横っ面を殴ったが、彼は甘んじてそれを受け入れていた。
デネボラはジャケットを手で押さえながら、ぽつりぽつりと話しはじめた。
彼女自身、【力】の力を全部使いこなせたことはなく、ライオンになって養父を襲ったのはこれが初めてだったこと、それを使いこなせずに、本能のままに攻撃してしまったこと、今頃は養子が当主を襲ったということで屋敷中が大騒ぎになっているだろうことを口にした。
「……あたし、どうすればいいのか、もうわかんなくて」
「貴様、年は?」
「え? 13……」
「あと三年か。俺は秋になったら、学園アルカナに入る。お前も来い」
それでようやくデネボラは、先程自分を撥ね飛ばしたのは、彼の大アルカナだということにようやく気が付いた。彼に撥ねられなければ、彼女は自分を見失ったまま、ライオンとして人を襲い続けていただろう。
たしかに養父を許す気にはなれないが、殺す気なんてなかった。
「あんた、他人事みたいに言うんだね。あたし……あの家になんて……戻れないよ」
「戻らなくていい。どのみち、貴様が必要なのは爵位の問題だろ。なら、貴様と養子縁組している間は、あちらも爵位に問題はあるまいよ。俺の知り合いに貴様を紹介してやる。そこで世話になるんだな」
「あたし、家族を人質に取られてるんだよ。逃げられる訳……」
「貴様の家族の面倒を見ればいいんだろう。金は出せるし、必要ならば仕事も紹介する。それで貴様の家族も無事だろうさ」
「……あんた、いったい誰なんだい?」
「カウス。もういい加減今の世の中にうんざりしていたから、そろそろ壊そうと思っているところだ」
そう言った彼の目に、デネボラは心を奪われた。
彼の言っていることは、誇大妄想も甚だしかったが、彼女にとっては心地よかった。カウスに紹介された先は、大アルカナにもかかわらず何故か潜伏しているような連中ばかりが一緒くたに暮らしていて、彼女は学園アルカナに召喚されるまで、レグルス邸に戻らずに済んだ。
彼らは革命組織を名乗り、大アルカナの使い方を研究し、五貴人やそれに連なる家系との戦いに備えて生活していたのだ。
その中でデネボラは少しずつ、自身の大アルカナの使い方について学びはじめた。
ライオンに姿を変えてしまったら最後、彼女自身の力では戻ることは困難であり、ライオンの持つ力だけを引き出す方法を探しはじめた。
他の使い方も少しずつ覚え、魔力の貸出ができることに気付いてからは、革命組織の面々の鍛錬中に彼女の魔力を貸し与えて、彼女自身も貸し出せる魔力を増やせるよう鍛えはじめた。
なにもかもが楽しく、彼女が学園アルカナに入ったとき、久々に見つけたカウスに、彼女は笑いかけたのだった。
「……あたし、あんたに全てをくれてやる。その代わり、あんたはこの世界を壊すんだよ」
笑いながら言う言葉ではない。それは物騒極まりない言葉だったのだから。
しかし、それに対してカウスはにやりと口元を歪めて笑う。普段けだるげな彼が、そのときばかりはずいぶんと楽しげだった。
「貴様が力を貸してくれるんだったらな」
このときから、彼女は革命組織にいる。
カウスは人たらしなのか、仲間がぞくぞくと集まった上に、入学したての若者まで集まってくる。そもそも彼は【世界】が入学するという情報を掴んで以降、わざと単位を落として留年し、そのまま潜伏しているのだから、生徒会執行部からも覚えめでたく、たびたび一悶着が起こるようになった。
それでも。デネボラは信じていた。
自身のアルカナを使いこなせずに裸のまま路地裏にいた自分に、ジャケットを被せてくれた男のことを。
惚れた腫れたと言えばそれまでだが、彼女の彼に対する執着は、そんな生ぬるいものではなかった。
彼女は、この男に心臓を捧げるほどに焦がれている。
彼にならば、殺されてもかまわないというほどに。
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すっかりと雌ライオンと化し、理性の糸が切れたままヨハネをデネボラは嬲り続けた。それを黙ってカウスは見ていた。
それにおろおろとスピカはしているものの、革命組織の面々は黙り込んだままだった。ルヴィリエは耐えきれなくなったらしく目を逸らし、アレスとスカトは苦虫を噛みつぶしたような顔のまま、デネボラの暴走を眺めていた。
とうとうスカトはおずおずと言った調子で、カウスにデネボラとヨハネのほうを指差して尋ねる。
「あの、カウスさん……本当に止めなくていいんですか?」
「……今、ヨハネがゾーンを使ったら、それで俺たちは詰みだが、ヨハネはよほど【世界】が大切と見受ける。だからゾーンを【世界】に貸し与えている以上は、自分自身に使うことはまずありえんだろうさ」
アルカナカードの力の同時使用は魔力を酷使する。小さな力のひとつふたつの同時使用ならいざ知らず、ゾーンをふたつも行使維持は、魔力のリソースをよそで補えない限りはまずしないだろう。
「そう……なんですけど。デネボラさんは、それでいいのかなと思いまして」
「あの女は、人を殺したくなんざないだろうさ。日頃怪力を振り回していても、耐えうる相手にしかその力を向けんしな」
「そうなんですか……」
「だが、あの女がそれでもライオンに姿を変えると決めたのは、なにがなんでもヨハネを潰すしかないからだ。あれのゾーンが存続し続けたら、【世界】が完全回復するからな」
その言葉でとうとうスカトは唇を噛んだ。
体の弱い【世界】にゾーンを貸し与えているため、今ヨハネはゾーンを使っていない。彼を倒すことで、【世界】の力を削ぎ落とそうとしている。
理屈はわかる。理屈はわかるが……それをデネボラにさせていいものかという空気はあった。
「……わかりました。なら、カウスさんはそれでいいんですか?」
「あの女はな、俺の力を【世界】のためにギリギリ温存しておきたいらしい」
カウスはそうポツンと言った。そして、もうひと言ポツンと言う。
「あの女が嫌だと言えば、俺が手に掛ける。そして俺も死ぬ。俺に死なれるのが嫌なら、四の五の言わんだろうさ」
それは突き放したような言い方に聞こえた。デネボラを利用しているようにも思えた。
カウスの冷えた目を見ていれば、彼の人となりを知らない人間であれば誤解するだろうが。全員、彼との付き合いは最低でも三ヶ月続いている。彼の言葉をその通りに捉える人間は、誰もいなかった。
(……カウス先輩にとって、デネボラ先輩は……大切な人なんだなあ)
カウスを【世界】に送り届けるために、正気を失ってまで戦うデネボラは、やっていることが残忍にも関わらず美しく見えた。そして正気を失ってもなお、彼女の牙はヨハネに剥かれることはない。
彼女が使うのはあくまで脚のみ。たとえ敵であったとしても、殺したくないのだろう。
ただ、倒れて欲しい。気絶して欲しい。それで、【世界】にチェックメイトできるのだから。
「本当に……ソールとルーナ、カウスとデネボラ……愛というものは素晴らしいですねえ……これらの物語が語られ、紡がれ、歴史に名を残す……歴史というものはそうやってつくられます」
唐突に語り出すヨハネに、皆は一瞬沈黙した。
デネボラの前脚が、ヨハネを嬲る。既に端正な彼の顔つきには爪痕に腕力にと、血で塗れてしまっている。いくら回復魔法の使い手であったとしても、これをそう簡単に治せるものなのだろうか。
「ガラァァァァァァァ…………!!」
「失礼、デネボラ」
そう言ってヨハネは血まみれの神官服の袖からなにかを出し、それでデネボラの鼻先に触れた。途端に、彼女は横転して、もがきはじめた。
「あ、あの……! いったいなにが?」
「いえいえ。動物の嗅覚はすさまじいものですからね。軽ーくハッカ油を塗っただけですよ。これでしばらくは私を探し出すことも、襲いかかることも困難でしょう。私自身こんなに血塗れですので、嗅覚に頼れば探し出すことも可能でしょうが。鼻が元に戻ればいいですね」
そう言って、ヨハネはころころと笑った。手には小さな小瓶。薬屋の片隅で売っているそれが、今はライオンの嗅覚を維持している彼女には致命傷であった。
血塗れでも、傷を負っていても、ヨハネは顔を苦痛で歪めることなく笑みを浮かべたままだった。
「そしてですね。私も愛していますからね。この世界を、そして【世界】を。あれを処刑せねばなんともならない世界ならば、いっそ滅んだほうがマシですよ」
彼は愛しげにそう言った。
この神官長の言葉をまともに受け取っていいのかはわからなかった。ただ、彼はくだらない嘘をつかない人だ。
ヨハネがただただ【世界】に忠誠を誓うのは、愛以外に説明なんてつかなかった。




