闇濘の深くに
次の日の夜。日が沈むと同時に昨日と同じ湖畔に向かい、少しだけ欠けた月を眺めていると、すっかり空気が冷えきった頃に、フードを被った少女がやって来ました。
「……もしかして、待っていたのかい?」
「ああ」
「それは申し訳ない事をしたね。待たせてしまった。もっと早く来れば良かったな」
そう言いながら、少女はフードを外しました。押し込められていた髪がふわりと広がります。少しだけ露になった生白い首筋に、青年は思わず目を奪われました。
昨日より飢餓は強まっています。その所為か、彼には少女がどうしようもなく美味しそうに見えてしまいました。──これまでに無い程に。
青年は頭を振って何とか食欲を追い払いながら、当たり前のように隣に座る少女を見下ろしました。
「さて、何の話をしようかな?」
少女は小首を傾げてみせながら、そう問いかけました。青年は何か答えようとして、しかし言葉に詰まってしまいます。
彼女の話は、確かに青年の飢えを紛らわせてくれるでしょう。ずっと彼女と話す事が出来れば、穏やかな餓死を迎える事さえ可能やもしれません。
けれども、あくまで彼女の来訪は期間限定でしかないのです。昨日感じた絶望が蘇り、彼は表情を歪めました。
「どうしたんだい? 何処か、具合でも悪いのかな?」
「いいえ、ただ……私は……」
少女の更なる問いにも、答えにならない言葉を漏らす事しか出来ません。悲しそうに眉尻を下げながら、少女は青年の顔を覗き込みました。
「……もしかして、僕が居なくなるかもしれないのが寂しい?」
ずばりと内心を言い当てられて、青年はビックリしました。その反応を是と捉え、少女はううんと顎に手を当て考え込み始めました。
「そうか……君は、本当は絆に飢えていたのだね。見た所仲間も居ないみたいだし。
手本となる同胞が居なかったから、中途半端な心持ちのままだったのか……その生を肯定される事も、きっと無かったか久しいか。
だから、ずっと麻酔をかけていたんだね。満たされない願望を真っ当に抱き続けるのは、とても辛いもの。
自分は怪物だから、馴れ合いっこなんかしなくても平気と、暗示をかけていたんだ。けれども、僕がそれを解いてしまったのか」
彼自身すら曖昧にしか認識していなかった本音を、彼女はまさぐって次々と引きずり出してゆきます。見なかった事にしようとしていた痛みにまで、無遠慮に触れて抉るようなその言葉に、青年は怒りを覚えました。
「そこまで分かっているなら、もうやめてくれ……!」
どうか無責任に希望を与えないで欲しい。持続しない幸福なぞ、最初から無い方がマシなのです。そんな思いを込めて、青年は耳を塞ぎます。そうすると、流石に少女も口を噤みました。
暫しの間、沈黙が有りました。何かを言おうとして、しかし何も言えず、少女は目を伏せさせてしまいます。そしてそのまま、ふいと湖面に視線を移してしまいました。
その所作が引き金となってか、青年の中で飢餓感が肥大化し始めました。どうせ自分の前から居なくなってしまうのならば、自分で殺してしまっても同じ事だ──そんな“冴えた”考えに至った瞬間、彼は少女の肩を掴んでいました。
「私は、飢えているんだ」
肩を掴む手に力を込めれば、ミシミシと音がして、少女の顔に苦悶の色が浮かびました。吸血鬼の力は、人間よりずっと強いのです。このまま握り続ければ、少女の肩は砕け潰れてしまうでしょう。
「お、落ち着きたまえよ、君。骨折は嫌だ……」
「……私は怪物なんだ。私は吸血鬼なんだ。貴方は人間で、本来は私の獲物……」
青年はぶつぶつと唱えながら、少女の首筋に片手を当てて、血管の位置を確かめます。初めて触れた彼女の素肌は、見た目とは裏腹に温かでした。
彼の指の感触に、少女は彼が何をしようとしているのかを理解したようでした。そして肩を潰さんばかりに掴む手だけを引き剥がそうとしながら、彼女はこう言葉を発します。
「君はお腹が空いているんだね」
予想外な程に優しい声でした。初めて話しかけてくれた時と同じくらい、否、それ以上に。
「なら、僕をおあがり。……痛くはしないでほしいかな」
振り払われる事も無く、ただ、彼は許されました。少女は首に噛み付きやすいよう顎を上げ、覚悟するように目を閉じます。
それを認め、青年は彼女の肩を握るのを止めました。代わりに、彼はその手を少女の頭を固定するのに使います。ふわふわとした白い髪に、青年の指が沈みました。
「……本当に良いのか?」
「何度も言わせないでよ。僕は君に献血をするんだ」
青年の確認に、少女は少し笑って、そっと片手を伸ばし、彼の頭を軽く撫でました。その感覚に、ささくれ立ち昂っていた心が、いくらか鎮まります。
けれども、最早飢餓はその程度では誤摩化せない所まで来ていました。彼は少女の乳白色の頸部に顔を近づけ、牙を剥き、そして一思いに噛み付きました。発達した牙は薄い皮膚を破り、柔らかい肉を貫きました。
「ひっ……」
少女が上擦った呻きを微かに漏らします。気を遣ったつもりでしたが、流石に全く痛まないようにするのは無理なようでした。
牙で穿った所から流れ出す血を、零さないように啜り舐めます。いつもなら出血を増やす為に噛み付いた所を喰い千切ったりしてしまうのですが、少女に対してそれを為す事は憚られました。首に対してそんな事をしたら、死んでしまいますから。
いつの間にか、青年の中から少女を殺すという考えは失せていました。飢えが満たされ始めたからでしょうか、それとも許された食事をしているお陰でしょうか。両方かもしれません。
若い血なんて久方ぶりです。唇に触れる肌の瑞々しさも、痛みに耐えようと息を詰める気配も、段々ぐったりしていく彼女の身体さえも、嚥下する血の味を彩ってくれました。
「大丈夫、大丈夫だから……」
普段より数段弱々しい少女の声に、不意に青年は現実に引き戻されました。彼は牙を抜き、少女の表情を覗き込みます。
青年に自分自身の生命を分け与えた少女は、元々白い肌を更に青白くさせて、いくらか覇気の失われた瞳で青年を見上げていました。首に付いた噛み痕からは、まだ血が流れています。
腹具合からみるに、随分と沢山吸血してしまったのでしょう。すっかり正気に戻り、わたわたと慌てだす青年に、少女はそれでも微笑みかけました。
「……どうだい、落ち着いたかな?」
「あ、ああ、まだ、血が……傷、塞がないと……!」
「僕の事なんてどうでも良いんだよ。それより、君の体調だ」
頼り無さげに震える手で傷口を押さえながら、少女はなんでもなさげに振る舞います。一度に致死量を吸血する事は無いとはいえ、全く平気である筈が無いのに。
「私は、けれども、貴方が! どうして、こんな事を……!」
「……そうさね。これはただの無償の愛だよ」
首元から手を離しつつ、少女はそんな言葉を口にしました。白い手袋はいくらか血に汚れていましたが、どうやら魔法を使ったらしく、傷口は微かな痕を残して塞がっていました。
「君は僕が持っているものが欲しかった。僕はそれを与えてもいいと思った。ただ、それだけの話さ」
互いの思惑が合致した、ただそれだけの事。少女はそう語ります。更に自らを否定する言葉を続けようとした青年も、その台詞で押し黙りました。これ以上否めだら、彼女までもを巻き込んでしまいますから。
青年は一旦目を閉じ、数度深呼吸をします。そして次に言うべき事を考えると、満を期して言い放ちました。
「……ありがとう。久しく、身も心も満たされた気分だ。貴方のお陰だ」
「うん。どういたしまして」
心からの感謝の言葉に、少女もまた心からの笑みを浮かべて応えました。今度こそ、青年の胸には温かいものが満ちていました。
不意に、少女が仰向けに寝転がりました。折角の白い綺麗な髪に、土や葉っぱが付いてしまいます。
「僕はね、本当は君を討伐しに来たんだ。結構な賞金が掛かっていたからね」
その言葉に、青年の心臓がどきりと跳ね上がりました。その一方で、何処かに納得する自分を感じます。
今近隣の人里には、この森に出没する吸血鬼の噂が出回っている筈で、いくら珍しいモノ好きの旅人だとしても、そんな所にほいほい入って来るわけが無いのです。──怪物を討つ手段も無しには。
「僕は、それはそれは偉大な魔法使いだ。君程度の人外、確殺出来る。……でもね、君が話に応じてくれて、気が変わったんだ。
君の本質は善だった。沢山の人を殺してきたのはきっと許されない事だけど、それでも」
そんな事を言いながら、少女は袖の中から銀製の十字架を取り出し、湖の中に投げ込んでしまいます。そうして内心を吐露する少女の赤い瞳には、満天の星空が映り込んでいました。
「ねぇ、君。僕の道連れになる気はないかい?」
そして少女は、唐突にそんな提案をぶつけてきました。青年は驚き、こう返します。
「そ、それって……けれど、私が付いて行ったら、迷惑に……」
「君みたいなちょっと血色が悪いだけの美男を、怪物だと思う者なんて居ないよ。流石に訪れた所で失踪事件が起きたりしたら嫌だけど、飢えたなら僕を食べればいい」
「……何でそこまで」
わけが分かりませんでした。少女が変わり者なのは分かりますが、だからといって何故そこまでして青年に献身を申し出るのでしょう。少女は答えます。
「僕は大いなる魔法使い。下手な怪物よりも強い、白髪赤目の不老の乙女……君と似たようなモノさ。人の枠組みからは外れ、けれども怪物ではない存在。
色々有って、育ての親の元を離れてからは、ずっとひとりぼっちだった。けれども似た者同士なら、少しは寂しさも消えるかも……」
そう言いながら、少女は横たわったまま、青年の方へと手を差し伸べます。
「どうか僕の手を取ってはくれないだろうか? 寒空の下で震えている、哀れでいじらしい少女の手を」
まだ失血が尾を引いているのでしょう、実際にその指先は少し震えていました。青年は頷き、伸ばされた手を慎重に握ります。
「私で、いいのであれば」
彼女の迷惑になってしまうのではないか、という気持ちは消えませんでしたが、もっと彼女と一緒に居たい、という想いも本当でした。ですから、彼女の方から伸ばしてくれた手を、取らない選択肢は有りませんでした。
すると、少女はほっと安堵したように破顔しました。青年の手が、強く握り返されました。
「よしっ、じゃあ、早速偽装工作をしよう」
「……は? な、何の為に」
「決まってるだろう? この森に住まうわる~い吸血鬼を討伐した、その証拠を作るのさ」
そう言いながら少女は起き上がり、湖に映る月に指を向けました。そして魔法の力をその指先に集めると、やがて向けた先に発射します。
魔力の弾が水面に着弾すると、ぼぼぼぼっ、という大きな音と共に炸裂し、高い水の柱を形成しました。きらきらと煌めきながら空中にいつまでも残る柱は、きっと近隣の人里にも見えた事でしょう。
「アレで、君は死んだ事にする。後は適当に灰でも作って持って行けば、納得してくれるでしょ」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら、少女は荷物の中から帽子と布を取り出し、青年に渡します。これで顔を隠せという事なのでしょう。
「……本当にそう上手くいくのかな」
「彼らは、吸血鬼は死ぬと灰になると信じている。もし高名な魔術師に調べられたら厄介だけど、バレる前に高飛びしちゃえば問題ないさ」
「騙すような真似……」
「ここから怪物が居なくなるのは本当じゃないか。村人たちは安心出来る、君は殺されずに済む、僕は同行者とお金を得られて、みんな幸せになる」
果たしてそれで良いのでしょうか。青年は苦笑いを浮かべながら、少女がその辺の葉っぱや枝を集めて燃やすのを眺めました。
ある村に、一人の旅の魔法使いが入りました。
高名な魔法使いに村人たちは、最近村を騒がす吸血鬼の討伐をお願いしました。
魔法使いは森に赴き、激闘の末見事怪物を討ち果たし、その遺灰を証拠として持ち帰りました。村人たちは喜び、魔法使いにお礼をしました。
けれども魔法使いは数日と経たないうちに、村を発ってしまいました。いつの間に勧誘したのか、来た時には居なかった同行者を引き連れて。




