凍土の果てに
ある、風の無い夜の事でした。
人里離れた森の奥を、一人の青年が彷徨っていました。
淡い金色の少し長い髪に、じとっとした三白眼の赤い瞳。灰色をしたローブの上に、ギザギザの黒いマントを羽織った、十人中九人は『美形』と言いそうな整った容姿の、背の高い青年でした。
そんな、何処かの王族だと言われても納得出来そうな程の美青年が、どうしてこんな辺鄙な所に居るのかといえば、それは彼が『吸血鬼』だからです。
人の生き血を飲まねば命を繋げない、人類の捕食者たる種族。人より強く、長生きをする者たち。それが吸血鬼です。
ですが、人間が他に類を見ない程に勢力を高めて来た昨今、最早彼らはただの『害獣』でしかありませんでした。
彼にも、昔は仲間が居ました。
家族や、友人たち。彼も、幼少の頃は仲間たちに護られて育ちました。
ですが今から十年程前、人間による吸血鬼狩りに遭って、彼らは少年だった青年を残して死んでしまいました。
青年だけは、たまたま離れた所に遊びに行っていたので、助かりました。彼だけは、生き延びました。
その日、青年はひとりぼっちになりました。そして今日まで、ずっとひとりぼっちでした。
この日も、青年はたったひとりで、森の中をふらふらと歩いていました。
大体三年前に流れ着いて来たこの森は、中々に過ごしやすく、また良い感じの洞窟なんかも有ったので、彼はここを気に入っていました。けれども、最近は彼の存在が無視出来ない噂になってきているようで、彼の首に賞金がかかったという話も聞きます。
そろそろここともお別れなのかもしれないな、と残念に思いながら、青年は人里の方を目指します。食事をする為です。
前に人の血を飲んでから、もう二ヶ月が経ちます。リスクを避ける面でも、心情的な面でも、人血の摂取は出来る限り低頻度にしているのですが、流石に限界が近づいていました。
「人の姿をし、人の言葉を解せるのに、人を殺めねば生きてゆけぬとは、なんともままならないな」
自嘲に歪んだ笑みを浮かべながら、青年は呟きました。ひとりぼっちでの生活が長いと、どうにも独り言が増えます。
青年は、自分の生まれを心底呪っていました。吸血鬼の価値観が育ちきる前に同胞を失ったからか、いまいち人間を食糧だと割り切る事が出来ていなかったからです。
攫って来た獲物から血を吸う度、「人殺し」「化け物」と罵倒を投げかけられ、彼の心は荒んでゆきます。自分の存在自体が何もかも間違っているように思えて、憂鬱になるのです。
ですが、それはどうしようもありません。人の血を飲まねば飢え死にしてしまいますし、死ぬのは怖いからです。生を呪って自尽に走れる程、彼は壊れてはいませんでした。
さて、青年は森を往く最中、大きな湖のほとりに差し掛かります。
四方を森に囲まれた湖は、昼間は時折人がやって来たりしていますが、この夜更けには殆ど誰も居ません。空を覆っていた枝葉が途切れると、眩いばかりの月光が彼を照らしました。今宵は満月でした。
雲の無い夜空に、煌々と青白く輝く月が、ぽっかりと浮かんでいます。星空の中に開けられた穴のようにも見えるそれは、陽光よりもいくらか穏やかに青年の視界を鮮やかにしました。
吸血鬼だからといって、日に当たれば瞬く間に焼けて死んでしまう、という事はありません。けれども日光は眩しいので苦手です。ですから、そんなに明るくない月は好きでした。
「良い夜だね」
そうして感慨に耽っていた所に、不意に声が掛けられました。驚いて声のした方に振り向くと、そこには岸辺に座り込み水面に釣り糸を垂らす少女の姿が有りました。
黒いフード付きのコートを身に纏った、小柄な少女でした。色素の無い、血色がそのまま表れている顔と瞳に、月光を受けて銀の冠のように輝く白髪は、短くふんわりとしています。
とても可愛らしい顔立ちには、柔和な微笑みが湛えられていました。その笑みは、間違いなく青年に対して向けられていました。
「何だい、そんな、もののけでも見掛けたような顔をして。僕の容姿が珍奇なのは自認しているけれど、君だって似たようなモノだろう? 吸血鬼さん」
「なっ……」
見る者の心を鷲掴みにするような笑みはそのままに、少女は青年の正体をさらっと見破ってみせました。青年は後ずさりかけて、しかしすぐに思い直します。
どうやら彼女は尋常の人ではないようですが、恰好の獲物である事は変わりありません。周囲に伏兵の気配も有りませんし、青年の力を以てすれば、捕らえて組み伏せ血を啜る事なぞ、きっと簡単な事でしょう。
紛れもなく僥倖です。これなら、わざわざ人里に降りなくとも、命を繋ぐ事が出来ます。それに、正体を知られてしまったからには、殺して口封じをせねばなりません。そう思って、青年は殺気を隠す事もせず、じりりと少女の方へ踏み出しました。
「おいおい、そんな顔をしないでくれよ、怖いじゃないか。心配しなくとも、君の事を誰かに言いふらしたりなんかしないとも」
そう言いながら、少女はちらりと釣り糸の方に目をやり、魚がかかっていない事を認めると、芝居がかった所作で肩を竦めました。そして片手で自分の隣の地面を叩き、こう続けます。
「僕は珍しいモノが好きなんだ。もし良ければ、少し話さないかい? ここでの邂逅も、きっと何かの縁だろう」
その台詞に、青年の殺気はすっかり霧散してしまいました。彼の正体を知った上で話をしてくれる人なんて、初めてでしたから。
彼は頷く代わりに、少女に指し示された辺りの地面に座ります。すると、少女は甘いクリームのような素敵な笑顔を浮かべてみせました。
聞くに、少女は旅人であるようでした。
遠い遠い海の向こうの国から、その身一つで放浪して来た、故郷ではそれはそれは高名な魔法使い。恐らく盛っている部分も有るのでしょうが、実力の有る魔術師というのは本当なのでしょう。そうでもなければ、青年の正体を見破るなんて事は出来ませんから。
その話を聞いた青年が、遠くの国の話をせがむと、彼女は快く応じて、見た事も聞いた事も無いような異邦の世界の話をし始めます。よくせがまれるのでしょう、その語り口は慣れを纏っていました。
「──それで、何故その国の人々が日に三度も高速反復横跳びをするかというと、実は驚くべき理由が有ったのさ──」
魚の掛かる気配のない釣り竿を眺めながら、少女は朗々と語ります。平和な国、戦いの続く国、豊かな国、ユニークな国──きっと現実にはそれ程面白くない事も、彼女の翻訳を通して、面白おかしく彩られているようでした。
青年も、居場所を求めて彷徨う最中に色々な所を通ってきましたが、彼女の話はとても楽しく感じられました。いつの間にか、青年は久しく忘れていた笑いを漏らしていました。
「貴方は、本当に多くを知っているんだね」
「ああ、旅を始めてもう随分と経つしね。けれども、君のような吸血鬼は初めてだよ」
「私のような……?」
「これまでも吸血鬼と接触する機会はいくらか有ったのだけど、話に応じてくれる人は初めてなのさ。ありがとう、僕と話してくれて」
こんなに率直で温かな感謝の言葉を述べられたのは、一体何時以来でしょうか。青年は、心にぽかぽかするものを感じました。
ですが同時に何だか怖くなって、心情とは裏腹に青年は顔を険しくしてしまいます。
「……私は怪物なのに」
「確かに、君の身体は人外のそれだろう。けれども、その心は怪物ではないんじゃないかな」
「心がどうだろうが、私は沢山人を喰って殺したんだ」
「だろうね。それでも怪物になりきってない君は、きっととても尊い存在なのだと思うよ」
何処か棘の混じる青年の言葉に、柔らかな表情を崩す事もせず、少女は優しく受け答えます。それが何だかもどかしくて、遂に彼は核心を口にしました。
「貴方の事も、襲って……殺そうとしたのに」
「吸血鬼に一回くらい襲われた所で、赤子でも無い限りそうそう死なないだろう? 俗説だと、噛まれた者も化け物になるー、だとか、操られてしまうー、とかいうのも有るみたいだけど、全部眉唾だという事を僕は知っている」
彼女に向けた殺意を、ハッキリと認める台詞にさえも、少女は理詰めの優しさで応じました。世間では酷い妄評が蔓延っている、吸血鬼という生き物に関する本当の事。その知識が、彼女を大胆にさせているようでした。
「貴方は、本当に……沢山の事を知っている……」
「ま、知識は荷物にならないからね。詰め込めるだけ詰め込んで来たのさ、僕は」
そう自慢げに言いながら、少女はしたり顔をしてみせました。けれども、青年の心はざわつくばかりでした。
やがて少女は、結局一匹も掛からなかった釣り竿を仕舞います。そして広げていた荷物をてきぱきと纏め、徐に立ち上がってううんと伸びをしました。
「さて、久々に一対一でやる自慢話は楽しかったよ。出来ればずっと話していたいけれど、そういうわけにもいかないしね。そろそろ行くよ」
その姿を見て、青年は思わず寂しそうな顔になってしまいました。それを認めた少女は、ふわりと甘い笑みを浮かべます。
「また明日の夜、僕はここで釣りをしているよ。もし良ければ、もう一度君と話がしたいな」
「……分かった」
彼の返答を聞くと、少女は満足げに頷いて、人里の方へと歩き出しました。深い木立の中に消える背を見送りながら、青年はふと自分が空腹である事を思い出しました。
少女との交流が楽しくてついつい忘れていましたが、彼はもう限界近くまで飢えていたのでした。話している間に暴走しなかったのが、不思議なくらいに。
きっと、それは気持ちが満たされていたからなのでしょう。獲物を攫う時に、嘘と演技で塗り固めた会話をする事なんかは有りましたが、普通に誰かと話したのなんて、仲間を失って以来でしたから。
寂しさに慣れる為に凍り付いていた心が、いつの間にやら融かされていた事に、彼は気付きました。ほろり、と青年は涙を流します。
「ああ……」
これはとても残酷な事です。彼の寂寥を満たしてくれた少女もいずれ旅立ってしまうのに、麻痺させていた感情が蘇ってしまうだなんて。
彼が吸血鬼である限り、彼女を追って旅に出るのも難しいでしょう。そんな事をすれば、少女の周りで人が消えるという事が相次ぎ、彼女に謂れの無い悪意が向けられかねません。
青年は絶望しました。たったの一度夢を、希望を目の当たりにしてしまったばかりに、この後死ぬまで苦しむ事を予感して。
そんな結末を回避する為には、果たしてどうすれば良いのでしょうか──彼には分かりませんでした。




