1.黒髪の大精霊
真樹嶌レイア………………主人公。異世界に転生して精霊となった17歳の
女子高生。後に、レイア・マキシマと名乗る。
鈍色の雲が不気味な起伏を見せながら碧天を覆い、地平線から黒雲が頭を擡げる中、一周が二キロメートルの円形城壁に囲まれた猫人族の城郭都市カッツェンブルクへ、ラファール王国が派兵した狼人族のルー・アシエ総司令官率いる三万の獣人混成部隊が、地響きを立てて津波の如く押し寄せた。兵士達は都市を包囲し強弓の射程距離外で待機して、城壁の上で配置につく三百名の守備隊と睨み合う。
破竹の勢いでクルツシュタイン王国の城郭都市を次々と蹂躙してきたルーの大部隊が、ここで初めて留まったのには理由がある。それは、カッツェンブルクの領主が新進気鋭の精霊使いを用心棒に雇ったという情報を進軍中に掴んだからだ。
彼の名はレオ・マクシミリアン。流浪の精霊使いで、貴賎貧富の別なく力を貸し、時には無報酬で用心棒を買って出る。その彼が契約しているのは、水・風・土の魔法を操り、三万の軍勢をも撃退する大精霊レイア・マキシマ。このチート能力全開の精霊と気前の良い風来坊の契約が何故成立したのかはさておき、カッツェンブルクの何が彼の心を惹きつけてラファール王国の大軍勢の前に立ちはだかる壁となることを決意させたのかが気になるところ。
しかし、進軍中のルーの頭に長く留まっていたこの疑問は、彼が右手を頭の上で振り払うことで霧散し、代わりに、障壁を根本から崩す策謀が最小限の手数で最大の効果を上げる妙案として浮かび上がってきて、彼の頬を緩ませた。
彼の結論は、精霊使いを暗殺することだった。精霊使いが死ねば大精霊は契約解除となり、次に契約する精霊使いが現れるまで姿を消す。大精霊と契約するためには、ここから徒歩で一ヶ月以上かかる精霊の谷まで赴かなければならず、直ぐさま契約して戻ってくる精霊使いなどいるはずがない。これで都市は事前に把握している情報で総勢五百名足らずの守備隊のみとなり、然したる抵抗もなく開門するのは時間の問題だ。
そこで、五名の猫人族の暗殺者を早駆けの馬で一足先に送り、地元民に変装させ、避難する人々に紛れて城郭の中へ潜り込ませた。
ところが、暗殺に手間取っているのか、包囲した頃にはとっくに届くはずの吉報がやってこない。そこで犬人族の使者三人を送って無血開城を迫り、相手の出方を窺うと、領主は直ぐさま代理である長老を通じて使者へ白紙を渡して追い返し、分厚い城門を固く閉ざした。
回答に値しないを意味する白紙を床に投げつけたルーは、作戦会議の席上で巨躯を震わせて針のような銀毛を逆立てるが、これは徹底抗戦の意思表示イコール精霊使いがまだ生きている事への焦燥だ。
天幕の中で豪奢な軍服に身を包んだルーが、巨体を沈めた椅子を軋ませながら苛立ちを露わにし、魔石で駆動する懐中時計を握りしめていると、待ちに待った兎人族の伝令が額に汗を浮かべて直立不動の敬礼もぎこちなく現れたので、非礼の叱責を後回しに思わず身を乗り出した。
「申し上げます! レオの毒殺に成功し、精霊との契約が解除されました!」
「その報告に偽りはないな?」
ルーは心の中で手を叩くも喜悦満面の感情はおくびにも出さず、威厳を保って低い声を響かせ、息を切らし肩を上下させる伝令の赤眼を鋭く睨む。
「はい! ゾーイからの報告なので、間違いありません!」
痛覚を引き起こすルーの視線に縮み上がった伝令は、狼狽えると虚偽の報告に聞こえてしまう恐れを抱いて腹の底から声を出すと、作戦会議の卓を囲む将校達の目が、顎を引いて瞑目するルーの方へ一斉に向いた。
グズグズしていると天候が崩れて、泥濘の中で大型の攻城兵器を扱うことになる。陽が落ちる前にクルツシュタイン王国の主力である二万の軍勢がここへ到着する見込みという情報も、副官ヴィクターの使い魔の鷹から少し前にもたらされている。こうした中、閉じた瞼に視線を感じるルーは、情報を整理して吟味する。
ゾーイは猫人族の少女で経験豊富な暗殺者。丸顔であどけなさが残る彼女は、狼人族である副官デュポンの片腕でもあり、毒殺や爆殺が得意で、過去の実績からその成功情報は信頼に足る。まだ敵地にいる彼女は使い魔の鳩を使って吉報をもたらしたはずだが、その情報が途中で偽情報にすり替えられることは考えられない。
だが、ゾーイは精霊使いが死んだことをちゃんと確認していないのではないかという不安が心を掠めた。直感がそう囁くのだ。ルーは珍しく抱いた疑心に微苦笑する。
万が一、直感が正しいとすると、毒を食らったレオがたとえ瀕死の状態でも契約が解除されていないので、大精霊は精霊使いの意志を継いで行動できる。これでは最悪の結果を招くのは火を見るよりも明らかだ。
敵が寄越してきた白紙の回答は、用心棒の生存を裏付けているはず。援軍到着までの時間稼ぎのはったりではあるまい。このように思いを巡らすと、急に不安が真実味を帯びてくる。単なる思い過ごしとして一笑に付す訳にもいかない。この懸念を払拭出来る証拠が何としてでも欲しい。
「それはいつの話だ?」
「10分前の報告です!」
伝令の即答で開目したルーは、短く息を吐く。そして「ならば、白紙を渡した後だな」と自分へ言い聞かせるように呟いて、確証を握った愉悦で頬が緩み、全身が軽くなっていくのを感じた。時系列的に証拠が揃えば、直感から導き出された不安は意識の底に沈み、疑懼の念を抱いていた自分を笑い飛ばしたくなる。
開戦への決断と同時に立ち上がった彼は、作戦会議の机の上に広げられた地図でカッツェンブルクが描かれている箇所に拳を叩きつけた。
「精霊の脅威は排除された! 作戦を決行せよ!」
この号令に将校達が駆けだしたその時、遠雷が大地を転がるように響き渡り、彼らの足を地面に貼り付けさせた。
「急げ! 直ちに城を攻め落とせ!」
怯む配下の背中を怒声で叩いたルーは、心の中でほくそ笑む。カッツェンブルクを占領すれば、交通の要所を押さえたことになるだけでなく、地形の優位から防御が容易い。後は主力軍を撃破すれば、クルツシュタイン王国の残っている城郭都市は蜂の巣をつついたような騒ぎとなり、進軍すればことごとく無血開城するだろう。叙勲、昇進が約束されたも同然と確信したルーは、戦況視察用の望遠鏡を手にし、笑いを噛みしめて天幕を出た。
破城槌が車輪の重い音を響かせて城門に迫る。投石機があらゆる方向から接近する。攻城塔も動き出す。剣を抜いた歩兵が、強弓を携えた弓兵が、黒ローブを纏った魔導師が、守備隊を戦慄させる鬨の声を上げて前進する。
ところが、城壁の上で敵の動向を監視していた守備隊は、何ら抵抗もせずに次々と背中を向けて姿を消していった。これを退却開始と判断した獣人達は、嘲笑し、侮蔑の言葉を浴びせかける。
と、その時、大玉の花火のような光の塊が都市の中心から空高く打ち上がった。
それは、三万の敵兵全ての瞳が捉える高さまで上昇すると、灰色の天蓋を背景にひときわ輝きを放ちながら停止した。突然の出来事に兵士達は次々と足を止め、彼らの声は潮を引くように消え、風が大地を撫でて音を残しつつ去って行く。
この三万の兵士の目を釘付けにした霊光に包まれているのは、レイア・マキシマ。白いロングドレスを小柄な痩身に纏い、太腿まで届くストレートの黒髪と青玉色の瞳が美しい可憐な大精霊だ。
注目を一身に集めたレイアは自らを包む光を両手で振り払うように消すと、両腕を真横に伸ばし、左右に自分の背丈の倍もある金色の魔方陣を出現させ、まずは風の魔法を繰り出す。
突如として破城槌と投石機と攻城塔が風の刃で次々と破砕され、大量の木片が飛散し、その煽りを食らった周囲の兵士達がなぎ倒された。
続いて、両腕を真上に伸ばして氷の魔法を繰り出す。
今度は敵兵の上空に無数の青白い魔方陣が時計回りに出現し、それらが形作る光の壮大な円環に驚愕する獣人全員を彼らの立つ大地ごと青く染める。すると、まず城壁に近い兵達が厚い氷に閉ざされ、軍靴で踏み躙られた草原の上を軋む音を立てながら氷結が広がり、三万もの人々を飲み込んでいく。
魔方陣を見上げて恐怖に慄く者、彼らが氷漬けになる姿に瞠目する者、身の危険を察知して踵を返す者、同胞を押しのけて遁走する者、転倒し踏みつけられる者。厚い氷に閉じ込められた彼らの姿を、城壁の近くから遠くへ目で追うと、まるで潰走する敵兵をコマ送りの映像で見ているかのようだ。
大気を揺らす叫び声が消えると、撤退を装った守備隊の兵士達が城壁の上に姿を現した。彼らは、眼前に広がる氷地獄に勝利の喝采も忘れて呆然とし、戦慄が全身を走る。そして冷気が漂う大地から次々と視線を空に移すが、すでに大精霊の姿も魔方陣も消えていた。
天幕の外で望遠鏡を片手に驚愕して立ちすくむ姿で氷漬けとなったルーの前に、大きな魔方陣と筒状の光が出現し、それが消えるとカッツェンブルクの民族衣装を纏った長老、左横にレイア、後ろに屈強な兵士五名が姿を現した。
レイアはルーに向かって右手で指差すと、束縛する氷がたちまち消えて、彼は糸の切れた操り人形の如く地面に崩れ落ちた。長老は薄笑いを浮かべて、哀れな姿の総司令官を見下ろす。
「此度の氷結魔法は流氷の海中に没したのと同じ効果ゆえ、貴官が味わった酷寒と息苦しさは、未だに兵士達が味わっておりますぞ。さあ、降伏し撤退を約束すればこの大精霊が術を解くが、いかがかな?」
「――――」
「まさか、苦悶する三万の兵士をこのまま見殺しにするおつもりではあるまいな?」
「――――」
「剣を振るう訓練はされても、寒さに耐えて息を止める訓練までされておるとは思えぬが」
喉を両手で押さえて喘ぐルーは、寒気と怒りに震えて牙を剥き、畳みかける長老ではなく、大精霊へ視線の矢を射る。
「き、貴様! なぜ契約を解除しなかった!」
「その答えを求めるために時間を費やせば、ここで三万の命を失うことになりますぞ。貴官のみ生還して、ラファール王に何と報告なさるおつもりか?」
桜色の唇に薄く笑みを浮かべるレイアを一瞥し、目を細めて敗残の将を蔑む長老は、兵士の命を預かる総司令官の当然の決断を迫る。だが、腹の虫が治まらないルーは、それを棚上げにして大精霊へ問いかける。
「貴様の契約者は、こいつらにいくらで雇われた?」
「…………」
「いくらならこちらに就く?」
「…………」
「金じゃなければ、報酬は何だ? 土地か? それとも名誉か?」
片眉を上げて鼻を鳴らした長老は、突然の交渉で首を傾げるレイアの方へは目を向けず、頭を振って口をへの字に曲げる。
「貴官の浅ましさには、ほとほと閉口する。では、このままわしらは街へ戻ることに――」
「待て!」
「待て――とは?」
いったん背中を向けた長老へルーが右手を伸ばして呼び止めると、頭だけ振り返った長老が怒りの視線を送る。
「わ、分かった! 降伏するから、兵にかけた術を今すぐ解け!」
「解けと?」
敗者の立場を弁えぬ命令口調の言葉に眉を寄せた長老は、再び鼻を鳴らし、敵将へ疑問形の言葉を投げかけて言い直しを求める。屈辱で打ち震えるルーだったが、腰に下げた剣を抜いて乱闘を演じたい気持ちを抑え、心の中で何度も舌打ちをし、頭を垂れた。
「降伏する。兵にかけた術を解いて欲しい」
「兵を解放したら、即刻撤退することを努々忘れぬように」
当然のことを告げられてカッとなり、危うく剣の柄に手をかけるところだったルーは、復讐心で血が滾るも、低い声をさらに低くして「言われるまでもない」と応じて立ち上がった。




