第一章
僕が忘れられない、一枚のポスターがある。
あれは、八歳の頃だったか。
両親に連れられて、一軒の蕎麦屋に入った。
灰色になった漆喰の白壁。
数十年間、磨かれ続けたからだろうか、鈍く黒光る腰板。
醤油と砂糖の煮汁から立つ、甘く、重い湿気を吸い込み、人のいない店内は古い夢から覚めず、未だ見飽きていないかのように、生温かい空気に沈んでいた。
一人の老女が、日に焼けて茶色くなったメモ帳を片手に僕らのテーブルに近づいた。彼女は水の入ったコップを僕らの前に並べ、「ご注文は?」と尋ねた。
遠い砂漠から、吹きすさぶ砂まじりの突風に妨げられながらも、微かに響くような、ひび割れた声。
僕は両肘を押さえて、母の顔をそっと覗き込んだ。母に気づかれないように、すぐに顔を俯け、テーブルの縁を見下ろす。
母は、僕が彼女に縋りつくようなそぶりを見せるのを嫌った。だから、僕は彼女の機嫌を損ねないよう、十分に気を配って、近づき、すぐに離れ、それでも、僕らの間に横たわる空間が凍り付き、死んでしまわないように一定の距離を保つ必要があった。
「どうしようかしら?」と母はメニューの冊子を開いて、呟いた。
「いつもので、構わないよ」と父は答えた。
「それでは、ざるそば二枚と板わさでよろしいですね」と老女は顔を挙げず、サインペンでメモ帳に走り書きをした。
僕から見ると、そのメモ帳は平行四辺形に引き伸ばされ、さらに傾いて、一本の線となり、ついに地平線となって消えるように思えた。そこに連なる、なめくじの滑った跡のような文字。
僕はもう一度両肘を掴んで、母の首元を目の端で捉えた。
白く、微かに黄色い、なめされたような皮膚。縦と横に伸びる細い皺。細かな汗の粒。銀のネックレス。
ふと、鋭い視線を感じ、僕は母から視線を逸らした。
いつの間にか、老女は顔を上げて、石のような目――感じるということを半世紀近く忘れてしまったというような二つの穴――で僕をじっと見つめていた。
「坊ちゃんは?」
「ざる」と僕はささやいた。
老女は一つ頷いて、僕らのテーブルを去った。
僕の両親は最近亡くなった遠い親戚の話を始めた。
「巳吉さん、住んでいたアパートにどっさり、がらくたをためこんでいたんですって」
「そりゃあ、迷惑なことだな。それで、誰が片付けるんだい?」
「あの人のお姉さんだって」
「それにしても、可哀そうだな。弟が死んでも、厄介ごとは辛抱強く居残り続けるんだから。」
「後始末も家族の義務なのよ」
「困ったことだ」
迷惑者が死んだ話なんて、うんざりだった。僕は空気の膜で耳を塞いで、店内を眺めることにした。
壁にはポスターが何枚も並び、古いものの上に、新しいものが貼り重ねられていた。四つの角ばかりをのこして、破り取られているものもあった。
その中の一枚に、僕は目を留めた。
浴室の写真だ。
煤けたターコイズブルーのタイル。黄色いプラスチックの箱。床に無造作に投げ出されたキャンバス。
そして、白い浴槽。そこには一匹の人魚がいた。
足ではなく、ぬめりとした沼色の鱗に包まれた尾ひれを浴槽のふちにかけ、野性的な瞳を見開き、ふっくらとした唇を微かに開く。
サーモンピンクの膨らみの間には、くいしばった白い歯。
僕の背筋はさっと凍った。
今までとは違う、妙に気だるく、生ぬるく、それでいて、ひんやりとシャツの内側を湿らせるような液体が、脊髄に流れ込んだ。
僕の両肩に何かが腕を回し、耳元で囁いた。
「坊や」
僕はもう一度、両肘を押さえたが、母の顔は見られなかった。




