後編 「帰りだけ、別々」
店の中は、思っていたより賑わっていた。
大きな木の卓には何組か客がいて、奥の座敷からも話し声が聞こえる。店の人が盆を手に行き来し、食器の触れ合う音が絶えなかった。
美佐子は空いた席に腰を下ろして品書きを開いた。
そのとき、隣の卓へ冷たい蕎麦が運ばれてきた。白い湯波ののった蕎麦の脇に、衣をまとった舞茸がこんもりと添えられている。
隣の膳から品書きへ視線を戻した。
「これ、ください」
同じものを指した。
待つあいだ、店の中を眺める。壁の古い時計は、十二時半を回ったところだった。
やがて美佐子の前にも同じ膳が置かれた。
冷たい蕎麦を一口すすり、白い湯波を箸でつまむ。舞茸の天ぷらを割ると、中からまだ湯気が立った。
周りでは誰かが蕎麦をすすり、別の卓では笑い声が上がっている。美佐子はもう一口食べてから壁の時計を見たが、まだ急かされるような時間ではなかった。
次の列車には、間に合う。
箸を急がせなかった。
店を出て駅へ向かっていると、途中に小さな和菓子屋があった。古いガラス戸の向こうには箱菓子や最中が並んでいる。
美佐子は足を緩めた。
和菓子なら、何かあるかな。
店先には栗を使った菓子が並んでいた。健一は栗饅頭が好きだったが、少し違う気もした。
でも、まあいいか。
今日はもう帰るだけだしと、そのまま店の前を通り過ぎた。
十歩ほど行ったところで信号が赤になり、美佐子は立ち止まって肩の鞄を持ち直した。その手のまま振り返ると、和菓子屋の軒先がまだ見えていた。
信号が青になり、隣にいた人たちが横断歩道へ流れていく。
美佐子だけが、その場に残った。
人の流れが途切れるのを待って、踵を返した。
暖簾をくぐるなり、小豆の甘い匂いがふっと鼻をかすめた。
さっき目に留まった菓子を指さす。
「これ、一箱ください」
受け取った包みを提げて駅へ戻った。
次の列車には、まだ間に合う。
そのままホームへ向かいかけたところで、先の方に古い商店が続いているのが見えた。美佐子は携帯電話を取り出して時刻表を開き、少し眺めた。
一本遅らせればいい。
画面を閉じて携帯電話を鞄へ戻すと、今度は駅とは反対の方へ歩き出した。
*
古い商店をいくつか過ぎたころ、携帯電話が震えた。
『昼は?』
美佐子は道の端へ寄った。
『湯波そば食べた』
送ると、ほとんど間を置かずに返事が来た。
『こっちは鮭』
美佐子の足が止まった。
画面には、魚の名前だけがあった。
肩が揺れた。
「なにそれ」
鮭だけって。熊じゃないんだから。
前を歩いていた老夫婦が振り返りそうになり、美佐子は口を閉じた。
携帯電話を鞄へ戻すと、腕を下ろした拍子に和菓子屋の紙袋が肘に当たった。その小さな感触を連れて、美佐子はまた町を歩き始めた。
*
健一が家に着いたのは、三時少し前だった。
玄関を開けて、
「ただいま」
と言ってから、靴を脱いだ。
返事はない。
鞄を居間へ運び、ファスナーを開けて、洗濯する服を一つずつ取り出した。旅先で着ていたものが鞄から出てくるたび、旅行が急に終わっていくような気がした。
底に薄い色の布があった。
引っ張り出すと、美佐子のカーディガンだった。
「あったじゃないか」
広げて椅子の背へ掛けると、袖が床へつきそうになったので、床につかないところまで掛け直した。
洗濯機を回してからテレビをつけ、ソファへ腰を下ろした。
画面では知らない芸人が笑っていた。なんとなく声が大きく聞こえて、音量を二つ下げた。それでも次の笑い声がやけに響いたので、テレビを消すと、今度は洗濯機の回る音だけが聞こえた。
冷蔵庫を開けて中を眺め、一度は閉めた。ほかにすることもなく、また開けてみたが、さっきと同じものしか入っていない。
扉を閉めた先に、椅子へ掛けたカーディガンがあった。
健一は上着を取った。
*
スーパーでは、自分の寿司はすぐに決まった。
もう一つを手に取り、蓋越しに中身を眺めて棚へ戻す。隣のものにはイクラが入っていた。健一は二つを並べてから、そちらを籠へ入れた。
帰宅して、寿司を二つ並べて冷蔵庫へしまい、洗濯物を干した。それから携帯電話を取った。
『寿司買った』
送った。
*
美佐子は、そのころには普通列車にも飽き始めていた。
一人で乗る最初の一本は面白かった。知らない駅名を見て、知らない人が降りていくのを眺めたし、次の列車も悪くなかった。
それが三本目になるころには、景色より先に座る場所を探すようになっていた。
東武の普通列車を乗り継ぎ、途中からJRへ移るころには、車窓から山がほとんど見えなくなっていた。畑の向こうに住宅が増え、ホームも長くなり、乗ってくる人の荷物から旅行鞄が減っていった。
窓には自分が映っていた。右へ座り直し、しばらくして左へ戻る。足を組んでは、また下ろした。
携帯電話が震えた。
『寿司買った』
美佐子は画面を開き、窓の外を駅が一つ過ぎるのを待ってから、
『ありがとう。六時半くらいには着くと思う』
と返した。
足元の紙袋が列車の揺れで傾き、靴の先でそっと元へ戻す。
袋の中には、健一への土産が入っていた。
美佐子は窓の外へ向き直った。
見慣れた駅名が、一つずつ増えてきた。
*
六時半を少し過ぎて、玄関の鍵が回った。
「ただいま」
「おう」
健一が居間から出てきた。
美佐子は靴を脱ぎながら肩を回した。
「疲れた」
「そりゃそうだろ」
健一の視線が、朝より増えた紙袋で止まった。
美佐子は紙袋の持ち手をつまみ直した。
「でも、楽しかった」
「ならいいけど」
居間の椅子には、カーディガンが掛かっていた。
「あった」
「鞄の底」
美佐子は袖をつまんだ。
「ちゃんと探した?」
「探した」
「見つからなかったじゃない」
「お前も探しただろ」
美佐子はカーディガンを畳んだ。
「寿司、冷蔵庫」
「お腹空いた」
「そば食ったんだろ」
畳み終えたカーディガンを、美佐子が膝へ置いた。
「お昼でしょ」
「そうだけど」
カーディガンを置くと、今度は紙袋を持ち上げた。
「これ」
「何」
「お土産」
「また買ったのか」
「途中で」
箱を取り出すと、大きな栗の絵が描かれていた。
健一の手が止まった。
「栗まんじゅう?」
「栗のやつ」
健一は立ち上がり、旅館から持ち帰った土産袋を探った。
「俺も買った」
「え?」
もう一つ箱が出てきた。こちらには、昔風の文字で栗まんじゅうと書いてある。
二つを食卓に並べ、美佐子は比べて笑った。
「健一さんの栗まんじゅうより大きい栗まんじゅうよ」
健一は美佐子の箱を手元へ寄せた。
「これ、どら焼き」
「細かいねえ」
美佐子は箱を健一の方へ押した。
健一は箱を一度裏返し、また表へ戻したが、それ以上は言わなかった。
*
夕食のあと、美佐子は下今市の蕎麦屋の話をした。
「駅から歩いたところにね、古いお蕎麦屋さんがあって」
「うまかった?」
「おいしかったよ。湯波のお蕎麦と、舞茸の天ぷら」
美佐子が携帯電話を取り出した。
「こういうところ」
写真には、低い軒に暖簾、木の柱が写っていた。店の奥には、年輪が浮き出る大きな輪切りの衝立の端も写っている。
健一は身を乗り出した。
「それなら食えるだろ」
美佐子は携帯電話を引いた。
「一緒だったら、やめとけって言ったよ」
「言わないよ」
「言う」
「何で」
美佐子は写真を見せたまま、顎を引き、眉を寄せた。
「ここ、入るの?」
健一が黙った。
美佐子の口元が上がる。
「ほら」
「それは確認だろ」
「はいはい」
健一も笑った。
食卓の端には、二つの栗の箱が並んでいた。
健一が片方へ手を伸ばし、蓋へ指が触れたところで、美佐子が立ち上がった。
「お茶、もう一杯いる?」
「いる」
健一は箱を持ち上げ、美佐子へ差し出した。
「これ、そっち置いといて」
「なんで?」
「あると食うから」
「自分で我慢すればいいじゃない」
健一が差し出したままにしているので、美佐子は受け取った。
「一個ずつね」
「二個」
「一個」
健一は何か言いかけたが、美佐子はもう一つの箱も重ねて持ち、そのまま台所へ向かった。
台所から水道の音がし、やがて火をつける音が続いた。食卓からは、栗の箱が二つともなくなっていた。
しばらくして、声がした。
「今日は、どっち食べる?」
健一は少し考えた。
「大きい饅頭で」
一拍置いて、美佐子の笑い声がした。
健一も口元を緩め、食卓に残っていた土産の紙袋を折りたたむ。
了




