第一章 午前零時の病院
スマートフォンが鳴ったのは、午前零時三分だった。
山本哲太は、原稿用のノートパソコンを閉じかけていた手を止め、画面に浮かんだ「非通知」の文字をしばらく見つめた。フリージャーナリストという仕事を十五年も続けていると、こういう時間にかかってくる電話にろくなものがないことは、頭よりも先に身体が覚えている。取材先からの急な訃報、情報提供者からの怯えた声、あるいは間違い電話。どれも似たような緊張を伴う。
「はい」
「山本哲太さんですね」
聞いたことのない、若い男の声だった。抑揚が薄く、まるで台本を読んでいるように聞こえた。感情がないのではなく、感情を出すことを禁じられているような、奇妙な平坦さがあった。
「聖嶺会メンタルセンターに来てください。今すぐに」
「――は?」
「理由はそちらで分かります。今夜、あの病院で起きていることを、あなたは知る権利がある」
電話は一方的に切れた。
哲太は数秒、暗くなった画面を見つめた。聖嶺会メンタルセンター。その名前を耳にするたびに、胸の奥がわずかに軋む。十五年前、父・山本修司が息を引き取った場所。公式には「心不全」。だが、その病院が精神科の巨大な閉鎖施設であり、父が「精神疾患の患者」として記録されていたという事実は、いつまで経っても哲太の中で消化しきれない小骨のように残り続けていた。
あの頃の哲太はまだ二十三歳で、記者になったばかりだった。父の死を知らされたときも、悲しみより先に、腑に落ちなさが胸を占めた。修司は元来、頑健な男だった。心臓に持病があるなど、聞いたこともなかった。だが当時の哲太には、それを疑う余裕も、疑うための材料もなかった。
迷ったのは、五秒だった。
哲太は上着を引っかけ、車のキーを掴んだ。取材ノートとICレコーダーをバッグに突っ込みながら、自分がすでに、記者としての本能で動き出していることに気づいていた。
深夜の首都高は空いていた。フロントガラスの向こうに、山あいに建つ聖嶺会メンタルセンターの照明が、いつもより異様に明るく見えた。まるで施設全体が、何かに向けて灯りをつけたままにしているようだった。
正門の手前で、哲太は車を停めざるを得なかった。すでに数台のパトカーが赤色灯を回し、規制線が張られている。制服警官たちが忙しなく無線でやり取りをしながら、正門周辺を固めていた。救急車も一台、エンジンをかけたまま待機していたが、誰かを運び出す様子はない。
「今、中には入れません」
規制線の前に立った若い警官が、哲太を押し留めた。
「何が起きているんですか」
「詳細は――」
警官が言い淀んだ、その時だった。
病院の正面玄関の自動ドアが、ゆっくりと開いた。
中から出てきたのは、武装した犯人でも、逃げ惑う職員でもなかった。
パジャマや部屋着姿の、ごく普通の人々――おそらくは入院患者たちが、数人、玄関先に並んで立っていたのだ。彼らは逃げようとしているようには見えなかった。むしろ、外を、じっと観察しているようだった。
警官の一人が拡声器を構え、呼びかける。
「そちらの方々、落ち着いて外に出てきてください。危害は加えません」
返事はなかった。
患者たちは、ただ、玄関の内側に立ったまま、外の警察官たちを眺めていた。まるで、動物園の檻の外を見る動物のような、奇妙に静かな視線だった。誰かが叫ぶわけでもなく、誰かが泣き出すわけでもない。ただ、立っている。
哲太はその光景に、うっすらと寒気を覚えた。
これは、暴動ではない。
直感がそう告げていた。そして同時に、なぜ自分がこの場に呼び出されたのかという疑問が、腹の底で重さを増していった。




