最終話
十二月の第一週の日曜日に予定していた焼き芋パーティーは、当然のように自然消失した。
老犬シェリーが逝ってしまった二日間、萬狩は何もしなかった。どうにか三日目には落ち着き、朝からパソコンに向かって仕事を行い、午後は花壇と庭の雑草むしるという一人の生活が始まった。
少しは大人しくさせてくれるだろうと考えていたのだが、シェリーが亡くなって四日目の月曜日、仲西青年がいつもの時刻に彼の家にやって来た。
仲西は、萬狩の顔を見るなり泣き崩れ、聞きとれない言葉で、ご冥福をお祈りする、といった感じの固い台詞を口にした。「お前、そんな難しい言葉を使えたんだな」と萬狩がポツリと口にすると、仲西青年は、泣きながらどうにか苦笑を浮かべてくれた。
その数分違いで、何故だか仲村渠も、当然のような顔でやって来た。
仲村渠獣医は、玄関先で咽び泣く仲西青年を無視し「このたびは、本当にお疲れ様でした」と、珈琲とお茶の袋の手土産を手渡してきた。続いて数分の誤差でやって来たのは古賀で、こちらは仲西を見て、つられたように涙腺を緩ませた。
※※※
シェリーがいなくなったというのに、相変わらず彼らの訪問は続いた。
仲西青年は職場が近い事もあってか、週に三回は、昼休憩も兼ねて訪問してくる。月曜日には仲村渠と古賀も合流し、また更に次の週の月曜日も、男四人がリビングで珈琲とお茶を飲む光景が広がった。
クリスマスが数日後に迫った月曜日、男だけの食卓で、萬狩はとうとうその疑問を口にした。
「というか、なぜ俺の家に集まるんだ?」
「友人の家を訪れているだけですが、それが何か?」
白衣姿の仲村渠が、当然の顔で不思議そうに尋ね返してきた。
今は日中の月曜日だ。仕事着で身を包んだ仲村渠老人と仲西青年は、勿論、勤務時間中のはず――しかし萬狩は、彼らに常識を語るのは無駄骨だと悟って、早々に折れた。
先週の月曜日の話し合いで、何故かクリスマスイブに、焼き芋パーティーを行う事が決定されていた。夜には予定が入っている者もいるが、早い時間であれば全員の都合がつきそうだという事で、またしても萬狩宅のカレンダーには予定が追加された。
それを改めて思い返した萬狩は、目頭を丹念に揉み込んだ。ひとまず、彼らの訪問については一旦脇に置き「クリスマスの件は承知したが」と、どうしても理解し難い点だけに絞って尋ねた。
「まず、クリスマスイブに焼き芋ってなんだ。おかしくないか?」
「萬狩さん、夜は僕とケーキを食べましょうね!」
「断る。何が悲しくて、男二人でケーキを食べなきゃならないんだ」
「鍋をやるので、古賀さんカップルも一緒ですよ。それに翔也君達も、二十四日なら日帰りで来られるって言ってました! 鍋とケーキまでは食べて帰れるそうです」
「は? おまッ、あいつらも招待したのか!?」
いつの間にそんな事になっているんだ、と萬狩が問えば、仲西青年は「誘ってみたら、行くって返事があったんですよ、良かったですね」と陽気に答えた。
隣にいた仲村渠老人が呑気に笑って、「先週、メールでそれが決定しました」と参加メンバーについて説明し始めた。翔也と和也の他にも、弁護士の酒井夫婦が招待されているらしい。
確かに、先週「勝手にしてくれ」と言ったのは萬狩だが、そんな事になるとは思っていなかっただけに、彼は強い眩暈を覚えた。クリスマスイブに行われるという『焼き芋パーティー』に、よくそれだけの人間が集まったな、とも呆れてしまう。
すると、古賀が控えめに「あの」と切り出して発言した。
「クリスマスイブですから、仲西君がケーキも用意してくれるそうです。仲村渠さんと酒井さんは早めに退出しますが、その、大人数なので、鍋も楽しくなるかな、と……」
「…………」
今気付いたんだが、日中に焼き芋をしたあげく、続けて夕飯時には『鍋の会』までやるつもりなのか。芋・鍋・ケーキと、それぞれが食べたい項目を手っ取り早く全部詰め込んだだけ、という気がするんだが、俺の気のせいか?
萬狩が言葉を失って古賀を見つめるそばで、仲西青年が「実はですね~」と、家主の心情も読まず瞳を輝かせて得意げに言った。
「内間先輩に話したら、得意先からケーキを安く買えるという嬉しい情報を頂きました!」
久しぶりに聞いた名に、萬狩は、ピアノ教室の若い女性講師を思い出した。そう言えば、彼女は仲西の職場にいる先輩の妻だったはずだ。
すると、古賀が苦笑を浮かべて「ぼくが仲西君から聞いた話では」と、当日の予定について補足した。
「焼き芋で身体を温めつつ、鍋とケーキのどちらも楽しめる会、みたいな感じだそうです。夕飯時には、残ったメンバーで鍋も楽しめるから、マリナもすごく楽しみにしていました」
すると、仲村渠がしたり顔で「安心なさい、萬狩さん」と口を挟んだ。
「予定を開けられるよう、みな仕事を調整して頑張っていますから。私は院長権限で毎年お休みにしていますので、二十四日は朝から準備を手伝えますよ」
「ぼ、ぼくも手伝えます」
「実は僕も、途中からですが休暇が取れました! 内間先輩とケーキを持ってくるので、ちょっと遅れます」
「…………」
萬狩は、予想以上に大きくなっているクリスマスイブについて、叱りつけてやればいいのか、なんて事をしてくれたんだと言えばいいのか、俺は人見知りなんだと、らしくなく言い訳でもしようかとも考えたが――
呑気すぎる三人を見て、結局は項垂れて「勝手にしてくれ」と答えた。
※※※
クリスマスイブの当日は、仲村渠と古賀カップルが朝一番にやって来た。萬狩は、材料を持って来た彼らと共に、庭先に芋を焼く場所を用意した。
それから間もなく、仲西青年がやって来た。どうやら、注文していた二個のケーキをバイクで持ってくる事は難しかったらしく、今日は珍しく会社の車で駐車場に乗り込んできた。
しかし、運転手を確認した萬狩は、仲西が送られた身である事を察した。車で彼を送ってきたのは、例の内間という男で、互いが初の顔合わせを果たし、仲西青年を挟んで「どうも」とにぎこちなく短い挨拶を交えた。
その後、青いレンタカーで次男の翔也と、離婚成立後以来である長男の萬狩和也が到着した。
翔也もそれなりに身長はあるが、和也は更に拳一個分高い背丈をしている。すらりとした体躯の表情変化の乏しい美丈夫を見て、仲西が開口一番「格好良いですねぇ!」と評し、ストレートに正面から言われた和也が、僅かに眉根を寄せた。
「格好良いなぁ。どう見たって、萬狩さんとは似てないんですもん!」
「おい、どういう意味だ。俺の息子だと言っただろうが」
萬狩は少し緊張していた事も忘れて、思わず仲西の後ろ襟首を掴まえて、「迷惑を掛けるんじゃない」と和也から引き離した。同世代の男達の中では萬狩も背丈がある方だったが、こいつはそれを忘れているらしい、と苦々しく思った。
改めて長男と向かい合うと、なんだか緊張が戻って来た。和也とは離婚以来だったので、萬狩がどう声を掛けようか悩んでいると、翔也の方が先に口を開いた。
「父さん、お久しぶりです。飼っていた犬の事は、仲西さんから聞きました。会えないのが残念です」
「……あいつは、利口で賢い犬だった」
「うん、そう聞いています」
翔也が、見慣れない父の様子を感じ取って、ぎこちなく笑顔を作った。
その時、黒塗りの普通乗用車が、彼の自宅の駐車場に停まった。そこから降りてきたのは、先日に顔を会せたきりだった酒井弁護士で、彼は助手席から妻が降りてくるのも待たず、後部座席から一つの籠を取り出して、相変わらずの仏頂面で足早に向かってきた。
萬狩の新しい住居を見やっていた和也が、老人にしては背丈のあるブラックスーツの酒井に気付いて、疑問府を浮かべるように眉根を寄せて「どうも」と会釈した。酒井の方も、ようやく彼に気付いた様子で、そっと眉を顰めて「――これは、どうも」と淡々と言葉を返した。
和也の前で足を止めている酒井が手に持っていたのは、ペット用品で見掛けるピンク色の籠だった。そこからは、ひっきりなしに甲高い鳴き声が聞こえていた。
萬狩は、久しぶりに嫌な予感を覚えて、先に酒井へ声を掛けた。
「あの、酒井さん、このたびはどうも――」
「萬狩さん、これをどうぞ」
「は? いえ、なんだか犬らしい鳴き声がするのですが」
「仔犬ですよ、聞けば分かるでしょうに」
酒井は、萬狩の台詞を遮るように淡々と述べた。籠を下に置くと、萬狩の返事も聞かないまま、中から一匹の仔犬を取り出して、無造作に彼の前に突き出した。
それは、シェリーと同じコリー犬だった。膨れた腹の下を見れば、雄犬であると分かった。それはあどけない顔で萬狩を見ると「きゃん!」と、思わず耳を塞ぎたくなるほどの声量で元気良く吠えた。
萬狩が唖然としていると、酒井が眉一つ動かさずこう言った。
「シェリーとは兄弟だった犬と、血の繋がりのある犬が産んだ仔犬です。先月に産まれました。あなたが面倒を見て下さい」
「いや、あの、突然過ぎて困るんだが………言い方が決定事項なのも、おかしくないか?」
萬狩は、いきなりの展開に付いていけなかった。何を考えているのかも分からない酒井と、彼に片手で首根っこを掴まえられ、ぶらさげられている仔犬へ視線を往復させる。
「ちょうど里親探しに困っていた家族だったものですから、欲しい人がいると言ったら喜んでくれました。感謝の気持ちにと、ドッグフードをいくつかもらっております」
「既に断れないレベルだな」
おい、なんで決定事項のりように勝手にもらってくるんだ。こいつも、仲村渠や仲西と同じ、人の話も意見も全く聞かないタイプなのか?
すると、呆けたままの萬狩に、酒井が無愛想の表情のまま仔犬を押しつけた。
「あなたの家は、広い。ぐだぐだ言わずに、親切心で受け取りなさい」
傲慢とも思える口調で、酒井は、萬狩の手に仔犬を持たせた。
押しつけられた仔犬は、両手で持つと、その小ささが体重からも容易に伝わってきた。手も足も短く、勢い良く振られている尻尾も短い。萬狩が知っている犬とは、まるで違う生き物のように思えた。
途端に翔也が、「良かったじゃないですか、お父さん」と手を叩いた。
「早速名前を決めましょうよ」
「ツトム」
父親である萬狩と、再会の言葉さえ交わしていなかった和也が、仔犬を見つめたまま唐突にそう言った。
萬狩は、自由過ぎる二人の息子達を、苦々しい思いで睨みつけた。庭の方に視線を向ければ、仲村渠も仲西も西野マリナも、まるで反対意見はないという表情だ。常識人の古賀だけが、何か言いたげな眼差しで「大丈夫ですか?」と萬狩を見守っている。
それはそうだろう。相手は生物なのだ。
いきなり手渡されて、はいそうですか、と簡単に決められるものではない。萬狩は両手で仔犬を抱えたまま、しかし、まずは二人の息子達に視線を戻して、父親としてしっかり嗜める事から行った。
「そもそも、お前らはどこでその順応性を養ったんだ? ちなみに、ここには『ツトム君』がいるから無理だぞ。――……付けるんなら他の名前にしろ」
萬狩が唇を尖らせ、小さな声でぼそぼそと告げた途端、仲西が「飼うんですね!」と喜び飛び跳ねた。彼は「じゃあ『アレクサンドリア』!」と言いながら駆け寄って来て、萬狩から仔犬を取り上げる。
「うわぁッ、ちっちゃい! 可愛い!」
「おい、こら。仔犬を振り回すんじゃない」
若干慌てた萬狩の言葉も聞かず、仲西青年は、初対面の和也と酒井がいる事も忘れたように、仔犬を両手で抱えて回り出した。すると、仔犬は何が楽しいのか、抱えられてぐるぐると回されたまま、甲高い声で合唱のようにキャンキャンと吠え始めた。
仲西の後ろから、のんびりとやって来た仲村渠と古賀カップルも、仔犬の可愛さを称賛し、それぞれが名前の候補案を上げ出した。
「萬狩さん、私のナカンダカリという名前から取って、『カンダ』はどうでしょう?」
「私、『アユム』君も可愛いんじゃないかと思います」
「ぼ、ぼくとしては『ポン助』とか……」
「お父さん、カタカナが恰好良いと思いますよ。『ストレード』にしましょうよ」
「『ジョセフ』」
次々に名前の候補案が上がる中、酒井が「そういえば」と、別件を思い出したように仲村渠に声をかけ、庭へと歩き出しながら二人で話し始めた。
畜生、収集がつかなくなってきたなッ。
一人で奴らの暴走を止めるなんて不可能だ。そう頭を抱えた時、萬狩は、黒塗りの車から遅れて降りて来た女性に気付いた。そういえば、酒井弁護士は夫婦での参加だったと、遅れて思い出した。
最後に合流した酒井夫人は、背丈の低いふっくらとした笑顔の似合う女性で、近くに来るなりにっこりと微笑んだ。
「賑やかですわねぇ」
申し遅れました、酒井の妻ですわ、と彼女は実にスマートに名乗った。
この状況で悠長に自己紹介をするという事は、恐らく奴らと同類だ。そう悟って、萬狩はとうとう頭を抱えた。仲西と仔犬が煩過ぎて、翔也が兄に向かい「ほら、来て良かったでしょう?」と言う声と、「うむ」と無表情に肯き返す和也の様子を見逃した。
萬狩の頭の中は、一気に忙しくなった。今晩から共に暮らす事になってしまった仔犬を迎えるにあたって、急ぎ必要な物を頭の中で思い浮かべて、ハッとした。
ちょっと待て。必要なものはだいたい分かるが、俺は仔犬を育てた事はないぞ?
そう考えたところで、萬狩は「ん?」と顰めた顔を上げた。思えば、ここには動物の飼育に詳しい専門家が二人もいて、今も犬を飼っている弁護士と、飼育経験のある西野もいる事に気付いた。
萬狩が頭を抱えている間に、早々に友人の弁護士と移動して、ノンアルコールの缶ビールを開けた仲村渠が「萬狩さん」と呼んだ。
「さっそく芋を焼きましょう。私、朝ご飯を抜いてきたんですよ」
「おい。相変わらず自由な人だな」
萬狩は思わず指摘した。
騒々しい中に放り込まれている仔犬を見やれば、利口さの欠片も見えない楽しげな様子で、仲西青年に振り回されていた。見れば見るほど、子犬の表情は呑気で阿呆っぽさがあり、笑う仲西青年とよく似ているような気がしないでもない。
けれど何故か、シェリーがいなくなった時から胸に感じていた寒いような空虚感が、ほんのりと少しだけ、和らいだような気がした。犬種が同じせいか、思い出して胸はまだ痛むけれど、こんな騒がしさも悪くないなと思えた。
「――……やれやれ。とりあえず、名前を決めないとなぁ」
萬狩は、面倒そうな顰め面を作って歩き出した。
「全く、面倒な事になっちまった」
できるだけ仏頂面で言ったつもりだったが、口角が笑ってしまっている自覚はあった。それは萬狩本人だけでなく、ここにいる全員が一目見て分かってもいた。
里親に困っていた知人の笑顔と、まんざらではなさそうな萬狩の様子を見た酒井が、「谷川という男が推薦していたように、意外と面倒見がいい男ですね」と、口の中で呟いてノンアルコールのビールを飲んだ。