#032『透明なプリズム』
今回は、いままでとは少し毛色の違う作品を投稿させていただきました。
端的に言うと「痴漢冤罪もの」です。直接描写はしていませんが、苦手な方もいらっしゃるかもしれません。
『透明なプリズム』
九月の朝の通勤電車は、夏と秋がせめぎ合う特有の匂いがした。
車内に充満するのは、誰かの甘ったるい柔軟剤の香り。整髪料のツンとしたアルコール臭。洗い立てのシャツから匂い立つ微かな洗剤の匂い。そして、服の下に隠しきれない肌からの熱気と汗の匂い。
それらが、頭上の吹き出し口から降り注ぐ人工的な冷房の風にかき混ぜられ、密閉された空間の底の方に重く淀んでいる。
高校二年生の吉高涼佳は、車両の隅——ドアの戸袋の横に背中を預けながら、小さく息を吐き出した。
冷たいステンレスの壁越しに、車輪がレールを規則正しく刻む単調な金属音が、肩甲骨から背骨へと響いてくる。ガタン、ゴトンというその低い唸り声は、鼓膜の奥を心地よく揺らした。
周囲の高校生たちは皆、ワイヤレスイヤホンを耳に押し込み、スマートフォンの画面の中でそれぞれの世界に没頭している。
しかし、涼佳はイヤホンを着けていなかった。
周囲のノイズを遮断してしまいたい気持ちはいつもある。満員電車の中で他人の発する苛立ちやため息、衣擦れの音などを聞いていると、ひどく疲労してしまうからだ。
それでも、完全に耳を塞ぎ、視覚だけの世界に閉じこもってしまうのは怖かった。
自分がいまここに立っているという輪郭までが世界から溶け出して消えてしまいそうで。
窓の外に目をやると、東の空の強烈な朝日が、線路沿いのアスファルトを白く焦がしている。秋の気配は雲の形や空の高さにしか見出せず、地表にはまだ茹だるような残暑がしつこくへばりついていた。
涼佳の視線は、斜め前に立つ一人の初老の男性に向けられていた。
くたびれたグレーのスーツを着て、少し背中を丸めている。白髪の混じった頭には、整髪料の匂いはしない。彼は毎朝、同じ時間の、同じ車両の、まったく同じ位置に立っている。涼佳は心の中で彼を「読書家さん」と呼んでいた。
彼は満員電車の息苦しい喧騒など最初から存在しないかのように、いつも静かに、そして真剣に文庫本を読んでいる。手元には、使い込まれて飴色になった革のブックカバーがあった。右手で吊り革をしっかりと握りしめ、体を固定している。そして左手の手のひらだけで器用に本を支え、親指の腹でそっと撫でるようにページをめくるのだ。
カサッという微かな紙の擦れる音が、周囲の雑音の隙間を縫って涼佳の耳に届く。その指先の動きは、紙という脆弱な素材を心から慈しむような、どこか敬虔な祈りにも似た優しさを含んでいた。
決して乱暴に扱わず、物語の世界へ静かに沈潜していくその佇まい。
誰もが発光する小さな液晶画面に目を落とし、無表情に指を滑らせて情報を消費しているこの無機質な箱の中で、彼だけが別の豊かで静謐な時間を生きているように見えた。
涼佳は彼のその横顔を見るのが好きだった。
ふと、読書家さんのすぐ前に立つ女子高生に目がいった。
涼佳の通う高校とは違う、公立高校の紺色の制服。少し短く詰めたプリーツスカートに、肩まで伸びた明るい茶髪。彼女は眉間に深い皺を寄せ、猛烈な勢いでスマートフォンの画面をフリックしていた。両耳にはイヤホンが押し込まれている。時折、チッという舌打ちのような息の漏れる音が聞こえ、小さな肩が小刻みに揺れていた。
満員電車特有の、パーソナルスペースを無理やり侵される不快感と、押し寄せる人波に対する苛立ちと戦っているのだろう。彼女の周囲だけ、空気がささくれ立っているように感じられた。
そして、読書家さんのすぐ背後には、大きな黒いリュックサックを前抱えにした若い男が立っていた。黒いキャップ帽を目深に被り、男の顔はよく見えない。
電車がカーブに差し掛かり大きく揺れるたびに、周りの人と肩や腕がわずかに触れ合いそうになる。
少し離れた座席の端には、学校指定の革鞄を胸の前で抱え込むようにして座っている、小柄な女子中学生の姿があった。彼女もまた、この息苦しい空間から逃れるように、ずっと俯いて膝のあたりを見つめている。
涼佳は眩しい朝日を避けるように窓ガラスの反射に目を移した。
白く光る硝子の向こう。
乗客たちの無表情な顔が何層にも重なって揺れている。読書家さんの静かな横顔の、さらにその奥。黒いキャップ帽の輪郭が濁った鏡の底に小さく混じっているのが見えた。
外を流れる景色をぼんやりと眺める。
今日も、いつもと同じく退屈で、少しだけ息苦しくて、けれど平穏な一日が始まるはずだった。
――その時だった。
「きゃぁっ! やめてよ!」
耳をつんざくような、甲高い悲鳴が車内に響き渡った。
涼佳はビクッと肩を跳ねさせ、背中を強くステンレスの壁に打ち付けた。
心臓がドクンとひどく嫌な音を立てる。
弾かれたように視線を戻すと、先ほどの女子高生が、読書家さんの左腕を両手で力一杯掴み、顔を真っ赤にして睨みつけていた。彼女の瞳には明確な恐怖と、それを上回る激しい嫌悪の火が灯っている。
「この人、痴漢です! いま私のお尻を触りました!」
女子高生の震える声が、密閉された車内に異様な響きを持って落ちてきた。
レールのきしむ音や、モーターの唸り声さえも遠のいたかのような、不気味で重たい静寂が数秒間続いた。
そして次の瞬間、周囲の乗客たちが一斉に二人から、まるで汚いものから逃れるように、距離を取り始めた。まるで波が引くように。
次いで、冷ややかな、あるいは好奇と軽蔑に満ちた視線が、一斉に読書家さんへと突き刺さる。
空気が一変した。
先ほどまでの生ぬるい空気は、一瞬にして見えない刃物のような緊張感へと変わり、涼佳は口の中が急にカラカラに渇き、舌の付け根に苦い金属のような味が広がるのを感じた。
「え……? いや、私じゃない。私はなにも……」
読書家さんは突然の出来事に完全に狼狽していた。顔面は見る間に蒼白になり、掴まれた左腕を振り解くこともできず、ただおろおろと周囲の顔を見回している。右手はまだ吊り革を固く握りしめていたが、左手は女子高生に掴まれて激しく揺さぶられたため、彼が大切にしていた革カバーの文庫本が手から滑り落ち、ドサッと鈍い音を立てて車内の床に転がった。
「嘘つかないでよ! さっきからずっと後ろから当たってきて、気持ち悪いって思ってたんだから!」
女子高生は泣き出しそうな声で叫びながら、さらに強く読書家さんの腕を引き寄せた。
「本当に違います。私は本を読んでいて……ほら、両手は塞がっていたんです。どうか信じてください!」
「言い訳しないでよ! 次の駅で降りて!」
周囲の冷たい視線は、すでに読書家さんを「卑劣な犯人」として完全に断罪していた。
誰も彼を助けようとはしない。
舌打ちをする若いサラリーマン。
迷惑そうに顔をしかめ、自分の鞄を引き寄せる中年の女性。
涼佳は胸の奥で、心臓が痛いほど早鐘のように打つのを感じていた。
違う。あの人はやっていない。
涼佳はずっと彼を見ていたのだ。彼の左手はずっと文庫本を支え、右手は吊り革を握っていた。痴漢などできるはずがないし、そんな素振りすら一切なかった。
言わなきゃ。あの人は無実だと。
しかし、声が出ない。喉の奥がひどく強張って、なにかが張り付いたように塞がっている。足は床に縫い付けられたように一歩も動かない。
怖い。関わりたくない。ここで声を上げれば、自分もこの異様な空間の標的にされてしまう。大勢の大人たちが黙っている中で、ただの高校生である自分がなにを言えるというのか。
なにより、自分には証拠がなかった。「見ていた」という言葉だけで、この狂乱した空気を覆せるわけがない。
やがて、プシューという鋭いブレーキ音と共に、電車は駅のホームへと滑り込んだ。
ドアが開くと同時に、むせ返るような外の熱気が車内にどっと流れ込んでくる。
「駅員さん! 駅員さん呼んで!」
女子高生は読書家さんの腕を強く引いて、ホームへ飛び出した。周囲の乗客が数人、我先にと駅員を呼びに走る。読書家さんはもはや抵抗する気力も失ったのか、項垂れたまま、引っ張られるようにしてホームの端へと連行されていく。
涼佳も人波に押されるようにして電車を降りようとした。
その時、足元になにかが転がっているのが見えた。
革カバーの文庫本だ。
読書家さんが落としたものだった。
人々が慌ただしく降りていく中、本は誰かの靴に蹴られ、少しだけページが折れ曲がってしまっていた。
涼佳は咄嗟にしゃがみ込み、その文庫本を拾い上げた。ひんやりとした革の手触りと、少しだけついた床のホコリを無意識に指で払う。
本を両手でぎゅっと握りしめたまま、涼佳はホームに降り立った。
ツクツクボウシの狂ったような鳴き声が、やけに現実離れして耳に突き刺さる。
涼佳の視界の端で、先ほど読書家さんの背後に立っていた黒いキャップ帽の男が、野次馬の輪から逃れるようにして、足早に反対側の階段へと向かおうとしているのが見えた。男は一度だけ後ろを振り返った。連行されていく読書家さんを見て、口元がわずかに歪んだ。
涼佳の背筋に冷たいものが走った。
――まさか。
涼佳の全身の血が、音を立てて逆流するような感覚があった。
あの静かで優しい時間を理不尽に奪われ、いわれのない罪を着せられようとしている読書家さんの絶望的な背中。
それを嘲笑うかのように逃げ去ろうとする真犯人。
このまま見過ごせば、自分は一生、この朝の光景を思い出すたびに自分自身を激しく軽蔑することになる。
握りしめた文庫本の感触が、涼佳の背中を強く押した。
涼佳は、震える足を踏み出した。
「……待って……待ってください!!」
声は、自分でも驚くほど大きく、高く、ホームの喧騒と蝉の声を切り裂いて響き渡った。
駅員室の前で言い争っていた駅員たち。
泣きじゃくる女子高生。
青ざめて俯いていた読書家さん。
そのすべてが一斉に涼佳の方を振り向いた。
「きみ、どうしたの? いまちょっと取り込み中なんだ。危ないから下がっていて」
駆けつけた若い駅員が制止するように手を出したが、涼佳はそれを無視して、読書家さんと女子高生の間に割って入った。肩で荒く息をしながら、両手で文庫本を強く胸の前に抱きしめる。
「人違いです。この人じゃ、ありません……! この人は、やっていません!」
「え? きみ、なにを言ってるの。こっちの彼女は被害に遭ったと言っているよ」
「違います! 私、ずっと見てました。この人は、ずっと両手を使って本を読んでました。右手は吊り革、左手は本です。絶対に触れるわけがありません!」
涼佳の必死の訴えに、女子高生がカッと目を見開いた。
「なんなのあんた! 私が嘘をついてるって言うの!? 実際に触られたんだよ!」
「あなたが嘘をついているとは言ってません。でも、触ったのはこの人じゃないんです!」
「じゃあ誰がやったって言うのよ! 証拠はあるの!?」
女子高生のヒステリックな叫び声が、物理的な圧力を持って涼佳の顔に叩きつけられる。
「証拠は……」
涼佳は言葉に詰まった。
証拠なんてない。写真もなければ動画もない。ただ、自分の目が見ていたというあやふやな記憶だけだ。
「私、見ていたから……」
「そんなの証拠にならないじゃない! あんた、このおじさんの知り合いでしょ! 庇ってるんでしょ!」
周囲を取り囲んでいた野次馬たちからも、「なんだあの高校生」「証拠もないのに口出しするなよ」「朝から迷惑だな」という冷たい囁き声が漏れ聞こえてきた。
涼佳の膝がガクガクと震え始めた。鼻の奥がツンと痛くなり、視界がじんわりと涙で滲む。
握りしめた文庫本が、ただの重たい紙の束に感じられた。
「でも……この人は犯人じゃない……」
「だったら、やってないっていう証拠を出せよ!」
やっていないという証拠……。そんなの、あるはずがない……。
もう駄目だ。私の声は誰にも届かない。
読書家さんが、痛ましく顔を歪め、涼佳に向かって「もういいんだよ、お嬢さん。ありがとう」と微かに首を振った。自分が犠牲になればこの場が収まるとでも言うようなその諦めの表情が、涼佳にはなによりも辛かった。
涼佳が唇を強く噛み締め、悔しさに俯こうとした、その時だった。
「……あの」
鈴を転がすような、しかしひどく震える小さな声が、人垣の後ろから聞こえた。
皆が一斉に声のした方へ視線を向ける。
そこに立っていたのは、車内の座席に座っていた、あの小柄な女子中学生だった。学校指定の重そうな革鞄を胸の前で両手で抱え込み、怯えた小動物のように肩を縮こまらせている。けれど、その大きな瞳だけは、涙ぐみながらも真っ直ぐに女子高生と駅員を見据えていた。
「……私、座席に座っていて……見てました」
「えっ?」と駅員が間抜けな声を漏らす。
女子中学生は、一度だけ涼佳の方を見て、怯えを振り払うように強くこくりと頷くと、再び口を開いた。
「そちらのおじさんは、本当に両手が塞がっていました。だから触れるわけ……ないんです」
彼女は声を震わせながら、必死に声を紡いでいた。見ているのが痛々しいほどの声だった。
「じゃあ、誰が私を触ったのよ!」
「……手は、別のところから伸びてきたんです。あそこの……」
彼女は震える指先を、ホームの階段へ向かおうとして、騒ぎの行方を窺うように立ち止まっていた、黒いキャップ帽の男へと向けた。
「あの、黒い帽子の人の手が、お姉さんのスカートのほうに伸びていくのを……私、はっきり見ました。二回も……」
空気が、完全に静まり返った。
風が吹き抜け、涼佳の頬を冷やしていく。
女子高生が、信じられないものを見るように、女子中学生と、そして黒い帽子の男を交互に見る。
「嘘だろ……」
黒いキャップ帽の男が舌打ちをし、踵を返して階段へ向かって猛然と駆け出そうとした。
しかし、その動きよりも早く、周囲を取り囲んでいた野次馬の大人たちが動いた。
「おい、待ちなよ」
先ほどまで読書家さんに冷たい視線を送っていたサラリーマンや、体格のいい大学生の乗客が、無言のまま男の前に立ちはだかり、その行く手を塞いだのだ。
「なんだよ! どけよ!」
「まあ待てって。誤解なら、駅員さんの前で堂々と晴らせばいいだろ。逃げるってことはそういうことか?」
男は力任せに壁を突破しようとしたが、数人の大人たちに腕を掴まれ、あえなくその場に引き倒された。ホームに男のくぐもった叫び声と、リュックサックがコンクリートに叩きつけられる鈍い音が響き渡る。
その拍子に、男の頭から黒いキャップ帽が床へと転がり落ちた。
露わになったその顔は、見苦しく歪んでいる。しかし男は、大人たちに組み敷かれ、頬を冷たいコンクリートに押し付けられながらも、首だけを蛇のように奇妙な角度でねじ曲げ、涼佳の方をじっと凝視した。
帽子のつばに隠されていた男の双眸が、初めて白日の下に晒される。それは怒りに血走りながらも、どこか恐ろしいほどに冷徹で、涼佳と中学生の少女を網膜の奥へ執拗に刻みつけようとする、粘着質な狂気を孕んでいた。
一瞬、涼佳の心臓が凍りついた。
それからのことは、まるで早送りの映画を見ているようだった。
駆けつけた警察官による現場での事情聴取。女子中学生の明確な目撃証言と、確保された男の不自然な態度が決定打となり、男はそのまま連行されていった。
被害者の女子高生は、自分の勘違いがひとりの善良な人間の人生を完全に壊しかけたことに気づき、その場にへたり込んだ。顔を覆い、声を上げて泣き崩れる。
「ごめんなさい……ごめんなさい、私、パニックになっちゃって……本当に、ごめんなさい……!」
彼女は読書家さんに向かって、何度も何度も地面に擦りつけるように頭を下げた。怒りの涙ではなく、深い後悔と安堵から来る涙だったのは、誰もが理解していた。
読書家さんは、そんな彼女の目の前にしゃがみ、穏やかな視線でゆっくりと首を振った。
「いいんだ。きみも、とても怖くて、辛かっただろうから。……本当の犯人が見つかって、本当によかった。もう泣かなくていい」
その声は掠れていたが、秋の初めの風のように、ひどく穏やかで温かかった。
すべての手続きが終わり、涼佳と女子中学生が駅の改札を出た時には、すでに始業時間をとうに過ぎていた。
駅前の広場に出ると、朝の凶暴な陽射しは少し和らぎ、代わりにどこからか金木犀の微かな甘い香りを乗せた風が吹き抜けていった。
「あの……」
不意に背後から声をかけられ、涼佳は振り返った。
読書家さんが立っていた。彼は涼佳と女子中学生の前に進み出ると、深く、深く頭を下げた。
「お嬢さんたち。本当に、なんとお礼を言っていいか……。あなたたちが勇気を出して声を上げてくれなかったら、私の人生は今日で完全に終わっていたかもしれない。本当にありがとう」
涼佳は慌てて手を振った。
「やめてください。私、結局証拠なんて出せなくて……なにもできませんでしたから」
「そんなことはない」
読書家さんは顔を上げ、目尻に深い皺を刻んで優しく微笑んだ。
「あなたが最初に、あの恐ろしい空気の中で『違う』と叫んでくれた。その勇気があったからこそ、そちらのお嬢さんも声を上げることができたんだ。あなたの声は、間違いなく私を救ってくれたんだよ」
その言葉を聞いて、隣に立つ女子中学生が、顔を真っ赤にしながら小さく頷いた。
「私……ずっと怖くて、座席で俯いてたんです。でも、お姉さんが一人で立ち向かっているのを見たら、私だけ黙っているのは絶対に駄目だって……そう思えました。お姉さんが声を上げてくれたおかげです」
涼佳は、胸の奥で何かが静かに、けれど熱く溶けていくのを感じた。
ハッと思い出し、両手で抱え込んでいた文庫本を前に差し出した。
「あの、これ……車内に落ちてました。ページ、少し折れちゃいましたけど……」
読書家さんは目を丸くし、それから本当に嬉しそうに目を細めて、両手でその本を受け取った。
「ああ、拾ってくれていたのか。……ありがとう。これは私にとって、とても大切なものなんだ」
彼は革カバーについた微かなホコリを愛おしそうに手で払い、胸に抱いた。
読書家さんと女子中学生と別れ、涼佳は一人、高校へ続く緩やかな坂道を歩き始めた。
遅刻は確定だが、不思議と足取りは羽が生えたように軽かった。
見上げる空は、吸い込まれそうなほど高く、透き通った秋の青色をしている。
頬を撫でる風の心地よい冷たさ。遠くから聞こえる、小学校のグラウンドの子どもたちの歓声。街路樹の葉が擦れ合う、サラサラという音。アスファルトの匂いに混じる、微かな秋の気配。
涼佳は大きく深呼吸をした。
肺の奥まで澄んだ空気を吸い込むと、自分の中にあった見えない壁が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
今日から、イヤホンは鞄の奥にしまっておこう。
涼佳は、このノイズだらけで愛おしい世界にもう一度耳を澄ませながら、光の溢れる坂道を駆け上がっていった。
二週間後に、この作品の続編を投稿する予定です。
今作と共にお楽しみいただけると、幸いです。




