虚ろなる聖女の影
王都の混乱がようやく落ち着きつつある頃――公爵は、ひそかに各地の有力者や善良な貴族を集めていた。
彼の耳には、ある噂が届いていたからだ。
――王太子の動きが、不穏だ。
あの騒乱の最中、王太子は己の手柄を誇示し、聖女と結託して民衆を惑わした。表向きは「王家の威光を示した」つもりなのだろうが、裏では第一騎士団を勝手に動かし、民衆と第三騎士団の間に亀裂を生みかけた。
その余波はまだ燻っている。
放置すれば再び火が上がるのは目に見えていた。
そして今、公爵の読みは現実となった。
玉座の間に集められた民衆の前に、王太子と聖女が現れたのだ。
王太子は声高に自らの功績を語ろうとし、聖女は涙を浮かべながら「民を救ったのは王家と聖女の祈り」だと強弁する。
第一騎士団がこれを後押しし、空気はふたたびざわめきに包まれていった。
だが、公爵は一歩前へ出て、毅然と声を響かせた。
「殿下は先の魔獣騒動により深く心を病まれたと聞く。お言葉も、正気を失っておられるのやもしれぬ」
「不敬な!! 私が病んでいるだと!? 私は正気だ、正気だとも!」
王太子は顔を真っ赤にして叫ぶが、その姿は逆に取り乱した印象を与える。
その時、公爵の傍らに控えていた護衛が、心配そうに歩み寄った。
「殿下、どうかお休みを……」
囁くように言葉をかけ、そのまま腕を支える。
直後、王太子は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「殿下!!」
聖女の悲鳴が広間に響き渡る。
だが、その表情に憐憫よりも焦燥が浮かんでいることを、公爵は見逃さなかった。
「これは公爵の陰謀です! 殿下を貶め、王家を奪おうとしているのです!」
聖女は指を突きつけて糾弾するが、公爵は冷静に応じる。
「では、こうしてはどうか。ここで聖女殿の力を示していただこう。あなたの奇跡が真ならば、殿下の病も癒えるはず」
ざわめく群衆。
聖女は一瞬言葉を失い、やがて口を開いた。
「そ、それは……今は無理なのです! 民の信仰が足りぬゆえ、力を発揮できぬのです!」
その言い訳を、公爵は逃さなかった。
「なるほど。ならば、まずはここで祈りを。民は見届けよう」
第一騎士団が「馬鹿な!」と声を荒げ、反対の声を上げる。だが勢いに任せて逆に「では儀式を行え」と言質を与えてしまった。
こうして強引に始まった「聖女の儀式」。
だが、いくら祈りを捧げても、奇跡は訪れなかった。
沈黙が広間を支配する。
「……やはり、もう聖女の力はないのだな」
公爵の言葉が、重く響く。
民衆の間に、戸惑いと同時に冷ややかな確信が広がっていった。
「ち、違う! これは……これは信仰が足りないせいよ!」
聖女は震える声で叫ぶ。涙をにじませ、必死に手を掲げるが、光は降りない。
彼女の白い指先は震え、声は裏返る。
「こんなの……おかしいわ。だって、私は選ばれたヒロインなのよ? この世界では、みんな私を助けて、愛してくれるはずなのに!」
「……?」
民衆の間に、困惑が走る。誰も、彼女の言葉の意味を理解できない。
「カイル殿下も、騎士団長も、みんな私を守るはずだった……! これはゲームのはずなのに、なんで……なんでうまくいかないのよ!」
聖女は顔を覆い、笑いとも泣きともつかぬ声を漏らす。
「これは……バッドエンドなんて、嘘よ……私は……こんなところで終わらない……!」
その姿に、人々は恐れを含んだ沈黙を返すだけだった。
信仰の対象だったはずの“聖女”は、いまや壊れかけた少女でしかない。
公爵は一歩、前に出た。
「――彼女を、休ませてやれ」
護衛がそっと近づき、聖女を抱きとめる。彼女はなおも叫び続けたが、その声はやがて涙に溶けて途切れた。
公爵は静かに息を吐き、広間を見渡す。
「これが現実だ。聖女の時代は終わった。我々は、自らの手で国を立て直す」
その時――アリアと視線が交わる。
アリアは無言で頷き、公爵もまた小さく応える。
言葉はなくとも、互いに理解していた。
彼女の築いた礎の上で、国を再び立ち上げると。




