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その日の晩、深雪は上機嫌で鼻歌を歌い、夕食の準備をしていた。
旦那は頼まれると意地になって探す性格だ。
絶対に犬を連れて来るに違いない。
明日からは可愛い子犬がいる生活だ。
自然と顔も緩む。
その時チャイムが鳴り、急いで玄関に走って行った。
「犬は!?」
「第一声が犬かよ」
コウイチは疲れた顔で苦笑いを浮かべ、靴を脱いで部屋に上がる。その手には、ゲージらしきものはない。
「犬は?」
ドアから顔を出し、廊下を見る。やはりどこにも姿はない。
「お前のメールが悪い。ウェルシュなんて言われてわかるわけないだろ?コーギーって言えよ、コーギーって」
溜め息を吐き、ネクタイを緩めてソファーに座る。
「でもわかったんでしょう?だったらなんで?」
「さっきネットで調べて初めて気付いたんだよ。これでも10件のペットショップを回ったんだからな」
そう言う彼の顔は、確かに疲れきっている。
それを見て、もう何も言えなかった。
ただ残念そうに目を伏せ、俯く。
「そんな顔しないで。誰も飼わないなんて言ってないだろう?明日、一緒にペットショップに行こう。自分で見て決めた方がいいよ」
「ありがとう!」
食事の支度に戻る為にキッチンに向かう。
頭の中は、犬につける名前でいっぱいだ。
「腕が治ったら、一緒に旅行に行こうか。国内でも国外でも構わないよ。好きな場所に」
「本当?嬉しい!」
始めたばかりの食事支度を止め、振り向く。
犬に旅行。楽しい事尽くしだ。が、ふとある事を思い出した。
「でも会社は休めるの?」
心配そうに言うと、コウイチ笑みを浮かべて振り向いた。
「当然。なんたって俺は、社長だから」
その自信たっぷりの顔は、正しく社長の近藤公一だ。
傍若無人で、黙っていれば男前なのにと言われる程、口の悪い男。
「そうよね。公は社長だものね」
社長ならば尚更、長期休暇を取ってはいけない様な気もする。
しかし、以前公一が不在だった時の瑞穂達の喜び様を思い出すと、寧ろその方がいいかと考え直した。
「あ、そうだ。これ見てよ」
料理を並べていると、ふいに公一は嬉しそうに鞄から雑誌を取りだし、テーブルに乗せた。
「なに?」
手を止め、開かれたページを見る。
「ここ。この前、雑誌の取材が来たんだ。丸々2ページも俺の特集。凄いだろ」
確かにそこには『今注目の企業・若手実業家』というタイトルと、笑みを浮かべた公一の写真が数枚載っている。
「凄いじゃない。いつの間にこんなの撮ったの?」
雑誌を手に取り、記事を読む。
しかし難しい単語ばかりで、内容は全く理解できない。
理解できないが、褒められているのだけはわかった。
「前にアポがきて、受けたんだ。実業家ってのは言い過ぎだけどね」
しかし満更でもないらしく、その顔は悟るまでもなく嬉しそうだ。
「凄いわね。内容は……よくわからないけど。写りも良いし」
「だろ?だから今日、皆に自慢してきた。さりげなくだけど」
そう言う顔は、まるで子供の様だ。
オフィスモードとのギャップの差に笑いそうになりながらも、何気に名前を見る。
そこには大きな字で『近藤貿易商事 株式会社 近藤公一社長』とご丁寧にフルネームで書かれている。
そしてその下には、ルビ代わりにアルファベットで名前が。
「あ」
それを読んだ瞬間、深雪は小さく声を上げた。
「なに?」
「う、ううん。何でもない」
笑って誤魔化し、雑誌を閉じてキッチンに戻る。
瑞穂達もあれを見たとすれば、恐らくバレてしまっただろう。
コウイチが、新道以外にもいた事に。
聞かれたら、なんて説明しようか。
暫く考えたが、すぐに思い直した。
(まぁ……良いわよね。元々言う予定もあったし)
もしもメールで聞かれたら、素直に答えればいいだけの話だ。
私はこの会社の社長・近藤公一の妻、近藤深雪ですと。
終




