第十六話 -明くる朝-
モニカに告白された次の日。続きです。
「ん」
仄かな光。影が落ちる白雲の如き天井。自我を認めた意識の浮上と覚醒。然うして、俺の虚ろな意識は朝の到来を悟った。
俺は寝惚け眼で上半身を起こして、煌々と照り輝く橙色の灯火を眺める。どうやら、其のまま眠って仕舞った様だな。
然して、俺は目前を覆い隠す黒髪を梳くと同時に、昨夜の逢瀬を思い出した。
「ああ……」
嗄れた声音で吐き出した言葉は、此の心に巣食った感情の発露だった。
静寂に満ち満ちた今朝だが、意識の覚醒に歩幅を合わせて、胸中で騒ぐ憂愁は喧しい。彼の頃と何も変わらぬ憂悶が渦巻く内懐は、今朝の朗らかな陽気とは相反していた。
早朝の鐘を聞く前に、此の意識を急かす様に此の胸は早鐘を撞く。隣人の表情が脳裏を過れば、昨夜の逢瀬に触れて仕舞う。其の忘却を願えば、尚更に忘れ得ぬ記憶となって此の胸に蘇る。其奴こそが、彼の逢瀬を忘れていない証拠だった。
此の調子で迎える模擬戦闘訓練に不安が無いと言えば、吐く意味の無い嘘になる。だが、如何ともし難いのも事実だった。
俺は寝具を這って、床に据え置いた質素な履物に脚を通す。未だ冴えない頭を擡げて、寡黙な此処に立った俺は、大きく身体を反らした。
少し頭を冷やして、目を覚まそうか。
部屋の出口を辿る間に、魔力系統の操作盤を歩き様に操作して、部屋を染め上げる灯火の全てを落とした。
然うして、寝台の周囲を一瞥、影に融け込んだ扉を手前に引いた刹那、此の世界は白に染まった。
瞳を焼き焦がす白。世界を切り取った硝子窓に張り付いた荘厳な朝日。自然の威光に平伏した俺は、目を細めた。
背に回した右手で静かに扉を閉めて、硝子窓を右手側に廊下を進む。隣室と自室を隔てる棟中央を貫く廊下の手前に立って、白塗りの硝子扉を見据えた。
朝日と相容れない影を落とした白樺の木枠に、切り抜かれた朝日が映える。明朝の寡黙なる宴に紛れ込んだ俺は、両開きの硝子扉に手前の心を重ねて開け放った。
斯くして、解放的な空間に飛び出した俺の口からは、「おお」と、自然に捧ぐ感嘆の言葉が漏れた。
目に飛び込んだ陽光に引き寄せられる身体は、円弧を描く露台を真っ直ぐ進む。導かれる様に辿り着いた露台の端に据えられた手摺に腕を乗せて、俺は眼下に広がる眺望を眺めた。
第二棟と第三棟の端から広がる青々しい雑木林。其の切れ間から覗く第一区画イーリスと第二区画アイギスの街は、朝日に照り輝く色鮮やかな光点と成る。アルカディア公国の彼方から昇る天道は、自然の道理に倣って、世界を美しく染め上げた。
此の心の憂愁も、穢れさえも、純粋に染め上げた。
唯一、彼の存在を遮れる雲さえ切り裂いて、魔力障壁さえ意に介さず、煌々と降り注ぐ薄明光線が自然の織り成す美を強調した。
彼は何者なのだろうか。然う思い耽って過ごす暇、静寂を切り開く靴の音が鼓膜を叩いた。
間髪を置かず、聞こえた物音を追って、俺は咄嗟に背後を見返した。
「おはよ」
静寂に揺蕩う惚けた声音。見目麗しい撫子色の御髪が揺れて、白藍色の透き通った双眸は煌めく。間違いなく、淡色の小夜着を纏った隣人は其処に居た。
何時の間に居たのか。扉を開く音は聞こえなかったのだが……。
暫しの逡巡の末、「おはよう」と投げた俺の言葉に、彼女は微笑で返した。
「よく眠れた?」
「お陰様でな」
彼女の問いに他意を込めて、俺は微笑を湛える。吊り上げた口角は其の儘、俺は背後の手摺に背を凭れた。
「だと思った」
眉尻を下げて笑んだ隣人は、結わず撓垂れる髪を揺らして、此方に歩み寄った。
其の距離は一歩一歩と狭まり、遂に彼女は俺の隣に並んだ。然うして、手摺を掴んで身体を預けた彼女は、片手で口元を抑えて目を細めた。
「眠そうだな」
彼女の見事な欠伸に釣られて、俺も口を大きく開けた。
「よく眠れたんだけどな」
「ふうん?」
畝らず伸びる横髪を縒った彼女は、此方を一瞥、黄金色の手摺に顎を乗せた。
「まだ、疲れが取れてないみたい」
上目で上天を見上げる彼女は、鼻先に手前の掌を翳して、「鉄臭い」と、眉間に皺を寄せた。
俺が掴めず模索している微妙な距離感を、彼女は容易に掴んで、其の距離を詰める。見習う術も無く、「然うだな」と、彼女の会話に応答する事しか、俺には出来なかった。
「俺も、まだ抜けていないらしい」
俺は身体を捻って、手摺に腕を乗せた儘、身体を前に倒す。身体的な疲労は然程でも無いが……。
「如何せん、落ち着かないな」
眼下の眺望に想い巡らせる暇、「う」と、彼女は呻いた。
「へ、変に意識しなくて良いよ?」
「然うは言っても……」
目の端に映った彼女の困り顔に、俺は視線を向ける。其の瞬間に、一瞬だけ目を逸らした俺の意識が、前述の言葉を裏付けた。
然うして、「もう」と、困った様な憤った様な表情を浮かべた彼女は、手摺に置いた手の甲に横顔を据えて、此方を見詰めた。
「今は、気軽に話せる友達」
「と、友達?」
彼女の言葉は、俺の視線を再び手繰り寄せた。
「告白しちゃったけど。友達でいる間に私を知って、私のことが好きか。好きになれそうか。きっと、分かると思う」
「ああ……」
昨夜の逢瀬が、夢では無いと分かっていた。
だが、彼女の口から改めて聞けば、俺の心は羞恥に悶える。
「いつも一緒にいる人。シャル……だっけ?」
俺は頷く。然して、「じゃあ」と、彼女は口を開いた。
「彼女と一緒。今は、友達だよ」
然うして、手の甲を飾る撫子色を揺らして、彼女は笑った。
「友達……だよね?」
一瞬の停滞。言うや否や、彼女が見せた不安そうな様子に、俺は込み上げる感情が抑え切れず、思い切り吹き出して仕舞った。
其の様子を見た彼女は、「ええ」と、不満気な声を漏らす。
「そんな笑うとこ?」
「いや。すまん」
俺は手を振って、未だ吊り上がる口角を隠して、悪意は無いと示す。
「何故か、込み上げてな」
思えば、此処まで笑ったのは何年ぶりか。無意識に発露した手前の感情に驚いている自分が居た。
其の傍らで、彼女は顔を擡げて前を向いた儘、口を尖らせて剥れる。俺は陽光に照り輝く彼女を眺めて、手前の目元に溜まった涙を拭った。
「だが、友達か……」
呟いた言葉は、麗らかな虚空を彷徨って隣人の元に届く。其の不思議な魅力に塗れた言葉を、俺は脳裏で反芻した。
幾度も繰り返す其奴が、語り聞かせる意識に染み込んだ頃、俺は漸く口を開いた。
「然うと思えば、幾分も楽だな」
「そうだよ。それで良いんだよ」
煌めく双眸を瞼の裏に隠して、見上げる淡い大海原に漂う白雲を仰ぎ、眩い陽光を其の身に浴びる彼女に、俺は微笑を捧げた。
斯くして、「じゃあ」と、隣人は跳ねる様に身体を起こして、此方に向き直る。
「今日一緒に学校いこ?」
屈託の無い朗らかな笑顔。一瞬の逡巡も無用と思えた俺は、間髪を置かず頷いた。
「然うだな。行こうか」
然うして、世界を埋め尽くす光の中で、彼女は笑った。
左様だ。何も臆する理由は無い。憂い沈黙する理由も無い。然う容易く納得できる理由も無いが、優柔不断な俺の前で、彼女は二度も言って呉れた。
無駄に意識する必要は無いと、然う言って呉れたのだ。友人として親睦を深める間に、彼女の彼是を知って、其の果てに知れるのだろう。彼女に抱いた彼是の正体を、何時かの日に知れるのだろう。
霞んで見えない恋情の有無を想い、彼女を意識して仕舞うのは致し方ない。だが、憂悶の滑車に自ら嵌まって如何する。顔を合わせる度に目を逸らし、心を赤らめ、憂悶に沈んでいても面白くなかろう。
モニカが言って呉れた様に、ゆっくりで良いのだ。彼女は其の時まで待って呉れる。彼の街に居る幼馴染も待っていて呉れる。ならば、甘んじよう。手前の脆弱な心を育てながら、自分の歩調で弛まず行こう。此の焦燥感さえ楽しんで、自分なりに戦おう。
然して、俺は瞼を閉じた。
「何故か、清々しい気分だ」
陽光を映す瞼の裏に描いた根拠の無い希望。小夜の仄かな残り香を、俺は胸いっぱいに吸い込んだ。
「今日。頑張れそう?」
右の鼓膜を震わせる彼女の問いに、「ああ」と、俺は迷いなく答える。
「俺の敵は、魔族だ」
常軌を逸した能力を持つ彼等は、人間とは異根の存在。人間ならざる怨敵の掃討こそが、己が信条。今し方の憂愁を拭い去る様に、俺は瞼を開いた。
「人間が相手ならば、俺は負けないさ」
「うん。その意気だよ」
意気揚々と威勢良く決意を語れば、彼女は微笑んで呉れる。其の微笑が彩る今日は、きっと輝かしい色を放つのだろう。
然うして、見事な欠伸を見せて呉れる彼女を、俺は穏やかな心で以て眺めた。
「ちょっと、眠くなっちゃった」
緩い口調で呟いて、頭を左右に揺らせた儘、片目を擦る隣人を目の端に、俺は頷く。
「いい天気だしな」
透き通った暖気が包み込んだ風光明媚な此処には、俺さえ屈する睡魔が住まう。叙情的な光景が呉れる安らぎに、俺は尊い安寧の存在を想った。
其の間隙を縫って、「ミラ」と、気の抜けた声音で、彼女は俺の名を呼んだ。
「一緒に二度寝しようよ」
「うえっ⁉︎」
突然の勧誘に動揺した俺の心臓の叫声が、此の口を衝いて出る。紆余曲折を経て育まれた俺の想像の翼は、雄大に気高く蒼穹を羽撃く。彼女を異性と認識した俺の意識は、靄に覆われた此の心に、奇妙な欲を生み出した。
「え、遠慮しておく」
だが、其の得体の知れない魅力に溢れた提案を、俺は両手を左右に振って断った。
「ええ。残念だな」
優しいのか意地悪いのか分からない彼女は、只管に嫌らしい微笑を湛える。先日から緩急の激しい心臓を抑えた儘、「ったく」と、俺は肩の力を抜いた。
此の娘は……。
目まぐるしく変わる感情の正体は知れないが、俺の心は正直なのだと知る。俗な欲望とは無縁の生活を送っていた俺が、いざ斯く状況に置かれて仕舞えば、尚更に心は乱れた。
然うして、俺は手前の脆弱な心を思い出す。能く能く思えば、カノンとの逢瀬にも、思い当たる節は幾つか在った。
いかんな。心の臓が粉微塵に吹き飛んで仕舞いそうだ。
手前の雑念を取り払う様に、俺は目を思い切り瞑って、顔を地に伏せた。
斯くして、「ふふ」と、モニカは笑う。
「先に戻ってるね」
「あ、ああ」
勢い良く頭を擡げて隣人を見遣れば、彼女は身を翻して、此方に顔だけ向けていた。
「噴水前で良い?」
首を傾けて問い掛ける彼女に、「分かった」と、俺は首を縦に振って答える。
「鐘が鳴ったら向かう」
起床の鐘が鳴れば、いよいよ此処も喧しくなる。其の前に出掛ければ、ちょうど良いだろう。
然して、「うん」と、元気よく笑顔で頷いた彼女は、硝子扉の方を辿った。
硝子扉の奥で此方に手を振る彼女に応えて、直ぐ自室に消えた彼女を見送って、俺は倒れる様に手摺に背を凭れた。
真白い壁面を見遣って、大きな溜息を乗せて息を吐く。忙しない日々を思って、彼女の思慕を想って、俺は柄にも無く昂ぶる心の赴く儘に、顔を綻ばせた。
異性を意識した人間との逢瀬が呉れる緊張感と憩いの味。其奴を噛み締めた俺は、唐突に幼馴染との逢瀬を思い出した。
他愛ない会話の記憶。彼女が営む薬屋に染み込んだ薫香。其処に在り続ける彼女に染み付いた芳香。其の全てが鮮明に鮮烈に、此の記憶に蘇った。
「はあ……」
然して、俺は硝子扉に映った自分自身を見据えて、脚を前に投げた。
疲労を拵えた様な疲労が抜けた様な、奇妙な感覚だ。先刻まで意識に巣食っていた眠気も、欠片の一片さえ残さず消えて仕舞った。
俺は真白い硝子扉の木枠を手前に引いて、身体を滑り込ませる。内側から硝子扉に向き直って、眩い陽光を一瞥、俺は静かに扉を閉めた。
少し早いが、出掛ける準備をして置こう。
部屋の扉を開け放って、舞った埃を鼻腔に吸い込んで、俺は部屋の中央を辿る。然して、意識に触れた仄かな芳香と、其の源泉を見据えた。
寝台を辿る脚は止まり、視線が辿る机の前に向かう。俺は卓上の灯火の横に据え置かれた小袋を手に取って、其奴を天井に翳した。
失くさない様に飾っていた匂い袋だが……。
「御守り、か」
然して、其奴を握り締めた俺は、寝台の横に横たわる剣戟を掴んで、寝台に腰を下ろした。
匂い袋の口を閉じる紐を解いて、剣戟の鞘に括り付ける様に巻き付ける。戦の場で落とさない様に、俺は紐を固く固く結び付けた。
「此れで良いか」
何重にも縛り付けた匂い袋は、剣戟を眼前に据えれば、左右に揺れて芳しい薫香を撒ける。其の彼女の便りを鼻腔から肺に吸い込んで、俺は大きく息を吐いた。
安らぐ薫香に紐付いた拠り所。身体が覚えていた。
如何なる障壁さえ乗り越えられる。今ならば、然う思えた。
「勝つ。勝つさ」
然うだ。俺ならば、勝てる。
剣戟を強く握り締めて奮起した俺は、剣戟を横に置いて、勢いよく立ち上がった。
だが、其の前に浴場に行こう。昨日は、出向く間も無く眠って仕舞った。
然して、俺は征く。意気揚々と前を征く。ひとまず、明日の安寧を想って俺は征く。此の途方も無い希望に繋がる一歩を、決して弛まず踏み締める為に、俺は征くのだ。
然うして、俺は仄暗い此の部屋を出た。
暑い。只管に暑い。扇風機は許しますが、冷房は自然的でないので嫌いです。
部屋に居る間は、汗だくになりながら。喫茶店に出向いた時は、涼める環境で執筆をしております。夜は公園に出掛けて、定位置の長椅子に腰掛けて、煙草を吹かしながら書く。最高ですね。
朝が明けて、モニカとの逢瀬です。食えない娘の様に見えますが、果たして……。
次話でまた。