初めての敗北
不思議な感覚が全身を覆っていた。
目を開けるのも億劫に感じる疲労感と脱力感に身体が支配られているせいか、動ける気は少しもしない。それどころか身体の感覚が曖昧だった。両腕はどこへ行ったと言うのか、何に触れているのか冷たいのか硬いのか痛みを感じているのか本当に少しの情報も寄越してこない。両足にしてもそうだ。腕よりはマシだが何か硬いものの上にいるという情報くらいしかこない。また、腹部も他人のものなのではと思う位に何の感覚もなかった。つまり、総合して、全体的に感覚がないのだ。
聴覚は働く。どこか近くで水の音がする。
嗅覚も働く。全身を覆う血の匂い。それは散々に浴びまくったモンスターのものとは違う気がしたが、獣ではないのでよく分からない。
視覚…は未だに目を開けられそうにないのでわからない。
『……たいにゃ…?…う……頭……?』
「ん、大丈夫……この……?」
何処か遠くで聞こえる誰かの話し声。私は水の音からそっちへと意識を切り替え、集中して聞き取ろうとする。
「どうし…?このままじゃ……」
『私らにはどうしようもにゃいことにゃ』
ようやくはっきり聞こえ始める。片方は聞き覚えがないが、もう片方の高く可愛らしい子供っぽい声は先ほど共に戦闘をした少女のものだろう。
……先ほどの戦闘…?
ああ、なるほど。
その言葉を思い出した途端自分の身に起こっていることを全て理解した。
私は負けたようだ。あのシャーベルトというモンスターに。
「起きにゃかったら、どうしよう…」
少女の声は震えている。私がこのまま死んでしまったらと心配し泣いているようだ。それが私には酷く不思議だった。なぜなら、私はいらない子だからだ。私は死んでも誰も悲しまない、悔やまない、辛い想いをしない。それが唯一ある私の価値だった。だからこそ危険なクエストだって受けられた。どんなモンスターとだって臆せず戦うことが出来ていた。それはどこでどんな風に死のうがどうだってよかったから。私自身にとってもみんなにとっても。
その気持ちはルイードに会って大事にされていると感じても、麗麟や白愛に会っていっぱいいっぱい愛されても、リコのようにしたってくれても、ウンディーネのように友人だと言ってくれても、変わらなかった。私はずっと、みんなと深い繋がりが出来ていると感じていてもなお、私がどこで死のうが彼女らには関係がないのだと思っていたのだ。きっと悲しむこともないだろうと。すぐに、彼女らにとっての私の代わりが出来て、日常に戻る。そう思って今日まで来たし、今もそう思っている。
だけど、どうしてこの少女は泣いているのだろう。
ポタリ、ポタリと私の顔に何か温かいものが落ちる。それは感覚のない身体が唯一感じる温もりだった。それの感覚と少女の声だけが今の私が得る全ての情報。
「ノト、にゃんとかにゃらにゃいの?」
『……』
悲痛な少女の声。沈黙を守るもう一つの存在。しかし、それからも辛そうな雰囲気が漂っていた。
「い……きてる…わよ…」
なんとか声を出してみる。途切れ途切れで、震えてて、とてもか細い声だったがなんとか出た。
「えっ!?生きてるの?!!」
『!』
本当に嬉しそうな声を上げて少女が私の顔を触る感覚。触られたところがたまらなく熱くて心地よかった。
全神経と気力を集中させて目を開ける。
真っ黒な瞳と目が合った。
「よ…よかったにゃ〜!!」
ガバッと勢い良く抱きしめられる。しかし、それか視覚と聴覚から得られた情報だ。やはり身体からは何の情報もない。
『あんまり抱きしめると出血多量で死が近くにゃるにゃ』
「!!!」
そんな声に少女は慌てて私から身を離す。その顔は可愛らしい顔立ちをくしゃりと歪ませ、ボロボロと涙を流している。本当に、心の底から心配してくれていた。そして、安心してまた泣いているのだ。なぜだかそれが素直に受け入れられた。
「心配…ありがと…」
ぽつりというと少女はふるふると首を振り、にっこりと笑う。
「生きててくれて、本当によかった!」
「……」
少女の本心からのその言葉は私には最も似合わない言葉だ。
…本当に?
本当は、私だってとっくにーー
『そんなことより、今は治療方法を考えるにゃ。見たところ、痛みはにゃいらしいにゃ?』
思考を遮って聞こえてきた声の方へ目を向ける。そこには戦闘中もずっと少女の頭の上にいた黒猫がいた。
「……」
猫が話していても特に疑問を感じない私は人間としてどうなんだろうか。
「治療…あなたたちは出来る…の?」
私には出来ないと言外に伝える。二人(二匹?)は顔を見合わせて困ったような顔をした。出来ないらしい。しかし、治療しなくてはいけないほどなのだろうか。そう思って初めて私は自分の怪我の具合を見た。
そして、後悔した。
見なきゃよかった。
「ぐ…ぐちゃぐちゃ…ね…」
「えっと…うん、そうだにゃ…」
少女はなぜか申し訳なさそうに言う。まあ、そんな表情をするのも納得の怪我だった。
怪我…というか…なんというか…
そこには無残な破壊の跡があった。
両腕はもう両腕とは言えないものとなっていた。両腕だったものって感じだ。無数に牙が刺さり、抉られ、骨が飛び出していたり大穴が空いていたりともはや原型がない。ギリギリ私の身体についているがミンチのようだ。はっきり言ってかなりグロい。気持ち悪い。痛みすら感じないのは脳が何らかのホルモンを出してくれているからか、何らかの魔法をかけてもらっているからだろう。あの毒々しい紫の液体は見当たらなかった。
「う…ごけないからわからないんだけど…もしかして…?」
「えっと…」
さっと視線を逸らす。かなり酷いらしい。正直、腸のようなものが視界の端に見えるので大体予想はできていたが。
『絶ッ対、死んだと思ったにゃん。よく生きてたにゃ』
何か凄くはっきりと酷いことを言われた気がする。気の所為ということにしておこう。
「…まあ、不死だからね」
最近に自覚したこと。それは、私が不死の女神であることだ。ただし、二代目というか、生まれ変わりだけれど。これを知ったことでフレイやフリッグたちは喜んでいた。しかし、オーディンだけは記憶はまだだと知った時の方が喜んでいたが。
私のその台詞に猫は少し目を細めた気がしたが、なんだろう。
「不死にゃ?わかんにゃいけど…とにかく、どうにかするしかにゃいにゃ。幸い、もう血は止まっているにゃ」
「ん?じゃあ、固まっちゃってるの?」
「ゲル状にゃ」
「……」
あれ?それって人間じゃ…いや、神でもあり得なくないか?
不死の女神って解釈でどこまで行けるか、自信がない。せめて自分だけでもそう納得していかないと生きていけない気がする。
いっそのこと死にたいんですが。早急に。
『全然動けにゃい?』
「厳しいわね」
「んー、誰かいにゃいかにゃー?」
誰か〜!いにゃいかにゃー!?と少女は叫ぶ。その声は虚しく森にこだました。すっかり元気になった様子の少女だが、その理由は私が生きていたことに由来するのだろうか。こんな状況なのだか。
「そんな、回復役が通りすがるなんてこと、あるわけないでしょ?」
『そうにゃ。もっと現実的にゃ方法を…』
「どうしたんですか〜?」
「『……』」
え?来るの?
この子は運だけが頼りだから…
猫と目で話す。心を通わせた瞬間だった。
「助けて欲しいにゃ」
「?にゃ?助けるって、あなた怪我してませんよ?」
「こっちの人にゃ」
そんな会話をしながらその回復役がいると思われるパーティーと少女が近づいてくる。しかしまだ私の視界には入らない。聞き覚えのある声に聞こえるがくぐもってよく聞こえない。さすがにこの身体には無理な部分がありすぎるのか、意識がはっきりするに連れ、研ぎ澄まさせていた聴覚は悪くなって行った。
「そんな簡単に人助けばかりしてたら魔力なくなるよ?」
「そうよ。パーティーメンバーに何かあったときになって魔力切れでしたじゃ顔向けできないわよ?」
「うっ、だけど、困ってる人がいたら助けないと…それこそ、顔向けできない」
「にゃー、けど、結構な量の魔力が必要かもにゃ」
足音は近づいてくる。なんか、全部の声に聞き覚えがあるんですが…気の所為?
「…あれ、あの人を助けて欲しいにゃ」
ひっという悲鳴が聞こえた。うん。わかっていたけどかなり酷い(グロい)らしい。どうやらやって来たのは女の子三人のようだ。まだ視界には入らない。
「……?あれ?あの人…」
「まさか…え?あり得ないでしょ?」
「…いや、あり得るな!フレイア!!」
三人がかけて来る。真っ白な波打つ髪の女の子と白銀の所々が跳ねたショートヘアの女の子、そして全身が透き通るように見える長く豊かな髪を持った女性。
私がこの世で最も信頼するパーティーメンバーたちだった。
「ど、どうしてこんなことに!?主上、大丈夫なのですか!?」
そう泣き叫ぶ麗麟。
「あ、あり得ない!?莉八!何やってたのよ!?」
どこかへ向かって怒り狂う白愛。
「大丈夫なの?取り敢えず、傷口を洗いましょう」
冷静に行動を開始してくれるウンディーネ。
頼りになる三人の姿が私の目に映っている。
「ううっ…本当に助かったよぅ…」
今更ながら死の恐怖を感じる。下手をしたら私はもうこの三人に会えなかったのだ。そう思うと自分が愚かしく思えてきた。
三人は私を見てキョトンとしやがて微笑む。
「やだ。何子供みたいなことを言ってるのよ。契約してすぐに死ぬなんて、許さないわよ?」
「主上は私が助けます!」
「大丈夫!きっちり締め上げてきます!」
「ありがと〜」
白愛の言っていることがよくわからないけどそれも気にならないくらい私の頭は回っていなかった。麗麟がさらさらと陣を描きながら詠唱をする。陣と詠唱の混同魔法。これは最上難易度だ。それを使わなくてはならないほどの怪我なのだろう。
「*****精霊の守護」
ウンディーネが私の身体の周りに結界を張る。この辺りには小さいモンスター(寄生型)が多くいるのだ。
やがてどこかへ行っていた白愛がスッキリした顔で戻ってきて私に向かって親指を立てる。何のサインだろう?
「**********ーー天女の願い」
そうして完成した麗麟の治療魔術。暖かな陽だまりの中のような温もりが全身を包み、身体の感覚が戻ってくる。
「…成功…してますか?」
不安気な麗麟に微笑みかけながら身体を起こそうとする。未だに神経が繋がっていないのか力を込めることができない。白愛に手を貸してもらい、上体だけを起こす。
「もちろんよ。ありがとう、麗麟」
そう言われた麗麟が嬉しげに微笑んだ時、いつの間にか雨が上がり、日が指していた中で微笑みながら立っていた少女が気を失った。
「あぅ…日を…浴び過ぎた…にゃん…」




