誕生日には歌を 12
「冬樹は、子供の頃からあんな調子だからね」
人に迷惑をかけている分だけ、人から恨みも買っている。
「社内だけでも、冬樹に気に入られずに理不尽な異動を強いられた者もいれば、耐え切れずに辞めた者もいる」
冬樹に交際相手を寝取られた者、三日で捨てられてプライドをズタズタにされた者となると、数えるのも億劫になるほど大勢いるそうだ。
「社外では、例えば、子供の頃の山辺くんだな」
ところで、彼が冬樹の身代わりになって学校を退学になった理由は知っているかと、春栄が要にたずねた。
「冬樹さんが起こした不祥事の責任を、代わりにとらされたのだと聞きました」
浩平は、冬樹が誰かに怪我をさせたようなことを言っていた。
「それだけか? まあ、山辺くん本人もその程度のことしか聞かされていないかもしれないな」
「知らなくて当然ですよ。彼は中学生でしょう」
どうやら事件の内容を知っているらしい弘晃が咎めるように春栄に言い、「冬樹さんの通っていた学校には管弦楽部があって、とてもレベルが高いそうなんですけど」と、確認を取るかのように要に顔を向ける。
「あ、そうらしいですね」
あの学校のオーケストラ部のことであれば、要も茅蜩館を訪れる客から幾度となく聞いたことがある。 歴史も実績もあり、全国大会でも常に上位入賞を果たしている強豪だという。とあるOBは、「練習が大変だった」と、懐かしそうに要にこぼしていた。その話をしている時も彼は楽器ケースを傍らに置いていた。付属の大学に進んでからも音楽を続け、今でも大学OBによるオーケストラで演奏しているそうだ。
「冬樹さんが怪我を負わせたのは、その部の人でした。冬樹さんとは同学年。面白半分に練習の邪魔をしてきた冬樹さんたちを注意したら、逆恨みされたそうです」
「弘晃さん。説明を端折りすぎだよ」
森沢が説明を変わった。
「オケ部の生徒は、朝練を終えると部室に楽器を置いていたそうなんだ。部長に注意されたことに腹を立てた冬樹たちは、他の人間が授業をしている間に、その部室に忍び込んで楽器という楽器を破壊した。誰もいない時に起こったことだから、犯人は冬樹だとは言い切れない。だけど、冬樹以外に誰がいるっていうんで、部員たちは、大挙して冬樹に抗議に行った。そこで、すった揉んだがあって、転んだかなにかした副部長他数人が怪我をした。その時の怪我が原因なのか、それとも精神的なショックによるものなのかハッキリしないらしいんだが、それ以来、副部長は耳を悪くした」
「耳が聴こえないんですか?」
「まったくというわけでもないらしいけれども、完治とまではいかなかったらしい。当然、部活も続けられなくなった。オケ部も一時的に活動を停止するしかなかった。そのせいか、その年と翌年のオケ部は例年ならば市民ホールを借り切って行う定期公演すらできなかった。竹里剛毅は、副部長の治療費はもちろん楽器も全部新品にし、オケ部にも大金を寄付した」
だが、それは、あくまでも『揉め事の場に冬樹がいたから』という名目だった。武里は『いらぬ濡れ衣を着せられて、こちらも迷惑している』という立場をとり続けたそうだ。
「山辺優希耶は、誰かに怪我を負わせた濡れ衣を着せられたのではなくて、楽器を壊した犯人にされたんだ」
春栄が言った。「山辺くんが部室に入り込んで楽器を壊さなければ、部員が怪我をするような騒ぎは起きなかった。そういうことにして、山辺くんを退学にすることで、冬樹の責任をうやむやにした」
「つまり、怪我した子も勝手に怪我をしただけで、冬樹さんとは関係ない。そういうことにしたんですか?」
なんなのだ、それは? 感情を隠すことも忘れて要がたずねる。そうはいっても、現在の彼が味わっている嫌悪感は、ここにいる誰もが感じているようで、春栄は「本当に、なんなんだろうな」と要から逃げるように明後日のほうに虚ろな視線を向け、弘晃は「誰だって『ふざけるな』って思いますよね。しかも、『優希耶さんの犯行現場を見た』っていう冬樹さんと冬樹さんのお友だちの証言つきだっていうんですから」と険しい表情を浮かべる。
「当事者たちも、梅宮さんと同じように腹を立てました。息子の不始末の責任を他人になすりつけることからして間違ってますけど、『高校で起こった事件の犯人は、エスカレーター式に進学できるとはいえ校舎は電車にして2駅ほど離れたところにある付属の中学生でした』なんて言い訳されて、どうやって納得しろというんです」
「え? 高校?」
「あれ、もしかして知らなかった? 冬樹さんは、早生まれだけど君と同学年だよ」
あっけにとられた要に、森沢が教える。
「そうなんですか?」
知らなかった。そして、冬樹と並んでいると年上にさえ見える優希耶が浩平と同年だったことを、要は最近知ったばかりである。事件が起こったのは冬樹が高校2年の時だというから、優希耶は中学2年生だ。不良を目指す浩平と彼がつるんでいたのは、中学2年の冬から春の始めにかけてだった。
「でも、どうしてそんなことがまかり通るんですか? 優希耶くんが身代わりになっただけで、本当に収まったんですか?」
要が関係者であれば、姑息な手段で責任を逃れをしたことも含めて冬樹や武里を許せないと思うだろう。彼らは、それで納得できたのか?
「収まるわけがなかろう。だが、まかりとおることもある。特に学校という狭い世間では」
冬樹が通っていた学校の中……特に生徒の間には、もともと金持ちの息子でハンサムな冬樹とその取り巻きの奔放な傲慢さを容認するような歓迎するような空気があったのだそうだ。冬樹とトラブルを起こせば、起こしたほうに問題があるような空気が生まれる。結果、被害者のほうが学内で孤立しがちになる。
「要するに、むこうが諦めてくれただけだよ」
それでも、彼らが、そういう境地に至る前までに、処分の曖昧さに抗議をしたオーケストラ部の部員の一部や顧問、優希耶の中学校の教師の数名が停学や訓戒などの処分を受けたそうだ。剛毅は剛毅で、学校への寄付金をかなり上積みしたらしい。
「なんの解決にもなっていない。優希耶くんがらみの一件は特にひどいものだったが、それ以外のトラブルについても、父は、継母に泣きつかれるまま、すべてこんな調子で片付けてきた。おかげで、冬樹は野放しのままだし、誰も納得できずに恨みばかりが残る。しかも、恨みというのは、迷惑をかけられた本人だけが抱くとは限らない」
恨みや憎しみは、当事者の知り合いにも波及する。だから、春栄は、冬樹が起こしたトラブルと少しでも関わりがありそうな者を彼の側にやらないように気をつけていた。
「うちは、幅の広い商売をしているからね。関連会社にまで調査を広げると、結構いるんだよ。幸いというかなんというか、父の側で長年働いていた者が会社に残っているから、彼らから話を聞くことで、こちらでもある程度までは把握できていた。冬樹のところにやると決めた人間については、改めて身辺調査も行っていた」
だが、度重なる冬樹からの要求に疲れ、投げやりな気分に陥っていた春栄と彼の部下たちは、ある時、うっかりこの最終確認を怠った。『冬樹の傍で働いてくれ』と春栄が声をかけてしまったのは、よりにもよって、例の管弦楽部の保護者のひとりだった。
「しかも、事件があった当時、武里の社員だったせいで他の保護者からかなり責めらたそうでね。本人からして冬樹のことをひどく憎んでいた」
こんな人事は受け入れられない。それに、自分を冬樹の側においたらなにをするかわからないと、春栄はその社員から詰られた。『なにかの拍子に冬樹さんに暴力をふるうかもしれない』とも言われた。
「その時、私は…… つい、『いいよ』と言ってしまったんだ」
春栄が告白する。
あなたが冬樹を憎む気持ちはわかる。あいつを殴ってもかまわない。その時は、自分があなたを庇ってやろう。冬樹が手出しをできないように、直ちに本部に戻してやる。企業イメージを守るためだとして、警察沙汰にもしない。すると、その社員は、「冬樹さんに復讐するための絶好のチャンスをいただけたと思って、彼の側で、しばらく我慢してみますよ」と、冗談めかした口調で言って春栄の申し出を受けたのだ。
「魔が差したといえば…… そうだな。この時点から、おかしくなっていたんだろうな」
自嘲気味に春栄が笑う。冬樹への復讐をチラつかせれば、不当に思える人事でも受けてくれる者もいるかもしれない。そう学習した春栄は、まずは、冬樹によって追い出された武里リゾートの元幹部に声をかけた。冬樹に近づけないために作成していたリストは、目的を逆にして利用されることになった。新しい方法で集めた人員は皆、申し合わせたように冬樹に対して従順な態度を取ることによって、彼の側に定着していった。
「では、優希耶くんも?」
「山辺くんは、他の者とは、少し違った」
優希耶の配属は賭けでもあったのだそうだ。春栄にも、敵意を抱く人材ばかりを冬樹のところに送り込むことが異常だという自覚はあった。だから、もしも冬樹が優希耶に気がつくことができたら…… いや、初対面で気が付くことができなくても、山辺優希耶という人物が自分の過去においてどのような関わりがあったのかを冬樹が知ることができたら…… 冬樹が土下座して優希耶に謝ることまでは始めから期待していないが、せめて『悪かった』のひと言なりを優希耶に言うようであれば…… あるいは、優希耶本人が現在の冬樹をみて許すようなことがあれば…… あるいは、優希耶の存在が、少しでも冬樹の行いを改めさせることになれば……
「その時は、こんなことはやめようと思った。既に送り込んだ者についても、順次入れ替えるつもりだった」
春栄は、最初に冬樹の元に送り込んだ復讐者に、冬樹と優希耶のやり取りを観察してくれるように頼んだ。彼も「冬樹が少しでも反省している素振りをみせれば、自分も冬樹への復讐を諦める」と言ってくれた。自分が諦める時には、他の復讐者仲間(どうやら、武里リゾート内で秘密結社化しているらしい)にも手を引くように説得すると約束してくれた。
「しかしながら、冬樹は山辺優希耶の名前すら記憶に残っていないようだった。優希耶に、彼の経歴をたずねるようなことさえしない。ただ便利に彼を使うだけだったそうだ」
半年ほど様子を見たが、冬樹の態度には何の変化も見られなかった。「むしろ、見ているこちらに冬樹さんへの殺意が湧いてくるんですが」とは、その観察者の弁である。
過去に酷い目にあったのに、この上冬樹から酷い目に合わされるのでは、いくらなんでも優希耶に申しわけない。春栄は優希耶を本部に戻すことを検討した。観察者は、優希耶を自分たちの仲間に加えたいと言い出した。
「そのまま様子を見ようということになったのは、山辺優希耶に浩平くんという友人がいることに気がついたからだ。浩平くんは、わたしたち武里にとっても、因縁の深い子だからね」
春栄が要と視線を合わせる。この人は、浩平の本当の出自を知っているのだろうか。緊張を覚える要に思わせぶりな笑みだけを返して春栄が続ける。
「父が本気で浩平くんを使って茅蜩館を手に入れようとしていたと、私は思わない。だけども、茅蜩館で育てられた浩平くんは、幼い頃から伝統あるホテルの在り様を実地で学んできた。そして、法律上、彼は秋彦の子供だ。私の父が遺したものを引き継ぐ資格がある」
その浩平と優希耶が仲良くしている。春栄にとって、思いがけないことであった。一方、優希耶の行動を注視していた観察者たちは、ある日、浩平と優希耶が居酒屋で互いを励ましている会話を耳にした。
「冬樹の任せておいたら、武里リゾートはいずれ立ち行かなくなる。その時、恰好が悪いのが嫌いで面倒なことができない冬樹は、きっと投げ出すだろう。その時こそ、自分たちの出番だ……というような話をしていたそうなんだ」
「浩平から聞きました。その時までに立派なホテルマンになった浩平を、冬樹さんから後始末を押し付けられた優希耶くんがヘッドハントして、ふたりで武里リゾートを立て直すのだと、居酒屋で管巻いていたそうですね」
「ほう?」
感心したように弘晃と森沢が眉を上げる。そんなふたりに「いい子たちだろう?」と言いながら、春栄が自慢げに鼻を膨らませた。
「私たちはね。時間がかかってもいいから、このふたりの健全な復讐計画……というよりも夢に乗っかりたくなったんだ」
春栄たちは、もうしばらく様子を見ることにした。ブームが始まったばかりにみえるリゾートだが、武里リゾートに関していえば、ホワイトヘブンを筆頭に閉鎖を検討しなくてはならない施設が現れ始めた。
「冬樹さんが武里リゾートを投げ出す日も、そう遠くないかもしれない。そうはいっても、彼が自分から投げ出すのを待っていたら、どう少なく見積もっても5年は先になったでしょう。だけども、あなたたちは、そこまで待てなくなった。計画を前倒しにした理由が、娘さんの結婚ですか?」
「マリアさんと知り合ったことでホワイトヘブンの窮状を知った浩平たちが焦り始めたという事情もありますよね?」
「その時に決断できていたら、私にせよ、まだ言い訳も立ったのだろうけどね」
申しわけそうな顔で首を横にふりながら、春栄が、要が出した助け舟を自分から遠ざけた。
「だけど、私は、優希耶くんが冬樹に意見して殴られたという報告を受けた時も、その数日後の法事の席で、『このまま冬樹と冬樹の母方の伯父の好きなようにやらせておいたら、将来武里グループごと潰れてしまうかもしれない』といって、浩平くんから膝詰談判された時も、私は決断できなかった」
六条源一郎が橘乃に茅蜩館という持参金をつけると発表し、優希耶に同情した復讐者たちが浩平たちの企みを応援することに決めたと言い出した時も、春栄は、まだ二の足を踏んでいたそうだ。
「そうでしょうね。竹里さんにしてみれば、浩平くんたちを密かに応援しながら、冬樹さんが気に入らない者を送り返してくる度に彼を憎んでいる者を補充し続けることが、一番楽な状態だったでしょうからね。なにしろ、これをやっている限り、冬樹さんや冬樹さんの母親と表だって敵対する必要がない。将来的なグループの危機からも目を背けられます」
森沢の声音には同情がこもっていたが、言っていることは辛辣だった。
「そうだ。私は、ずるかったんだ。だから、娘の恋人が彼女を嫁にもらいたいと私に頼みにきた時に、彼が『自分が将来政治家になったとしても、武里グループに利益を誘導するようなことはしない。実を言えば、父も祖父も冬樹の母親には迷惑している』と言ってくれるまで、動けなかった」
「冬樹さんの母親と伯父さんが、力のよりどころにしている母方の親戚の人々から疎ましがられていると、その時に初めて気が付いたというわけですね。冬樹にも冬樹の母親にも遠慮することはないとも思えるようになった」
『それ、魔が差したんじゃなくて、目が覚めたんですよ』と、出されたコーヒーのカップを手に森沢が笑う。
「そうかもね。でも、浩平くんたちの陰に隠れて私たちがコソコソと茅蜩館や橘乃さんにかけてきた迷惑を考えたら、さすがに『改心しました』的なことは言えないよ」
『悪かったね』と春栄があたらめて要に謝る。
「ここから先は、最初に言ったとおりだ。私と私という後ろ盾を得た復讐者たちが、浩平と山辺くんの計略に冬樹が乗せられやすいように、陰ながら協力した。冬樹の勝ち負けにこだわる習性を利用して橘乃さんの夫選びに彼がのめり込むように仕向けたのも、冬樹に橘乃さんを誘拐するようにそそのかしたのも、新しいホテルのために奇抜なアイディアで有名な建築家ばかりを冬樹に紹介したのも、私たちだ」
「武里リゾートと冬樹の伯父さんとの癒着も含めて、武里一族に関する醜聞を雑誌社に流したのも、あなたですか?」
弘晃がたずねる。
「浩平くんも同じことをしたようですが、その時は、マスコミの反応が鈍かったようです。タイミングもあるのでしょうが、信ぴょう性が高い情報を新たに手に入れることができたからこそ、各誌がこぞって書きたてたのでしょう。おかげで、冬樹さんの伯父さんは議員辞職にまで追い立てられることになった」
「そうだ。私だ」
「でも、ここまでやってしまったおかげで、武里リゾートのみならず、武里全体の評判もがた落ちになりました。失った信頼を取り返すには、相当な忍耐と努力と年月が必要です。あなたは、それでよかったのですか?」
「確かにダメージは大きい。だけども、どうせなら徹底的に膿を出そうと思った」
「娘さんのために?」
森沢が言葉を挟む。
「娘さんと娘さんの夫となる人のためにですか? 彼が政治家になっても、後ろ暗いこととは無縁のまま、綺麗なままでいられるようにしてあげたかったんですか?」
「私がこんなことをいうと、それこそ綺麗ごとにしか聞こえないだろうけれども。彼の言葉を聞いた時、父のやり口がまかり通っていた時代は過去になったのだと思ったんだよ」
しばらく黙りこんだ後、春栄が照れたように顔を赤くする。
「父は、いろいろと汚いことをやってきた。おかげで、武里にはダーティーなイメージがこびりついている。私や夏雄や秋彦も、そのせいで苦い思いもしてきた。だからこそ、次の世代にまで、こんな思いを引き継がせたくなかった。ならば、私の世代で一度思い切り泥をかぶる必要があると思った。全ての膿を出し切って、過去を清算し、出直すことが私たちの仕事だと思った。六条さんだって、そうなんじゃないかな? 中村と結びつくことで過去と決別し、真っ当な道を歩もうとしている」
「ええ。 あの人も、もう昔のあの人ではありません」
弘晃が肯定するように微笑んだ。
「そういうわけなので、私たちは、武里が背負ってきた悪しき因縁と共に、なにがなんでも冬樹を粛清するつもりだった。浩平くんたちがボタンの隠し子を名乗る娘を連れてこなかったなら、私たちが、別の誰かをボタンの隠し子として冬樹に紹介しただろう。《ボタンの娘》という存在ほど、冬樹のインチキぶりを際立たせる存在はいないからね。なにせ、本物は別にいるのだから」
「……本物って、ボタンの娘の本物ですか?」
無邪気に驚いてみせる森沢から順番に、春栄が3人の顔を見回す。だが、大きな組織を動かしているふたりの義兄はもちろん、要も、茅蜩館という場所で様々な人間に接してきている。この程度の引っかけで動揺を顔に表すようなヘマはしない。
「さすがに、これぐらいでは、ボロを出してはくれないか。いいよ。ボタンの娘が誰かなんてことに、私はそれほど興味はない。真実を知ったからといって言いふらす趣味もないしね。だけどね。たいして興味を持っていない者ほど、私のように無責任にあれこれと想像するものだよ。今の茅蜩館のオーナーである恵庭八重という老女は、どうして六条さんにホテルを譲ろうと思ったのか? 六条さんは六条さんで、せっかくもらったホテルを橘乃さんの持参金にしたのは、なぜなのか? 結果的に、橘乃さんは六条さんが目をかけてきた茅蜩館の若者を夫にしたが、これは何を意味するのか? 橘乃さんの母親が屋敷に引きこもっているのは、なぜなのか? 橘乃さんの母親は、何者なのか? 橘乃さんとは、何者なのか? 今回の持参金騒ぎで、そんな疑問をもった者は大勢いると思うよ。橘乃さん本人や、彼女の兄弟姉妹だって、その例外ではないだろう。もしかしたら、とっくの真実にたどり着いている可能性だってある」
「……」
「君たちはまだ若いから実感がないかもしれないけれども、自分たちの奥さんをなめてはいけないよ」
『まさか』という言葉を飲み込んで無表情を貫く要たちに、春栄が微笑む。
「妻というのは、怖くて鋭くて優しい、謎の生き物だと思っていたほうがよろしい。こっちの嘘や隠し事なんて、彼女たちはたいていお見通し。わかっているけれども、あえて追求しないでくれていることなんて、いくらでもあるんだよ。賢い奥さんほど、そういうものだ。侮っていると痛い目をみるよ。それはさておき、冬樹のことだ」
結婚生活に入って間もない男たちをからかうことに満足すると、春栄が表情を引き締めた。
「冬樹については、茅蜩館にもあなたたちにもこれ以上迷惑をかけることがないように、私が責任をもって対処する」
「もう少し具体的に、おっしゃっていただけますか?」
からかわれた仕返しなのかもしれない。弘晃が穏やかな笑みを浮かべたまま、強く要求する。
「失礼を承知で言わせていただければ、しばらく謹慎したところで、冬樹さんが反省するとは思えません」
「同感です。数年後には武里の重役に返り咲いて、橘乃さんや茅蜩館への嫌がらせを再開しそうだ」
森沢も言う。
「放火未遂その他を事由に、冬樹を武里リゾートの社長から解任する」
事実上の永久追放であり、当然重役に復帰させることもしない。冬樹を正式にクビにするために、明日には必要な人間を集めて決議する手はずになっているという。
「鉄道、デバート、劇場、ホテル、建設。 武里の事業は、お客さまの安全を最優先に考えなければならないことばかりだ。社長であろうと平社員であろうと、気に入らない相手に火をつけようとする人間など、武里にはいらない。危なすぎて、どんな仕事を任せられない。もっとも、冬樹はしばらく外に出るつもりはないようだが」
『今度悪さをしたら、冬樹が半逆さ吊りで泣きわめいている写真を全国的に公開する』という和臣の脅しが効いているらしい。
「それに、冬樹が自分が王様でいられた武里リゾートに復帰したいと思っても、もう、なにがあっても無理だろう。いや、彼が、どんなに帰りたかったとしても、帰る場所そのものがなくなってしまうかもしれない」
「どういうことですか?」
「うん? 君たちが来る少し前に、六条さんがここに来てね――」




