誕生日には歌を 10
冬樹は、落とし穴に落ちていたそうだ。
和臣からの連絡を受けて橘乃が六条家に到着した時には冬樹はすでに家に帰されていたが、彼が落ちたという穴は、埋め戻されることなく依然としてそこにあった。かなり深い。一度落ちたら、体力あるの男性でも自力で出てくるのは難しそうだ。
「まあ、冬樹さんは、落とし穴にはまったものの、穴の中に落っこちたわけじゃないけどね」
穴のふちにしゃがみこんで呆然としている橘乃の視線を、兄が指を立てて上に向けさせる。六条家を囲む雑木林の中に掘られた落とし穴の近くの大木から、何かがぶら下がっている。
「ロープ?」
「うん。輪にしたところに足を引っかけると、その輪が締まって宙づりにされるという罠が仕掛けてあった」
冬樹は、ロープに足が引っかかっていることに気がつかないまま落とし穴に足を踏み入れると同時に、木の上に吊り上げられたそうだ。しかしながら、いかんせん素人が作った罠である。悲鳴を聞きつけた和臣たちが駆けつけた時、冬樹は、十分な高さまで引っ張りあげられることなく、シャチホコのように腰を大きく反らしながら落とし穴の縁に必死に捕まっていたという。彼が落ちかけた穴の底には、しみ抜きなどに使われる揮発性の液体とライターが落ちていた。屋敷に火をつけるつもりだったようだ。
「アゴで使っていた取り巻きがいなくなってしまったから、自分で実行しようと思ったようだね。まあ、無理な体勢ではあったけれども、穴の縁に捕まっている限り、頭に血が上りきってしまう危険もなさそうだったし、ただでさえ暗い林の中で夜中に作業するのは危ないからね。明るくなるまで、2時間ほど吊したまま放っておいた」と、兄はしれっとした顔で残酷なことをいい。「それに、写真も撮っておきたかったからね」と言いながら、現像したばかりの十枚ほどの写真を橘乃に見せてくれた。どの写真にも、涙だか涎だかわからないもので顔中をぐちゃぐちゃにした冬樹が写っている。
「あらまあ」
「こんな写真を撮るなんて」
「悪趣味ね」
橘乃の背後から写真をのぞき込んでいた紫乃と明子が、嘆かわしげに首をふった。
「それより、和臣。どうして、こんなところに罠なんて作ったの? 悪気のない誰がうっかりはまったら、危ないでしょう。 お父さまは――」
「父さんは、『もっと高いところに骨になるまで吊るしておけって』って言い捨てて、会社に行ってしまいましたよ。それに、ここに落とし穴があるのも、そもそも冬樹さんのせいです」
和臣が姉に答え、夏頃、橘乃に関心を示した冬樹が、彼女が望んでもいないのに、何度も家に押し掛けようとしたことなども伝える。
「あの頃の冬樹さんは、橘乃に異常に執着していました。それを心配した梅宮さんが、この屋敷の防犯対策を見直してくれたんです」
「まさか、梅宮さんが落とし穴を作るように指示したの?」
「それこそ、まさかだよ」
和臣が笑いながら否定する。「梅宮さんは、常識の範囲内で適格なアドヴァイスをしてくれただけだよ。落とし穴を掘ろうって言い出したのは、この子たちだ」
「だって、梅宮さんが、屋敷の死角でもあるし敷地の裏手側から入り込めるこの辺りが一番危ないって言ったのだもの。それに、梅宮さんだって反対しなかったもの」
「あの頃は、穴も掘ってくれれば高い木にも上れる、橘乃姉さまのファンだとおっしゃる男手も大勢いらしたから」
「わ、わたしは、進入者対策ならば、鳴子だけで充分だと思ったのだけど…… でも知らない方に勝手に入ってこられたら、やっぱり怖いから……」
和臣に睨まれた妹たちが、口々に言い訳する。
「なんにせよ、さすが茅蜩館だね。冬樹さんは、梅宮さんが目をつけたとおりの場所から忍び込んできて、まんまと罠に嵌った。姉さんが言うところの《悪趣味》きわまりない写真は、冬樹さんが二度と橘乃や僕たちに悪さをしないようにするための、いわゆる念書代わりに撮っておいただけです」
「あなた、それで、冬樹さんを脅かすつもりなの?」
「すでに念入りに脅かしておきました」
顔色が変わった紫乃に、和臣がニヤリと笑う。
「『これから先、一度でもうちに迷惑をかけたら、これらの写真と、あなたがこれまでにしてきた悪さ一覧表を、あなたがが行く先々で、空から大量にばらまいてやる』とね」
「脅しだけで実行することはないと思うけど、いくらなんでも、それは、ひどすぎやしないこと?」
恐喝めいた手段が嫌いな紫乃の表情がますます険しくなる。橘乃としても、どちらかといえば姉の意見に賛成だ。だが、兄は、「姉さんの言いたいことは、わかる。橘乃が、こういうのが苦手だってことも知ってる。僕だって、こんな下らない真似はしたくない」と厳しい顔で首を振った。
「それでも、これぐらい下衆な手段で脅さないと、冬樹さんには通じないと思ったんですよ。それに、空からビラをばらまくことまではしていないけど、冬樹さんは、過去に、これに近いことをやってるよ。やられた相手は、ふたりほどいるけど、どちらも再起不能になったそうです。冬樹さんは、それを当然だと喜んでいた。自分が同じことをやられたら、どれだけ辛いことになるか。相手の痛みが想像できない人でも、自分が相手に与えた痛みなら知っているはずだし、その痛みを知っているからこそ、自分が同じことをされたくないと思うはずだと思ったんだ」
「『知ってるからこそ』って言うけど、あなたこそ、どうして、そんなことを知っているの?」
「弘晃義兄さんが教えてくれました」
「弘晃さんが?」
紫乃の夫である。
「いつ?」
「さっき。ごめん、今の理由は後付け。本当は順序が逆なんだ。冬樹さんを脅かした時には、そこまで考えてなかったし、やりすぎたかなと反省もしていた。義兄さんが電話をくれたのは、冬樹さんを帰した後。姉さんがこっちに向かっている頃だよ。その時に写真のことを話したんだ。そうしたら、教えてくれたんだ」
彼は、和臣のしたことを咎めたりはしなかったそうだ。それどころか、『他人さまの家に火をかけようとする輩に、かける情けなどない』とも、『冬樹の被害者たちであれば、こちらで把握しているから、本当にビラをばら撒きたくなった時には、声をかけるように』とも言ったらしい。
「最近、森沢さんと一緒になって、コソコソしていると思ったら…… あの人は、いったい、どこまで知っているの? 何をやっているの?」
弟妹たちの顔を順繰りに見つめて紫乃がたずねるが、彼女が知らされていないことを、ここにいる誰かが知っているわけがない。
「義兄さんのことだから、心配ないよ」
当り障りのない言葉で和臣が姉を慰めた。
「でも、冬樹さんが放火しかけたことに、すごく怒っているみたいだね」
「そうなのよ。あの人にしては珍しく、誰が見てもわかるぐらいに腹を立てていて……」
「うちもそうなの!」
橘乃が声を大きくして姉たちの会話に割り込んだ。きつい言葉を滅多に吐くことがない要が「絶対に許せない」と声を荒げていた。八重も貴子もホテルのスタッフたちも、放火未遂の話を聞くなり、顔色を変え眉をつり上げて怒っていた。
「義兄さんたちは、『要さんにも協力してもらって、こちらでも手を打つ』って言ってたけど」
「弘晃さんが?」「俊鷹さんも?」「要さんまで?」
「『義兄さんたちが何をするつもりか知らないか』って聞きたかったんだけど、その様子だと、3人とも知らないようだね」
キョトンとしている姉と妹たちを見て、和臣が残念そうに笑った。
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その頃、要は六条家長女紫乃の夫の弘晃と共に、次女明子の夫の森沢が運転する車で、一般道を、方角的には北へ向かっていた。具体的な行き先は、聞かされていない。「冬樹さんに二度と放火などさせないようにと、然るべき所へお願いしにいきます。梅宮さんもついてきてください」と弘晃に言われるが早いか、彼は、ほとんど反射的に車に乗り込んでいた。
「これまで意識したことないけど、君たちって根っからの江戸っ子だったんだねえ」
温厚な性格をしているふたりが、後部座席で先を争うようにして放火未遂犯の冬樹を非難するのを、森沢が面白がっている。
「東京生まれだろうかなんだろうが、関係ありません」
要は、無礼を承知で森沢に口答えせずにはいられなかった。彼はホテルで育った。他の何を忘れても火の始末だけは忘れてはいけないと、幼い頃から叩き込まれている要にとって、放火ほど恐ろしくて卑怯な犯罪は存在しない。
「付け火は御法度です!」
祖母が使う古風な言葉そのままで、要が森沢に食ってかかれば、「そうですよ! 昔だったら、市中引き回しの上火あぶりの極刑です! 大犯罪です」と、彼の隣で六条家長女の夫の中村弘晃が憤然と声をあげた。
「だから、付け火とか市中引き回しっていう言い方からして、江戸っぽいって言っているんだよ。ともあれ、日本全国どこであろうと、放火が恥ずべき重罪だって意見には、俺も賛成だ。ただ、ふたり揃って怒りのツボがそこなんだと思ったら、なんだかおかしくてね」
「そういえば、森沢さんは、もっと前に激高していましたものね」
「だって、許せないだろう」
とたんに森沢の怒りのスイッチがオンになる。
「冬樹さんが、どれだけモテるんだか知らないけど、女性は服やアクセサリーじゃない。遊び半分で女をとっかえひっかえする男なんて、人間の屑だ」
「森沢さんこそ、喜多嶋グループの次期総領らしいおっしゃりようではないですか」
かつて茅蜩館にちょくちょく顔を見せてくれいた森沢の祖父の洒落た姿を思い出したことで、要の顔に笑みが戻る。長年にわたって衣料品や化粧品といった女性が好みそうなものを主に扱ってきた企業の長だけに、故喜多嶋会長も女性を大切にする人だった。
「まあ、らしいといえば、そうなんだろうな。うちの一族には、冬樹さんみたいなのが生息できる余地はない。もしも、この手の不届きな輩がいようものなら、うちのオジサンたちが即座にとっつかまえて、先を尖らせた竹を大量に仕込んだ落とし穴に逆さに突っ込っこんで、処分してしまうだろうから」
「森沢さんこそ、言動が戦国時代になってますよ。そんなところに冬樹さんを放り込んだら本当に死んでしまうではないですか」
「そうですよ。危ないです」
穴の中で串刺しになっている冬樹をうっかり想像してしまい、要が身震いする。森沢は軽口を言っているつもりかもしれないが、別れた恋人を忘れられなかったばかりに六条家から嫁いだ明子をないがしろにし、そのために源一郎から仕置きされたばかりか、一族の男たちからもボコボコにされた森沢の従兄という前例を知っているだけに、笑えない話にしか聞こえない。
「それほど許せないってことだよ。遊ばれた娘さんっていうのが、ごくごく普通のお嬢さんで、その男のせいで自殺に追い込まれたっていうんだから、尚更腹が立つ」
「あの……」
「どうして、僕たちがマリアさんのお姉さんのことを知っているのか? ですか?」
遠慮がちに口を挟んだ要に、弘晃が柔らかく微笑みかける。
「ホワイトヘブンに興味をお持ちだと、菱屋の会長から伺っていましたが……」
「さすが菱屋。気がついていたか」
森沢は短く口笛を吹くと、車を大通りから脇道に入れて、エンジンを止めた。それを合図にしたかのように、弘晃が懐から一枚の古い写真を取り出して、要に見せる。左半身と腰から下が切れた男性の後ろ姿と、少し離れた場所から彼に微笑みかけているように見える若い女性。撮影場所は、改装のために先月から休館している茅蜩館本館。窓の外に見えている景色から、二階のレストランに至る廊下で撮られたものだとわかる。女性が身につけている制服のデザイン……いや、彼女がここで働いていた時期を考えると、昭和20年代の半ば頃から30年代の初め頃に撮られたものであるはずだ。
「あなたなら、この写真に写っている女の人が、誰だかわかりますよね? 手前に写っている彼のことも?」
「ええ」
写真に目を奪われたまま、上の空で要はうなずいた。ボタンと久志だ。
「これを、どこで?」
「うちの分家の年寄りの一人が大事に隠し持っていたのを、譲ってくれたのです」
写真を見たのは自分たちだけで、紫乃にも明子にも見せてはいないと、弘晃が言う。
「これを持っていた分家のおじいさんは、橘乃さんのお母さんの顔を知りません。そして、僕たちは、六条さんやあなたが秘密にしておきたいのであれば、このことを誰にも言うつもりはありません。いえ。正直に言えば、過去に葬ってしまいたいと思っています。仲の良い六条家の姉妹に、和臣くんに、よけいな動揺を与えたくありません」
「心の丈夫な紫乃さんはともかく、うちの明子は『気にするまい』と気に病むたちだからね。できることなら、心配事は増やしたくないんだ」
森沢が妻想いなところをみせる。「そういうわけだから、もしも、要くんが秘密を抱えているのが辛くなってきたら、俺たちのせいにしてもいいよ。秘密をバラしたら、義兄さんたちに怒られるって思っていたほうが、要くんも気が楽だろう?」とも言ってくれた。森沢の言葉に同調するように、弘晃も要にうなずいてくれる。
「さて、そんな自分勝手な理由で義妹の橘乃ちゃんの秘密を過去に葬り去ろうと思っているオニイサンたちを挑発するかのように、竹里冬樹の最低野郎が、茅蜩館を困らせるためだけに《ボタンの娘》なんてものを過去から引っ張り出してきたわけだ。だけど、冬樹さんが偶然思いついたとは思えないんだ。誰かが――」
「……。すみません。冬樹さんにボタンの娘の話を持ち込んだのは、うちの弟です」
要が、昨日の浩平の告白のさわりだけを更にかいつまんで、ふたりに説明する。しかしながら、ふたりは、さして驚いた様子も見せずに、「なるほど、マリアさんに協力していたのは、山辺優希耶さんと浩平さんでしたか」とか「茅蜩館にも協力者がいたわけだ。道理でね」と、各自が納得したようにうなずいただけだった。イヤな予感を胸に、要が「橘乃さんのファンを自称して六条邸に居ついた者の中にも、浩平と結託したホワイトヘブンの関係者が紛れ込んでました」と情報を追加すれば、今度は笑い出すしまつである。
「優希耶さんのことも、ご存じだったんですか?」
「梅宮さんが浩平さんからホワイトへブンにたどりついたのとは逆に、僕らは、ボタンの娘を皮切りに武里の方から探っていきました。 そうしたら、ホワイトへブンにたどりついたんですよ」
笑いながら弘晃が説明してくれる。
「僕たちは、ボタンさんのことを無闇にほじくり返してほしくありませんでした。だから、冬樹さんをこの件から手を引かせるために、僕たちにできることを探っていました」
「早い話が、進んで手を引かせるようなエサをこちらで用意して、それを冬樹さんに呑んでもらおうと思ったわけ。でも、冬樹さんって、聞き分けのない子供みたいだろう?」
そんな大人もどきと交渉したところで、そこで取り決めたことを守ってもらえる保証はない。それどころか、まともな話し合いができるかどうかさえおぼづかない。彼らは、冬樹の代わりになるような交渉相手を探すことにしたそうだ。
「多くの問題を抱えているとはいえ、今のところの武里リゾートは成長著しい会社です。武里グループは、そんな会社の代表にワガママ坊主を据えるという大冒険をおかしているわけですが、いくらなんでも、彼に全てを任せっぱなしにする愚までは犯していないだろう。冬樹さんの陰で会社を回している摂政めいた存在が、どこかにいるに違いない。ならば、その人物と直接話したほうが手っとり早い。僕たちは、そう考えました」
弘晃たちは、交渉相手を探して、冬樹さんの周りの人物を探ったという。
「そうしたら、冬樹さんの周りが気持ち悪かった」
「は?」
要は眉根を寄せた。気持ち悪い?
「学生時代からの取り巻きを除外すれば、冬樹さんが会社で日常的に顔を合わせる人々のほとんど全員が、役員と一般社員の別なく、彼が入社して数年の間に入れ替わっている」
「な、なんですか、それ?」
「な? 気持ち悪いだろう?」
要の反応を楽しむように、森沢がニヤリと笑う。
「もっとも、人が入れ替わるきっかけを作ったのは、冬樹さん本人だけどね」
冬樹に嫌気がさして辞めた者もいれば、彼から嫌われて辞めさせられたり、彼の目の届かないところに異動させられた者もいるそうだ。冬樹のせいで急速に人が減った武里リゾートは、武里グループの本部を頼って補充しなくてはならなくなったという。
「グループ本部は、冬樹さんのやっかいな性格を知り抜いていたのでしょう。彼が気に入りそうな……つまり、彼の言いなりになってくれるような人物ばかりを武里リゾートに送り込みました。それに気をよくした冬樹さんは、ますます増長し、気に入らない人間を追い払っては、本部から人を融通してもらうことを繰り返していたようです」
「その結果、冬樹さんの周りが腰巾着だらけになったわけだ。だけど、この新しく補充された腰巾着たちっていうのがねえ…… 真っ黒い」
「黒い? 素行が悪いということですか?」
「いいや。冬樹さんに対してドス黒い感情を隠し持っているかもしれない意味で、黒い」
森沢が首を横に振る。「優希耶さんと同じです」と弘晃も言う。
「全員を調べたわけではありません。疑わしいだけの人もいます。けれども、調べた人のほとんどが、過去に冬樹さんがらみで手痛い目にあっている本人または関係者ばかりだったんです」
しかも、彼らは、もとからグループ本部に属していた人間ばかりでもないそうだ。本部が武里グループの関連会社のあちこちから引き抜いて、武里リゾートに送り込んでいたという。
「鉄道からふたり、デパートから3人、ホテルから3人、不動産と美術館と映画館と劇場とコンサートホールからも1人ずつ。 ……といったぐあいにね」
歌うような口調で森沢が補足する。
「役員については、さすがにそこまでバラバラではなくて、一度は外に出されたもののグループトップの春栄さんの取りなしでリゾートに戻ることができた元武里建設の役員と本部から送られてきた人間で構成されているようだけど」
しかしながら、彼らに懐いている部下まで含めれば、冬樹の側にいるのは彼に対して好意をもっているとは思えない者ばかり。「冬樹さんの学生時代からの《お友達》にせよ、見方をかえれば、子供の頃から冬樹さんに奴隷扱いされてきた人々です。冬樹さんを恨んでいる人がいても、おかしくはないでしょう」と、弘晃もため息をつく。
「そんな人々が、おそらく個別に、そして全力で冬樹さんを持ち上げていたわけです。高く、高く。天まで届けといわんばかりに冬樹さんのことを無責任に高く持ち上げておきながら、落とし穴を見つけしだい、その真上まで連れていってから手を離してやろうと、彼らが思っていたとしたら?」
「まさか、そんな…… いや」
信じられないと首を振りかけた要が、いったん口を閉じて考えこみ、やがて、大きく息を吐いた。
「ああ、そうか。そういうことだったから……」
浩平から種明かしをされても消えなかった要の違和感の理由がやっとわかった。
「思い当たる節でも?」
「僕も、気持ち悪いというか、どうしても腑に落ちないことがあったんです。なにしろ、浩平の策略というのが、出たとこまかせレベルで杜撰だったものですから」
浩平たちがしていたことは、悪巧みには違いないが、結果的には、ただただ冬樹の気まぐれと悪意に振り回されていたようなもの。一度など、彼らのしたことのおかげで冬樹を勝者の座に押し上げかけたほどに、いい加減なものだった。嵌めようとしている相手に翻弄される策略など、普通だったら、秋彦の部下たちが介入する遥か手前で頓挫していないほうが不思議である。それでも、最終的に目的を達成できたのは、ひとえに冬樹のおかげ。浩平が手詰まりになった時に、冬樹が浩平の想像の上をいく馬鹿なことをしでかしてくれたからでしかない。
「僕は、それを、『冬樹さんが愚かだったから』ということにして、納得しようとしていました。 でも、浩平たちの知らないところに、彼らの協力者が何人も潜んでいたのだとしたら、話は変わってきます」
もしも、浩平や優希耶たちが《冬樹のたいこもち》だと揶揄している人々の中に、浩平たちを密かに応援している者がいたとしたら? ふたりの謀が頓挫しそうになるたびに、冬樹の味方のふりをして彼が馬鹿なことをしでかすように誘導している人物がいたとしたら? それも、ひとりやふたりではなく、冬樹の周りにいるほとんど全員が、冬樹の立場が不利になるように、彼が破滅するようにと、全力で彼をおだて上げ、そそのかしていたとしたら?
「そういう協力者たちがいたからこそ、浩平たちの企みはうまくいったのでしょう。そうでなければ、あそこまで、彼らにとって都合がよいばかりの展開になるわけがない」
「うん。たぶん、その隠れた協力者たちが、陰ながら悪い方に軌道修正していたんだろうね」
「とはいえ、そんな協力者の存在を考慮に入れてもなお、都合よく事が進みすぎていたようにも思えないでもないですけど」
浩平によれば、もともとの彼らの冬樹への復讐計画は相当気が長いものだった。マリアさえ現れなければ、少なくともあと20年はなにも行動も起こさなかった可能性が高い。
「いいえ。浩平さんたちがなにもしない可能性も、始めから織り込み済みだったでしょう」
弘晃が微笑みながら首をふる。
「考えてもみてください。あれだけ冬樹さんを恨みに思っていた人々が彼の周りにひっそりと集まっていたのです」
浩平が何かをしなくても、いずれ、しかも近いうちに、他の誰かが冬樹への復讐を実行に移したに違いない。その時には、優希耶や浩平が、復讐者への密やかな協力者になっただけのことだ。これまでも、不発に終わってしまった復讐計画が幾つもあったかもしれないと、弘晃が言う。
「もっとも、今回ばかりは、裏で糸を引いている人までもが、全力で浩平くんたちを応援しようと思ったようですけどね」
「六条さんという破壊の神も確実に巻き込めそうだったし、なによりタイミングが良かったからね。ホワイトヘブンのことで心を痛めていた浩平君たちと、橘乃ちゃんの持参金の話は、彼の中で絶妙にリンクして、冬樹さんを排除する絶好の機会に思えたことだろう」
森沢が、「まだ噂の段階だけどね」と前置きしたうえで、ある情報を教えてくれる。
「それが本当ならば、冬樹さんに気を使う必要はなくなりますね」
正確には、冬樹の母親におもねる必要がなくなる。
「梅宮さんにも、裏で糸を引いている人物が誰だかわかったようですね」
「それは、まあ」
これまで要が聞かされてきた話を考えあわせると、思いあたる人物は、ひとりしかいない。
その人であれば、武里リゾートに人を送り込むことも、優希耶を冬樹の秘書に据えることもでいた。自分たちでホワイトヘブンをどうにかしなくてはどうにもならないと、浩平たちが思い詰めるようになった時にも、その人が関わっている。森沢が聞きつけた噂を加味すれば、その人が、意図的に浩平と優希耶とを、冬樹への復讐に駆り立てた可能性もある。
「それにしても、ずいぶんと手間のかかったやり方ですよね。いったい、いつから、どういう理由で、こんなことを始めたんだろう?」
「それは、ご本人に聞いてみるしかありませんね」
「そうだね。そろそろ行こうか? 約束していた時間も近いから」
森沢が車を発進させる。行き先は、そこからさほど離れていない武里グループの本部ビルだ。グループの最高責任者でもあり秋彦の兄でもある竹里春栄は、社長室で3人の到着を待っていた。




