誕生日には歌を 9
竹里秋彦の更迭は、セレスティアルホテルの上層部、つまり、毎日のように秋彦と顔を合わせて働いていた人々にとっても寝耳に水の出来事だった。しかも、秋彦の後窯におさまったのが、こともあろうに自分たちが敬愛する社長を解任させることになった事件を起こした張本人であるばかりか、本来は売り物であるはずのセレスティアルホテルのスイートを我が物顔で利用し放題の竹里の末っ子の冬樹である。新しい社長を出迎えなければならなかった誰の心の中にも、冬樹の我がままに振り回された苦い思い出がダース単位でため込まれている。
「それなのに、秋彦さんを追い落としてセレスティアルホテルの実権を握った冬樹さんが最初にしたことは、セレスティアルホテルの現状を把握するために新しい部下たちから報告を求めることでも、『これから、一緒に頑張ろう』と皆を激励することでもなかった」
冬樹が真っ先にしたこと。
それは、自分を馬鹿にした六条橘乃と茅蜩館への報復だった。
「冬樹さんが起こした ――といっても、実際にやったのは浩平だけど―― 誘拐未遂事件のせいで、セレスティアルホテルは大幅な値下げまでして苦しい思いをしているのに、冬樹さんは、そのことを詫びるどころか、触れることさえしなかったそうだよ」
「もしかしたら値下げのことを知らなかったのかもしれないわね。知らなかったら知らなかったで、そのほうが腹が立つけど。ところで、秋彦さん配下の人たちは、茅蜩館に嫌がらせすることについては……」
「もちろん、結果の予想はついていたそうだよ」
だが、彼らが言葉を尽くして思いとどまらせようとしても、冬樹は全く聞く耳を持たなかった。それどころか、冬樹は、小言ばかりの彼らを疎ましがり、遠ざけようとしたという。
「それでも、できる限りの抵抗はしてくれたそうだよ。茅蜩館に出入りしている業者やスタッフの引き抜きも止めようとしてくれたって」
これも、もっぱら自分たちのためにならないからという理由からだ。茅蜩館は、祖父母の代から利用してきたことを誇りに思っているような上得意客を多く抱えている。そして、彼らのほどんどが、全国に展開しているセレスティアルホテルに大口の法人客をもたらしてくれる企業の幹部でもある。露骨に茅蜩館と戦う姿勢を見せれば、あらゆる方向から茅蜩館に加勢するものが現れるに違いない。茅蜩館がそういうホテルであるからこそ、業突く張りの竹里剛毅でさえ、浩平という偽の相続人を送り込んだだけで結局何もできないまま手をこまねくしかなく、『ぬるすぎる』と文句を言いながらも、『茅蜩館とは、争うのではなく協力していくべきだ』という秋彦のやり方を黙認するしかなかった。茅蜩館を力づくで奪うような無理をすれば返り討ちに合うことを、あの剛毅でさえわかっていたのだ。
『もう、おしまいだ』
自分たちの忠告をまるで聞く気のない冬樹を前に、彼らは絶望した。冬樹がいる限り、セレスティアルホテルに未来はない。このままでは、確実に潰れる。冬樹がセレスティアルホテルの代表として派手に活動すればするほど早く惨く、セレスティアルホテルは崩壊することだろう。そして、このホテルで働く幹部からパートタイムまで、一人残らず路頭に迷うことになる。
『これでは、六条さんに潰されるほうがましではないか』
彼らは、そう思わずにはいられなかった。社会の底辺から這い上がった源一郎は、滅茶苦茶なことをしているようでも、地道に働いている庶民を狙って泣かせるような真似はしない。彼が苛烈な態度に出るのは、無能な経営陣に対してだけだ。源一郎が変革だか破壊だかの大鉈をふるった結果、かえって社員が働きやすくなったということも少なくない。六条源一郎がセレスティアルホテルの経営に口出しするとなったら、まっ先に竹里冬樹をどうにかしてくれたはずだ。
それに、六条源一郎を怒らせるようなことをしたのは、冬樹ではないか。それなのに、なぜ、冬樹ではなく秋彦が責任を取らなくてはいけないのだ? どうして、冬樹は野放しのままなのだ? どうして、六条さんは、冬樹をどうにかすることもなく海外なんぞに行ってしまったのだ?
「お父さまに暴れてもらいたいとまで思いつめるなんて、お気の毒に。どうかしてしまったとしか思えないわ」
「彼らは、六条さんの力量を信じているんだよ」
父親の暴力的な面を切望されている娘の心境の複雑さを察して、要は橘乃に微笑みかけた。話を戻すと、追いつめられ絶望した人間というのは、投げやりになるものらしい。彼らは冬樹を諫めるのをやめた。『もうどうにでもなれ』と言わんばかりに、彼のしたいままにさせておくことにした。茅蜩館への妨害行為も強引な引き抜きについても、冬樹の好きにさせた。帝都劇場の改築にあわせてオープンさせようとしているホテルについても、事前に菱屋に話を通したほうがよいという類の忠告は一応してみたものの、冬樹はまるで聞く耳を持たなかったので、その後は何も言わないことに決めた。もっとも、この新設の都市型リゾートホテルについていえば、彼らは、もともと口出しするつもりがなかったそうだ。
「あれは、武里リゾートが手がけている案件だからね。冬樹が社長を兼任しているとはいえ、セレスティアルホテルの社員が口出しできるものだとは考えていなかったみたいだ」
だが、全く口出しをしないかわりに冬樹のやることなすことに内心でケチをつけまくっていた秋彦の部下たちは、やがて、あることに気がついた。冬樹の周りに群がる腰巾着のような側近たちの中に、ひとりだけ、自分たち並みに冷めた目をしている者がいる。
「優希耶さんのことね」
「うん」
セレスティアルホテルの幹部社員たちが目を付けた男は、山辺優希耶という冬樹の若い方の秘書だった。口数の少なさと表情の薄さ、そして若手とは思えないほど仕事の手際の良いことから若く見える30代かと思っていたら、本当に若くて、実は冬樹よりも年下であるという。彼は、他の腰巾着と一緒になって冬樹を誉めそやすようなこともしなければ、冬樹の機嫌を損ねるのを恐れるような素振りもみせない。 かといって、彼が反抗的かといえば、そうでもない。むしろ、彼は冬樹に対して忠実すぎるのかもしれないと思うこともある。だが、その忠実さが冬樹のためになっているかといえば、なっていない。
例えば、冬樹が、『茅蜩館の側に新設するホテルは、見る者の度肝を抜かずにはいられないようなものであると同時に、茅蜩館のボロさが際立つような建築物であるべきだ』と言った時のことである。優希耶は、冬樹の主張に沿って集められた多くのデザイン画の中から、冬樹が気にいらなさそうなもの(つまり、比較的まともなデザイン)を、わざわざ取り除けていた。《見返り美人》と題された新設ホテルの完成予想図は多くの国民からひんしゅくを買ったが、優希耶によって事前に選び抜かれたデザイン画の中から冬樹がどれを採用していたとしても、それを発表した時の彼が困った立場に置かれたであろうことは想像に難くない。
ボタンの偽娘が現れた時にしてもそうだ。冬樹が『橘乃が茅蜩館のオーナーになれないようにしてやりたい』と言い出した途端に、冬樹の腰巾着ごときが数日で久志の恋人の子を見つけられるのであれば、20年以上相続で争っていた茅蜩館の関係者は、そもそも偽物を仕立てる必要などなかったのではなかろうか? しかも、その娘が、たまたま冬樹の元交際相手だったなんて偶然が、あるわけがない。それゆえに、冬樹にせよ実際にマリアを見つけてきた腰巾着にせよ、最初は彼女の正体を疑っていたのだ。ただ一人、疑うことすらせずにマリアのことを偽物だと決めつけたのが優希耶だ。だが、優希耶から「そうまでして、冬樹さんとヨリを戻したいのか? 彼の気を引きたいのか?」と罵られたマリアは、自分の身を証を立てるために彼女の母親--つまり、パンパンだったというボタンの過去を語りはじめたことで流れが変わった。もちろん、優希耶は彼女の話を信じなかった。彼は、「そんな見え透いた作り話で、冬樹さんの同情を買おうとしたって無駄だ。冬樹さんは女性に甘すぎるところがあるからな。あんたみたいな女の子が可哀そうな話をすれば、すぐに優しくしてくれるに違いない。こんな男を騙すのは簡単だって思っているんだろう」と、更に激しく口調でマリアを罵った。すると、「そんなことはない」と否定するマリアに、なぜか冬樹が同調した。「俺は、そんなに簡単に女に騙されたりはしない」と優希耶に文句を言い出したのだ。明らかに論点がずれているが、頭に血が上っているらしい冬樹は、そんなことには気が付かない。それどころか、常に自分が主導権を握っていないと気が済まない冬樹は、優希耶に場を仕切られていたことも、おもしろくなかったらしい。始めはかなりマリアを疑っていたはずなのに、冬樹は、なぜか「頭から彼女の話を否定するのは可哀想だ」とまで言い出し、そのうえ、マリアの話の裏を取るようにと他の部下に調査を命じた。その結果、マリアが話したボタンの話は事実に基づいた話であることがわかり、マリアは信じてもらえることになった。
「当たり前だよね。マリアさんが話したボタンの話は、浩平が僕やおばあさまがから聞いたことだから、曖昧なところはあっても、嘘はない」
「それでも、あの時の優希耶さんは、本気でマリアさんを追い返すつもりだったらしいわよ」
橘乃が、マリアから聞いたことを要に教えてくれる。自分たちの失態によって冬樹を追い出すどころかのさばらせてしまったことを後悔していた浩平と優希耶は、今度こそ冬樹をどうにかしなければ……と焦っていた。だが、結局のところ、若輩の彼らができるのは、それまでの延長のようなことでしかない。茅蜩館を屈服させたい冬樹が新しいホテルを近所に建てようとするなら、どこかから強力な横やりが入って計画そのものが頓挫するようなデザインを選ばせるように仕向けるのが精いっぱいであるし、彼が茅蜩館の相続問題を再燃させようとすれば、八重や要の前に連れて行った途端に正体がばれるような偽物を仕込むことぐらいのことしかやりようがない。
「それでも、冬樹さんにマリアさんを会わせるのは問題でしょう?」
橘乃に夢中になった時期が間に挟まったとはいえ、冬樹は、自分が捨てる前に姿を消したマリアへの怒りと執着をなくしていないかもしれない。それ以前に、マリアではなくても女の子を冬樹に近づけるのは、犯罪に加担するようなものである。従って、自分たちが誂えるボタンの子供の偽物は男性であるべきだと、浩平たちは考えた。男なら、冬樹も手を出したりしないだろう。たとえ襲われたとしても、男なら女の子よりもマシ……かもしれない。
「だから、浩平さんたちは、マリアさん経由で彼女の同い年の従兄に偽隠し子役を頼もうとしたの」
しかしながら、冬樹を騙すのであれば、女性の方が適任だ。自分が被害を受けないために従兄を代わりに差し出すのも気が引ける。マリアは、悩んだすえに、従兄が引き受けたことにして、浩平からはボタンの情報を、優希耶からは、その情報を最初に持ち込むべき冬樹の知り合いの名前と居場所を聞き出した。
「だからね。優希耶さんも、マリアさんがボタンさんの隠し子として登場したことに驚いていたそうよ」
「同時に、優希耶さんは、彼女が自分たちに黙って危ないことに首を突っ込んだことに腹を立てていたそうだ。だから、本気で彼女を追い返そうとした。それが無理なら、冬樹さんが絶対に彼女に手を出す気になれないように話を持っていくしかないと思ったそうだよ」
それなのに、『追い返したい』『追い返されるわけにはいかない』という優希耶とマリアの気迫が、ふたりのやり取りに真実味を与えてしまった。結果的に、優希耶はマリアの化けの皮を剥がすどころか、冬樹がマリアが本物であると信じ込むことに力を尽くしてしまうことになった。優希耶から散々女たらし呼ばわりされた冬樹に、『彼女に手を出す気はないよ。茅蜩館を追い詰めるための大事な切り札だからね』と言わせたのが、優希耶にとっての唯一の救いであり成果であろう。
さて、優希耶とマリアの茶番めいた必死のやり取りに居合わせてしまった秋彦の元部下たちは、ますます山辺優希耶という人物がわからなくなった。
いったい彼は何者なのか? 何を考えているのか? そもそも冬樹の味方なのか? 一生懸命仕えているようなのに結果的に冬樹のためにならないことばかりしているようなのは、彼がわざとやっていることなのか、それとも単なるボケなのか。それよりも気になるのは、あの山辺優希耶という青年を、自分たちがずっと以前から知っているような気がすることである。どうして、そんなふうに思ってしまうのだろうか?
秋彦の元部下たちは、山辺優希耶を探ることにした。真面目で仕事熱心な彼らが、半年ほど前にホワイトヘブンのことで冬樹に意見したために優希耶が殴られたことを知ったことで、同じ時期にホワイトヘブンと武里リゾートのことを秋彦に相談していた浩平と彼を結び付けたついでに、ホワイトヘブンの誘致に積極的に関わったせいで自殺したらしい冬樹の元交際相手の妹がマリアと同一人物であることを突き止めるまでに、たいした時間はかからなかった。10年ほど前に不良化しかけた浩平を秋彦社長と共に追いかけ回したことがあった社員は、当時浩平とつるんでいた少年が優希耶だったことを思い出した。
それから間もなく、彼らは、浩平と優希耶とマリアが集まっている現場を抑えることにも成功し、この若者たちがしでかしたこと、これからしようとしていることについて、洗いざらい白状させた。
「浩平と優希耶さんは、ものすごく怒られたそうだよ。『君たちは、自分がしたことの浅はかさと重大さを理解しているのか!』というあたりは、今日のおばあさまと秋彦さんのお説教と内容的には同じだね」
「そうかもしれないけど、ふたりとも、ホワイトヘブンのことを放っておけなかったのでしょう? 他にやりようもなかったと思うのよ」
「うん。秋彦さんやおばあさまとは違って、その点については同情してもらえたらしい」
冬樹に対してどうにかしたくてもどうにもできない気分を味わっているセレスティアルホテルの幹部社員たちには、浩平たちの気持ちが充分に理解できたようだ。しかも、彼らは、秋彦や八重では思いつかないようなことでも怒っていた。
「『どうせやるなら、どうして、もっと徹底的にやらなかったんだ?!』って言ったそうだよ」
『冬樹は、ありもしない罪をでっち上げなければならないほど清廉潔白な人物ではない。そして、やってもいない罪を被せて陥れるのは、とても難しいことだ。だから、冬樹の性格を利用して、自分から罪に陥るように仕向けるのは、いいだろう。なにより、君たちの罪悪感が、少なくてすむ。だが、相手が悪人であろうと事情があろうと、人を陥れることは悪いことでしかない。悪いことだから、後ろめたいのだ。その後ろめたさを誤魔化そうとして中途半端なところで手を抜くような真似をするから、君たちは、あと少しのところまでしか冬樹を追い詰めきれないし、肝心なところで六条さんに逃げられたりするんだ。
だから、どうせやるのなら、徹底的にやれ。手加減なんぞするな。成り行きや偶然にも頼るな。二度と冬樹がホテル業に関われなくなるまで、あるいは関わりくないと思わせるまで、完全に陥れろ。そして、この先、君たちが気に入らない奴が現れたとしても、この手の姑息な悪巧みは二度とするな。それから、秋彦社長には絶対に知られるな。それならば、自分たちも協力する』と、彼らは浩平と優希耶に言ったのだそうだ。
「へ? 協力?!」
「さっきは、秋彦さんがいたから言えなかったんだけどね。浩平どころか部下たちまで、冬樹さんを追い落として自分を元の地位に戻そうとしたのだと知ったら、秋彦さんが自分から社長を降りちゃいそうだから」
鳩が豆鉄砲と食らったような顔をしている橘乃に、要が苦笑いを返す。
「ところで、協力って、例えば、どんな協力をしてくれたの?」
「まずは、浩平たちがこれからしようとしている計画へのダメ出しだね。浩平たちの最初の予定では、新設ホテルの件で巻き込むのは、菱屋さんと菱屋の会長だけだったんだけど……」
だけども、完成予想図を菱屋の都市開発部門と菱屋会長宅に郵送する予定だった浩平を、秋彦の部下たちは、『甘い』と断じた。菱屋の会長は、確かに恐ろしい。影響力は六条源一郎以上であろうから、彼を本気で怒らせたら、冬樹などひとたまりもないだろう。だが、菱屋の会長は源一郎に負けず劣らず多忙な方だ。源一郎の時と同様に肝心な時に使えな……い、……ではなくて、国内にいない可能性もある。
それに、会長は、娘が絡んだ時の源一郎ほど短絡的な性格はしていない。こちらの思惑どおりに動いてくれないかもしれない。例えば、菱屋の会長が内々に圧力をかけてデザイン変更の確約を武里からとるだけで満足してしまったら、どうする? そんなことになったら、せっかくの悪巧みが水の泡になってしまうではないか。
そうならないためには確実に菱屋の会長を怒らせる必要があると、彼らは浩平に入れ知恵した。菱屋を無視して菱屋の望まない計画が勝手に進められている。この無礼を見過ごしにすれば、菱屋のメンツが潰れる。菱屋のほうこそ世間さまから嗤われかねないと、菱屋に思わせる必要がある。
「……。つまり、菱屋さんの顔に泥を塗るってこと?」
「考えるだけでも怖いよね」
苦いものでも口にしているような顔をしている橘乃に、要が身震いしてみせる。もっとも、冬樹がいるかぎり後がない浩平・セレスティアルホテル連合は、プライドの高い菱屋の神経を逆撫ですることをためらう余裕はなかったようだ。浩平が直接菱屋の会長に告げ口に行くのを後回しにする一方で、優希耶と秋彦の元部下たちは、新しいホテルについて冬樹が口を滑らせたくなるような機会を積極的に作ることにした。
「全然関係がないところから、最初に自分に話があってしかるべき新設ホテルの計画が菱屋さんのところに入ってくるように?」
『そういうのって堪えるのよねえ』と、橘乃が眉を寄せる。ふたりは知らなかったが、『問い合わせ』と称してこのホテルの話を菱屋に注進した者は、ひとりやふたりではなかった。なかでも菱屋をいらだたせたのは、これまでに何かにつけて張り合ってきた旧中村財閥の事実上の当主である中村弘晃からの電話であっただろう。
「『あの引きこもりにまで既に知られておるとは!』って、菱屋さんは思われたんでしょうね」
「弘晃さんは、外を出歩くことはしないかわりに、情報の方が彼のところにすい寄せられていくようだけどね」
橘乃がおかしそうに笑うので、要も笑顔になる。
「ところで、浩平たちは、冬樹さんに話させるだけでは足りないかもしれないと思った。だから、テレビ局にも、こっそりと新しいホテルの情報を流すことにしたそうだ」
「冬樹さんが記者発表をしたテレビ局?」
「うん。子供番組ばかり流しているローカル局だと思われているけど、あのテレビ局の親会社は日刊の経済誌だからね」
そのうえ、株主には菱屋を筆頭に大手の企業が名を連ねている。また、東京圏内を地元として活動しているから、新しいホテルが建とうとしている地域の事情にも明るい。あのテレビ局であれば、新設ホテルのデザインの問題点に確実に気が付いてくれるだろうし、放送するとなったら必ず菱屋に断りを入れるはずだと、彼らは考えた。
「じゃあ、本館のフェアウェルパーティに便乗させてもらった私たちの披露宴も利用したの? あのパーティの後、冬樹さんの評判はがた落ちになったでしょう?」
「いや、あれは、どうやら、僕が彼らを焚き付けてしまったらしい……です」
要が頬のあたりをホリホリとかく。
もともと、浩平は要たちの結婚披露パーティーを利用する気などなかったそうだ。当たり前だ。浩平どころか要や橘乃だって、これほど結婚式が急になるとも大事になるとも思っていなかった。
「そもそも、浩平は、どれだけ冬樹さんが頑張ったところで、茅蜩館の相続問題を今さら蒸し返すことなんてできないと思っていたんだ」
茅蜩館の相続問題は決着がついたことだ。冬樹がどれほどもっともらしい偽物を仕立てたところで、八重が自分が決めたことを覆すとは思えないし、横浜や鎌倉の総支配人たちも冬樹に乗せられて問題を蒸すほど愚かではない。
それに、これは橘乃には言えないことだが、浩平は橘乃がボタンの娘であることを知っていたし、要も気がついているはずだと確信していた。冬樹が偽者を連れてきたところで、要は本物のボタンの娘を知っている。だから、冬樹がどんな言いがかりをつけようと、要がどうにかするだろうと高をくくってもいた。要するに、浩平は、この件を要に丸投げする気だったのだ。
浩平が気にしていたのは、むしろ八重のほうだったそうだ。どうやら本当に橘乃の正体に気がついていないらしい八重が《ボタンの娘》という存在を知った時に、どういう反応を見せるのか? 偽物の孫や血の繋がらない娘や息子に与えてきたものとは質や量が異なる愛情を、その子にだけは与えようとするだろうか? もっとも、浩平にとって幸いなことに、ボタンの娘が現れても八重の態度は変わらなかった。 『自分が与えられるものは、今まで自分が育ててきた子供たちに与えてきたものと同じものでしかない』のだと言葉にもしてくれた。浩平は、「嬉しかった」と言っていた。「おばあちゃんに育ててもらえてよかった」とも。
(僕も…… そうだな。嬉しかった)
浩平だけではない。もしかしたら、要も、心のどこかで八重の気持ちを疑っていたのかもしれない。八重の血を引く橘乃を羨んでいなかったかといえば、きっと嘘になる。
(橘乃さんにしてみれば、迷惑な話だよな)
橘乃は、なにも知らない。
要が真実を隠しているからだ。
でも、本当に、彼女に、なにも知らせないままでいいのだろうか?
「要さん?」
「ごめん。ちょっと、ぼーっとしてた」
橘乃の声で我に返った要が、一抹の罪悪感を微笑みでごまかしながら首を振る。好奇心は強いが勘繰ることが苦手な彼女は、「今日は、いろいろあったものね」と言いながら、要の茶を入れ直してくれた。
「ともかく、浩平は、マリアさんを茅蜩館に連れていったところで誰も相手にしないだろうと思っていた。あっと言う間にボタンの娘ではないと見破られて、この件は終りになるだろうってね。実際、僕は、マリアさんがボタンの娘ではないとすぐにわかった。おばあさまも貴子さんも信じちゃいなかった」
「久志さんの子供かどうかを疑うまでもないわね」
「うん。だから、僕も久志総支配人との繋がりではなくて、まずはボタンの娘だという証拠を見せてくれるように、マリアさんにお願いした。そんなものはありっこないと思っていたからね。だけど……」
「だけど、貴子さんと八重さんが、証拠になりそうなものとして《失われたレジスターブック》のことを持ち出したのね。それを浩平さんが聞いていた」
橘乃が、目を輝かせながら要のほうに身を乗り出す。こういう時の彼女の表情は、本当に八重に似ている。
「そう。浩平は、『これは、使える』と思った」
浩平は、マリアさんがボタンの娘であることの証拠として、レジスターブックを偽造することにした。
「偽のレジスターブックでは、僕たちのことは騙しきれない。けれども、一時的に冬樹さんを騙すためならば、戸籍謄本を偽造するよりも安全だからね」
それに、浩平は、かつての茅蜩館が使っていたレジスターブックが未使用のまま置き去りにされている場所を覚えていた。あれに宿泊者の名前と紛失時期の日付が書き込まれていただけで、冬樹は本物だと信じてしまうに違いない(実際、冬樹は簡単に信じてしまったそうだ)と、浩平は思ったそうだ。
「そんなこんなで、浩平がレジスターブックの偽物を作り始めた頃、茅蜩館では、葉月さまの発案で、本館休館を記念するためのパーティーが企画された」
要と橘乃の結婚披露と華やかなりし頃の茅蜩館を偲ぶことを目的としたこの集まりには、社会的な信用や経験を積み上げた各界の名士が多く出席するだろう。いやいや。この際だから、できる限りの名士を自分たちで集めてしまえばいいと、浩平たちは考えた。彼らの目の前で、茅蜩館を陥れるために冬樹が用意した偽相続人と偽レジスターブックの嘘を暴いてやるのだ。そうすれば、経営者たちの間での冬樹の評判は、どん底まで落ちるだろう。
「じゃあ、告知もろくにしていないのに、パーティーへの参加希望者が殺到したのは……」
「そう。代わりにやってくれたんだ」
浩平と手を結んだセレスティアルホテルの幹部一同が、東京圏内だけでの10件近くあるセレスティアルホテルのロビーや宴会場で、『これは』と思う客を見つけては、茅蜩館のパーティーの話をさりげなく伝えてくれたそうである。冬樹がレジスターブック紛失の犯人呼ばわりしていた国の大使館関係者を介して大使にパーティーの情報を伝えたのも、彼らだという。
「まあ……これは、あれよね。……つまり、浩平さんたちの目的はともかく、おかげで大勢の方に来ていただけたわけだから……」
「うん。僕たちの披露宴にとっては、出席してくださる人が増えたわけだから、よかったんだよ」
良いこと探しが得意な橘乃も、さすがに手放しで喜ぶわけにはいかないと思ったのだろう。複雑な表情を浮かべている橘乃に、要が笑いかける。
「でもね。浩平たちにとっては、あまりよくなかったんだ」
「え?」
「やりすぎちゃったんだよ。もっとも、結果を考えれば、それも良かったことなのかもしれないけどね」
後から思えば、秋彦の部下たちは、冬樹に報復する機会を与えられたことで悪のりしすぎたのかもしれない。コソコソしている割には積極的な彼らの広報活動は、冬樹が企画しているふざけたホテルにイラついていた菱屋の注意を引くことにもなった。
「その結果、冬樹の新ホテルについての情報がそろそろ届いている頃だろうと見越して会長に探りを入れるために近づいた浩平は、会長の手の者によって捕えられ、『君と君の一味は、武里のバカ息子の陰に隠れて、いったい私に何をさせようとしているのかね?』と、会長直々に笑顔ですごまれたそうだよ」
会長は『浩平が教えてくれた』と要に言っていたが、浩平によれば、『言わされた』というのが本当だそうだ。
「『あの時は生きた心地がしなかった』って、浩平は言っていたよ」
ともあれ、浩平がよけいな言い訳もせずに自分が首謀者であることを認めたことや、彼がホワイトヘブンの再建を真剣に考えていることなどか菱屋の会長には好ましく思えたらしい。また、これは浩平の推察でしかないし橘乃にも話せないことだが、会長は、自分が浩平にボタンのことを教えたせいで、またしても浩平がグレてしまい、冬樹を使ってセレスティアルと茅蜩館の両方を壊滅させようとしているのではないかと心配してくれてもいたようだ。
浩平の話を聞きおえた会長は、今日の午後に要に直接話してくれたとおり、この策略を菱屋のために利用しつつ浩平に協力してくれることになった。ちなみに、偽レジスターブックの、34ページ目と97ページの達筆なサインは、会長の手によるものだという。
「ホワイトヘブンの再建にも力を貸してくださるのよね」
「うん」
とても気が回る菱屋の会長は、浩平への説教がピークを過ぎた頃にタイミングよく八重の居間に直接電話をくれ、「武里のワガママ坊主を策略を用いて陥れたという点では自分も同罪だから、お詫びの印として、浩平くんと彼とグルだった山辺くんとやらを再建の為に現地で働かせることを条件に、ホワイトヘブンに出資する」と八重に言ってくれた。しばらくの間、八重は「それでは、浩平には何の罰になりませんでしょう?」とか「うちの孫を、こんな形で甘やかされては困ります」と電話口でゴネていたが、やがて根負けしたように会長に礼を言って電話を切り、「菱屋さんが、そこまでしてくださるんじゃ、茅蜩館が何もしないってわけにはいきませんからね」と、始めからそのつもりであっただろうに、秋彦に遠慮する隙を与えぬまま、菱屋と共に茅蜩館もホワイトへブンの再建に全面的に協力する旨を申し出た。
優希耶は、武里リゾート開発を巡る某政治家との癒着問題や冬樹の起こした諸々の所業を止められなかったことについての責任を取らされる形で、他の冬樹の取り巻きもろともに処分されることが決まったそうだ。降格や減俸、そして左遷など、それぞれが『嫌なら辞めろ』と言われているにも等しい厳しい処分を受けたようだが、優希耶の左遷先はホワイトヘブンである。冬樹の周りにいる人間の中では比較的まともであったにもかかわらず、既に潰れたも同然のリゾート施設に飛ばされることになった優希耶に多くの者が同情しているようだが、本人だけは大喜びで、うっかりすると笑顔になる自分の表情をコントロールするのに苦労しているという。
「あそこをどこがどういう形で存続させていくかについては、まだ、ちゃんとは決まっていないけれども、菱屋さんが協力してくださるのなら心強いよね」
「そのうえ、茅蜩館のバックアップがあって、浩平さんと優希耶さんが頑張ってくれるなら、ホワイトヘブンも安泰ね」
「まだまだ安心はできないけれども、なんとかしなくちゃね」
初めから諦めていたら、なにも変わらない。それに、浩平の話を聞く限り、ホワイトヘブンには、スキーやゴルフといった施設以外にも、あの場所の魅力を底上げできる種のようなものが沢山眠っているようではある。東京の茅蜩館はこれから建て替えの時期に入るから、期間を区切って、あちらに人手も回せる。レストランや茅蜩館を卒業していった料理人も、地元の食材を使ったメニューの開発に協力してくれるだろう。だが、一番手っ取り早く変えられるのは米だと、要がつぶやく。ブランド好きの冬樹は、高品質ゆえに全国的に知られているとはいえ他県産の米をわざわざホワイトヘブンの厨房に入れていたという。そのせいで、地元客の反発を買っているという現状もあるそうだ。変えられるところから、速やかに変えていかなくてはいけない。
「なんとでもなるわよ。きっと」
基本的に楽天的な橘乃が笑う。しかしながら、基本的に苦労性で慎重すぎる要は、妻の言葉を全面的に肯定する気になれない。
(浩平は、もう何も隠していないだろうし、菱屋さんについては隠す理由もないだろう。でも、『解決した』と言い切るには、まだ、《何か》が足りない気がするんだよなあ……)
要には、まだ明らかにされていない《何か》が、どこかに残っているような気がしてならない。ともあれ、これ以上、探るところも思いつかない以上、彼としては半ば諦め気味に『なにかあったら、僕が対応すればいいか』と思い切るしかなさそうだ。
それよりも、心配なのは、これからの冬樹だ。世間を騒がせている最中なので、今のところは体裁を気にする竹里家が彼を外に出さないようにしてくれているようだが、いつまでも、彼が家でおとなしくしているとは思えない。
(大丈夫かな)と、要が心配する間もなく、翌日早々、橘乃の兄の和臣から『うちの庭で、冬樹を捕えた』という連絡があった。




