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誕生日には歌を  作者: 風花てい(koharu)
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誕生日には歌を 8

 

 橘乃は冬樹を嫌っている。 

 だから、彼女が彼を夫に選ぶことは、絶対にない。


 数ヶ月前。六条和臣が意図的にレストランに設置したテスト用の防犯カメラとテーブル下に仕掛けた盗聴器を介して、橘乃と冬樹が食事を共にする様子を別室から観察していた誰もが、そのように確信した。 唯一そう思わなかったのは、冬樹だけ。彼は、金持ちとはいえ単なる一般の女の子でしかない橘乃に自分がフラれるはずがないと信じていた。だから、橘乃が自分に対して冷たい態度を取るのは、他に原因があるに違いないと考えたようだ。



「食事の後、冬樹が橘乃さんの部屋を花でいっぱいにしようとしたよね?」

「ああ、あれね」

 

 要がうんざりと応じる。夜中に電話してきた冬樹の要望というのが、『橘乃が寝ている間に彼女の部屋を大量の花で飾り立ててほしい』という実にたわけたものだったため、要が、『夜中に女性客の部屋にスタッフを入れるわけにはいかない』からと、彼の頼みをはねつけた。翌日、懲りずに茅蜩館やってきた冬樹を蹴り出したのは、橘乃の父親である六条源一郎だった。


「どうやら、あれで誤解しちゃったらしいんだよね」

「誤解?」

「六条さんは橘乃さんの婿選びに介入する気満々で、口では『橘乃さんに選ばせる』と言っておきながら、始めから彼が選んだ男を――つまり要を――橘乃さんに押しつけようとしているに違いないってね」

 そして、橘乃は、人の気持ちに敏感な娘であるから、父親の意図にも、薄々気が付いている。しかしながら、優しい彼女は、父親を傷つけるのが怖くて彼に逆らうことができない。ゆえに、彼女は冬樹への恋心を隠して要を夫に選ぼうとしている。


「だから、橘乃さんは、あえて冬樹に対して無関心なふりをするしかなかった。彼女の邪険な態度は、冬樹のことが気になってしかたがないからだ。 ……と、そんなふうに、冬樹は誤解したようなんだね」

「浩平たちが、そういうふうに思わせたんじゃないのか?」

 要は、疑いを口にせずにはいられなかった。浩平も、六条源一郎が要と橘乃を夫婦にするつもりでいると思いこんでいたではないか。だが、浩平は「そう思われてもしかたないけど」と言いながら首を振る。

「でも、僕たちがおかしなことを冬樹に吹き込む必要なんて、全くなかった。なにしろ、冬樹の周りには、彼の腰巾着みたいな重役や社員がいっぱいいるんだよ」

 そういう人々が、橘乃との食事が首尾良く進まなかったせいで不機嫌になっていた冬樹を適当な言葉であやしてくれたらしい。浩平たちが働きかけるまでもなく、冬樹は、いつの間にやら橘乃に一方的な同情を寄せ、家とか親とかいうものに束縛されている彼女を助け出すことを自分の使命だと感じるようになっていたそうだ。

「なんというか、幸せ回路全開ってかんじだね」

「うん。あそこまで自分に都合良く誤解できる奴も珍しいよね」

 呆れる隆文に浩平が苦笑を返す。


 しかしながら、冬樹が誤解しているのならば、かえって好都合だ。浩平たちは、計画を変更することにした。つまり、冬樹が自分をヒーローであるかのように認識し『好きでもない男に嫁ごうとしている橘乃を自分が救ってやらなくては!』と思いつめているのであれば、『ふられた冬樹が強引な手段で橘乃を手に入れようとしたところを捕まえて、六条源一郎に引き渡す』という計画の筋書きを、『ストーカー化した冬樹が、橘乃を散々困らせた挙げ句、源一郎を激怒させる』に変えてしまおうということになった。

 

 しつこい迷惑電話は、(もちろん、冬樹も、橘乃を誘い出すために頻繁に六条家に電話していたのだが)社長室の席を暖める暇のない冬樹の不在時を狙って優希耶が行っていた。電話が六条家から六条コーポレーションの秘書室に転送されるようになってからは、それこそ掛け放題であったという。六条家に送り付けられた橘乃への贈り物については、冬樹の指示をうけた優希耶が発注時に量の水増しをしたり、追加で注文したりした。


「家の周りを冬樹さんらしき変質者がうろついているというのは?」

「あれは、六条さんの家に潜り込んでいた僕らの仲間が流したデマ」

 そうはいっても、要が冬樹と遭遇した一件も含めて、冬樹が2日に1度程度の間隔で約束もないのに六条邸まで橘乃を迎えに来ていたことは、事実だという。


「じゃあ、誘拐未遂は?」

「あれは、半分本当」

「半分だけ?」

「冬樹も計画していたんだ。実行寸前だった」


 冬樹は、橘乃と会えないことに苛立っていた。『こうなったら、橘乃さんをさらってくるしかないか』と、冬樹が半ば本気でつぶやいているのを耳にした者も少なくなかったという。戯れ言だと信じたいが、なにしろ言っているのが冬樹である。もしかしたら、近いうちに、六条源一郎の娘を本当にさらってしまうのではなかろうか? 最悪の展開を危惧した重役たちは、「冬樹さまが、おかしな行動をしないように気をつけていてくれ」と、優希耶にも言いつけていたそうだ。


「そんなとき、ムーンライトっていう店の十六夜さんっていう人が、優希耶に電話してきたんだ」

 橘乃がさらわれそうになった時に彼女が連れていかれた店であり、そこで働いている女性の源氏名であるという。「要も会っているよ」と言われれば、「なるほど、橘乃を取り返した時に言葉を交わした、あの色っぽい女の人か」と、要も思い当たった。


「その十六夜さんが、『冬樹さんが、彼がよくつるんでいる男たちと、よからぬ相談をしているようだ』って」

「誘拐の相談ってこと?」

「そう」

 ムーンライトは、マリアが冬樹に酔いつぶされた店でもある。『これ以上、うちの店を根城に犯罪まがいのことをされるのは、ごめんだ。冬樹は金離れのいい上客には違いないが、店にまでとばっちりがくるような悪いことをされるのは非常に困るのだ』『だから、冬樹が恐ろしい真似をする前に、どうにかしてほしい』と、十六夜は優希耶に訴えたそうだ。 


「十六夜さんのおかげで、冬樹が橘乃さんを誘拐しようとしていることが確実になった。 実行犯もわかった」

 だけども、わかったのは、それだけだった。誘拐計画がいつどのような手はずで行われるいるのかまでは、十六夜も聞き取れなかったという。浩平の仲間たちが見守っているとはいえ、このままでは、ほんのわずかな隙に、橘乃が誰も知らないところに連れていかれてしまうかもしれない。それに、誘拐した橘乃が連れて行かれるのが、冬樹が利用しがちな赤坂のセレスティアルとは限らない。『ならば』と、浩平たちは考えた。冬樹がゴーサインを出す前に、冬樹が赤坂のセレスティアルホテルにいる時を狙って、冬樹の手下である実行犯たちに橘乃を誘拐させてしまおう。


「実行犯は、冬樹が昔から便利に使ってきた彼の同級生だから、顔も名前も連絡先も住処も、わかっていた。それで、彼らに見張りをつけてから、十六夜さんに電話してもらったんだ」

 学生時代から脊髄反射的に冬樹の言いなりになってきた男たちだ。浩平たちが十六夜に託した「なんのことだかわからないけど、冬樹さんが『例の計画を、今すぐに実行しろ』ですって。それから、連絡があるまで、彼女と、うちの店で待っているようにとも言ってたわ」という伝言を疑うこともせずに、彼らは誘拐計画を実行に移した。 驚いたことに、冬樹が立てた誘拐計画の第一段階は、彼の秘書である優希耶に電話をし、冬樹の名前を使ってハイヤーを調達させることだった。冬樹に従順だと思われている優希耶は、もちろん、彼らのために車を用意してやったが、同時に、ハイヤーのナンバーを浩平にも知らせた。そして、浩平は、タクシー無線を介して、橘乃をさらった車の情報を、彼女を追いかける要に教えた。その後のことは、要も知っているとおりである。


 しかしながら、あれだけ源一郎を怒らせたにもかかわらず、誘拐騒ぎの影響は、またしても浩平の望んだ方向には進まなかった。過激派によるテロ活動か、あるいは226事件の再来かと過剰に心配した某国や某国に説明するために、肝心の源一郎が日本を留守にすることになってしまったのだ。


「六条さんがいない隙に、武里グループどころか、政府もマスコミまでもが口をつぐんで事件をうやむやにしちゃうし、しかも、へし折られたのが赤坂のホテルだったからって、なぜか冬樹じゃなくて秋彦が責任を取ることになっちゃったし……」

「ねえ、あんまり言いたくないんだけどさ」

 愚痴っぽくなってきた浩平に、隆文が「浩平たちの計画って、実は、なにひとつ当初の予定どおりに進んでいないんじゃないの」と、うんざりしたような顔で指摘する。

「ちゃんと計画しているように見えて、実は行き当たりばったりでしかないというか、冬樹さんの予想を上回る行動に振り回されているだけのような気がする」

「そんなこと――」と言いかけておきながら浩平が悔しそうに口を引き結んでしまったのは、本人にもその自覚があるからだろう。「要もそう思うよね?」と隆文に水を向けられた要も、まったくそのとおりだ言わんばかりに大きくうなずいた。


「それどころか、冬樹さんの予想以上の馬鹿さ加減……失礼――彼の突拍子もない妄想力とか野放図すぎる行動に、浩平たちのほうが助けられてるような気さえしてきた」

「助けられてないよ!」

「そうだな。助けられているとは言いがたいな。だけど、この時点で冬樹さんが暴れるのをやめていたとしたら、どうなっていたかを考えてみてごらん」

 

 源一郎がいない間に、(半分は濡れ衣だとはいえ)誘拐未遂という冬樹の罪は、不問に付された。それどころか、秋彦が責任をとることになったおかげで、セレスティアルホテルの代表の座が冬樹の元に転がり込んできた。

「冬樹さんは、以前から秋彦さんを邪魔に思っていた。彼がいなくなることで、ホテル事業とリゾート事業を自分の思いどおりにできるからだ。そんな彼の希望が、浩平たちが企画した陰謀によって、運よく実現してしまった」


 この時点でおとなしくしていれば、冬樹の地位は安泰であったはずだった。それにもかかわらず、冬樹は橘乃と茅蜩館への報復に執念を燃やした。その結果、彼は、彼の母親や伯父でも庇いきれない失態を犯したばかりか、ふたりの力の拠り所であった母方の一族からも見限られてしまった。

「それは、冬樹が、我慢ができない甘ったれの馬鹿だから」 

「そうかな。僕は冬樹さんって人は、かなり計算高い人なんじゃないかと思うんだけど」


 どこまでならば、相手の自己責任だとして言い逃れできるか。どこまでならば、親や醜聞を恐れる身内から庇ってもらえるか。誰かに罪をなすりつけることができるか。法的な処分を免れることができるか。 冬樹は、無体なことばかりしているようでも、そういうことを無意識に計算しながら行動できる狡賢さを備えているように、要には思える。 

「そうでなければ、いくら親が金持ちで力のある人物であろうと、とっくの昔に前科持ちになっていたと思うんだ」

「僕もそう思う」

 隆文も要に同意を示す。 

「そうはいっても、皇居の前に悪趣味なホテルを建てることについては、冬樹さんでも悪知恵を働かせる機会がなかったんじゃないかな。だって、冬樹さんは、僕たちとは違うもの。騒ぎになるまで、あのホテルの何が問題なのかもわかっていなかった」

「……。それもそうだな」

 冬樹は、あのホテルの完成予想図を披露する直前まで、自分が賞賛を受けるものだと信じていたに違いない。 


「レジスターブックのことにしたって、そうだよ。冬樹さんは、あんなふうに嘘が見抜かれるとは思っていなかったと思うんだ。マリアさんのことを本物のボタンさんの娘だと信じていたから、パーティーに出席していた多くの人からひんしゅくを買うことも想定外だった。だから、油断した。それにーー」

 隆文が何もかも見透かすような目で浩平を見る。

「冬樹さんが憎いとはいえ、浩平は、彼を罠にかけることに罪悪感があったんじゃないの? でも、なんの落ち度もない秋彦さんが冬樹さんの身代わりみたいな形で責任をとらされたことで、今度こそ冬樹さんを許せなくなった。この時ばかりは、秋彦さんを元の地位に戻すために、浩平は必死になるしかなかった。 違う?」

「違うっ! なんで僕が秋彦のためにそこまで必死にならなくちゃいけないんだよ!!」

「だって、浩平は、秋彦さんが大好きじゃないか」


 素直になれない弟に人の悪い笑みを向けながら、要と隆文が声を揃えた。


 

 

***



 3人での話をした後、茅蜩館へ戻った要たちは、従業員用の入り口を守る警備員から八重の居間に顔を出すように言われた。難しい顔をしている祖母と顔を合わせるなり浩平が謝ったこと、また、特に迷惑をかけたとして彼から平謝りされた橘乃がマリアから話を聞いたことで冬樹に対して激怒しており、『冬樹さんをギャフンと言わせるために利用されたのであれば、嬉しい。どうせなら、私もろとも、もっと彼を痛めつけてやればよかったのだ』というような不思議な論法で浩平を庇う傍らで、マリアが『とにかく私が悪いのだ』と大騒ぎしたせいで、八重は毒気を抜かれてしまったようだった。彼女は、『うちやセレスティアルのお客さまや、世間さまに、ご迷惑をかけたことについての説教は後にとっておくとして』と前置きしたうえで、『とにかく、まず考えるべきは、ホワイトヘブンに対して茅蜩館が、どれだけのことをさせてもらえるかだよ』と、さっさと現実的な話題に切り替えた。


 とはいえ、ホワイトヘブンのやり方に口を出すとなれば、当然、現在の保有者である武里リゾート、つまり、今の武里リゾートの最高責任者である竹里秋彦と話をしないわけにはいかない。現在の秋彦は体がふたつあっても足りないほど忙しいはずだが、八重が電話口で重々しい口調で『あなたの戸籍上の息子の将来について大事な話がある』と言っただけで、30分足らずで妻を伴って(というより、輝美は輝美で八重とおしゃべりするために、たまたま茅蜩館に向かっていただけだが)飛んできた。そして、浩平が橘乃の婿選びの裏でしていた悪さについてのあらましを聞かされるなり、彼は、八重が『これ以上、もう叱る必要はないね』と苦笑いするしかない勢いで、浩平を叱り飛ばしたどころか投げ飛ばしもし、八重にも橘乃にも土下座せんばかりの勢いで謝った。それどころか、浩平が今回のことをしでかした理由に『秋彦が冬樹に困らされてばかりいることに対しての怒り』というのがあったため、彼は、ひとめもはばからずに号泣した。



「まさか、秋彦さんが泣くなんて……」

 その夜、帰宅して二人きりになるなり、橘乃が感慨深げに息を吐いた。


「浩平さん、困り果てていましたね」

「うん」

 困り果てていたどころか、輝美と一緒になって泣いていた。


「要さんと貴子さんも、そうだけと、あの3人も、ちゃんとした親子だったのね」

「パッと見には、わかりづらいけどね」


 浩平本人は絶対に認めようとしないし、憎まれ口ばかり叩いているのだが、浩平が、戸籍上の両親である竹里秋彦と輝美に懐いていることは、茅蜩館で働く多くの者が知っていることだ。そして、浩平が彼らを慕うのは、彼らが、相続争いの道具にすぎないはずの浩平のことを、本当の息子のように思っているからだ。 



「変だなとは思っていたんですよ」

 風呂から上がった橘乃が、要の向かい側で、彼が入れた茶を美味しそうに飲み干してから言った。 「輝美さんって、要さんと隆文さんと浩平さんで相続争いをしていた時は、浩平さんを次期オーナーにするべく一番熱心に動いていたのでしょう? 要さんにも、意地悪なことばかり言っていたって聞いたわ。でも、私が要さんを選んだのに、輝美さんは怒るどころか普通にお祝いしてくれたから」

「僕たちの結婚が決まる前に、浩平のほうがオーナー争いから降りてしまったからね」

 

 『他にやりたいことができたから』だと、浩平は話していた。彼の望みは、ホワイトヘブンを多くの客が楽しめる施設に生まれ変わらせること。ちゃらんぽらんに見せかけながら、あの頃から、浩平は、大真面目に自分の将来について考えていたのだ。


「輝美さんが、相続問題に口ばかり出していたのは、それが浩平のためだと思っていたから。というより、あの人、本当は、浩平の世話を焼きたいだけなんだよ」

 要が苦笑を浮かべる。輝美は、八重や貴子と仲違いするようにして敵方ともいえる武里に嫁いだ身だ。だから、彼女には、茅蜩館を訪れるための言い訳が必要だった。


「竹里剛毅が茅蜩館の相続争いに介入したドサクサで、たまたま養子として戸籍に入ってきた浩平だけど、あのふたりにしてみれば、形ばかりとはいえ、たったひとりの息子だ」 

 しかも、橘乃には話せないとはいえ、浩平は、竹里剛毅の実の息子である。つまり、秋彦の弟だ。輝美は、幼い浩平の中に、愛する夫の面影を感じ取っていたのではないだろうか。秋彦は秋彦で、浩平を可愛がっている輝美をみて、彼なりに微笑ましい気分に浸っていたのではなかろうか。


「しかも、秋彦さんは、橘乃さんも気が付いていると思うけど、とても律儀な性格の持ち主だからね」

 秋彦は、父親の命令により戸籍上息子として登録された浩平を、書類上の関係だと割り切れるような性格をしていなかった。彼は、彼なりに、浩平の父親であろうとした。杓子定規な性格ゆえに、父親らしい気さくさは誰にも微塵も感じられなかったものの、彼なりに浩平と親睦を深めようとぎこちない努力していたことは、誰もが認めるところである。


「定期的に浩平と面談してみたり」

「面談……って」

 堅苦しい単語に橘乃が笑いをこらえるが、要は大まじめだ。もっと柔らかい言葉をつかうべきなのだろうが《面談》としか表現できない。


「浩平が学校に行っていた頃は、運動会とか、父親参観とかにも――」

「参加したんですか?!」

「服装といい表情といい、周りの保護者から浮きまくってたけど」

 それでも、秋彦は忙しいスケジュールを詰めに詰めて浩平のために時間を捻出しているのだと、(だから秋彦さんのことを邪険にするなと)八重が当時小学生だった浩平を説得していたのを要も聞いたことがある。


「本当は、浩平を自分たちの手元で育てたかったんじゃないかな」

 そんなふたりが、長い間、要や隆文など茅蜩館で働く者たちが直接目にすることができる《武里》の人間だった。父親である竹里剛毅に真っ向から盾突くことはできないまでも、秋彦自身は、茅蜩館に対して誠実な態度を取り続けてくれていたし、営業に支障がでるほどの汚い真似をしたこともない。 


「相続問題で横やりを入れられたのに僕たちが武里のことを恨む気になれないのは、結局のところ、あのふたりのおかげなんだろうね」

「そうね」

 要の隣に腰を下ろした橘乃が、彼に寄りかかってくる。

 

「……。でも、冬樹さんが」

「そう、冬樹さんが」

 よりにもよって、冬樹が、彼を破滅させるはずだった浩平の陰謀によって、秋彦を追い落とすことに成功してしまった。浩平にしてみれば、絶対にあってはならないことだった。「浩平さん、随分落ち込んでいたみたいですよ」と、橘乃が、マリアから聞いたことを教えてくれる。 


「優希耶さんっていう方も」

「武里リゾートの今後のことも考えると、秋彦さんは、なくてはならない人だから」

「そして、冬樹さんは、いてはならない人ですよね。しかも、秋彦さんの代わりになったことで、武里リゾートどころかセレスティアルホテルまで破壊されかねない」

「うん。浩平は、冬樹さんに復讐するどころか、冬樹さんの横暴に手を貸すことになってしまうところだった」

 

 だからこそ、浩平たちは、『とにかくなんとかしなくては』と焦った。 


「特に、浩平は地位を追われて憔悴している秋彦さんを間近に見ているからね。といっても、なんといっても秋彦さんなので、見た目にあまり変化はなかったらしいんだけど」

 だけども、長年の付き合いのある浩平や輝美には、秋彦の落ち込みが深さがはっきりとわかる。だから、余計にやり切れなかったのだと、浩平は言っていた。どんなことをしてでも、秋彦を元の地位に戻したいと思った。


 しかしながら、やり切れないと思っていたのは……というより、『こんな理不尽があってたまるか』とか『やってられねえよ!』と憤り、秋彦の復帰を願っていたのは、浩平たちだけではなかった。


 長年秋彦が仕切っていたセレスティアルホテルの上層部は、秋彦の不在にかこつけた冬樹の登場により、浩平や優希耶たち以上に焦りと不安とうっ憤を募らせていた。



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