守るべきもの 10
恋人と初めて一夜を過ごした翌日というのは、気恥ずかしいものだ。ましてや、そのことを知っている者が同じ屋根の下に大勢いるとなれば尚更である。
「だからってさあ。こんな朝っぱらから着替えて待っているっていうのは、どうなんだろう? しかも部屋まで整えて」
翌朝、橘乃たちが宿泊するスイートまで食事を運んでくれた浩平が、部屋に入ってくるなり不満を口にする。
「そんなにキチンとしなくたって、からかったりしないのにぃ」
「ルームサービス担当でもない浩平が、そのワゴンを押している時点で、からかう気満々だとしか思えない」
「だよねえ」
浩平と一緒に入ってきた隆文が、カップにコーヒーを注ぎながら、要に同情するように苦笑いを浮かべた。
「でも、要も橘乃さんも、宿泊客扱いになっているとはいえ、レストランに朝食を食べにいきづらいでしょう? そうすると、さっさとチェックアウトして、すきっ腹のまま働こうとするんじゃないかと思ったんだ。だから、浩平と相談して朝御飯を持っていこうってことになったんだよ」
「そうそう。当ホテルのご宿泊は、朝食付きですから。是非とも召し上がっていただかなくては」
浩平が、「ところで、橘乃ちゃん。パンは、トーストとレーズンパンとクロワッサンとロールパンとクルミ入りのとクリームチーズとクランベリーが入ったのと、どれがいい?」と訊ねながら、数種類のパンが乗ったトレイを気取った仕草で橘乃に差し出した。「ええと、チーズとクランベリーのが、いいです」と、橘乃が答えれば、「卵は、いかがしましょう? オムレツとスクランブル。ゆで卵は半熟と固茹と、目玉焼き……は、あいにくターンオーバーまではご用意できませんでしたが」という質問がすぐに続いた。
「ねえ、今言ったお料理、全部もってきたの?」
「うん。どれがいいか、先に訊けなかったからね。さすがに和食までは持ってこられなかったけど」
先に確認すれば橘乃たちが必ず遠慮しただろうからという浩平の指摘は、おそらく正しい。
「でも、ひとつずつしか持ってこなかったから、要は、橘乃ちゃんが選んだもの以外からチョイスしてよ」
「了解」
「それより、そんなに沢山持ってきたのなら、ふたりも一緒に食べていかない?」
「いいの?」
橘乃からの誘いに、「僕たちも、一度このスイートを使ってみたかったんだよね」と、浩平たちが目を輝かせる。
「じゃあ、決まりね。私も、そのほうが楽しいもの」
要にも異存はないようで、確認するような橘乃の視線に「いいよ」と応じると、椅子を移動して彼らのための場所を空けた。
「おまえたちのことだから、僕たちが取らなかった分を自分たちで食べるつもりで、厨房から大量に貰ってきたんだろう?」
「厨房からのご褒美だよ。僕たち、昨晩は頑張って働いたからね」
「そうそう。頑張りました」
持ってきた食べ物の全てを、ふたりがいそいそとテーブルに並べる。4人前というより8人前ぐらいありそうだが、働き盛りの若い男性が三人もいるのだから、食べきれないということはないだろう。しかも、同席してくれたふたりは、兄に劣らずもてなしのプロだった。「どれも美味しそうで選べない」という橘乃の言葉を受けて、無駄のない洗練された動作で、それぞれから少しずつ橘乃に取り分けてくれる。
「しかし、昨日の冬樹は愉快だったねえ」
香草入りのウィンナーをナイフで切り分けながら、浩平が笑う。
「愉快って…… あのなあ」
「いいじゃん。僕は、警備のオジサンたちに猫のように首根っこを掴まれて放り出された冬樹を見て、スッとした」
「浩平は、冬樹さんのせいで秋彦さんが追い落とされたことで怒っているんだよ」
隆文も思い出し笑いを隠しきれないようだ。
「そりゃあ、冬樹さんが入ってきて、パーティーが台無しになりかけた時には、どうしようかと思ったけど……」
「冬樹さんは、台無しにするつもりだった。中村さまがいらしてくださったから事なきを得ただけだ」
自分たちは幸運だっただけ。無邪気に喜んでいいことではない。滅多に怒りを表さない要から厳しい声でとがめられて、ふたりの弟は急に元気をなくした。
「ごめんなさい」
「浮かれすぎました」
「わかったなら、いいよ」
ゆでた青菜のようにしおれる二人を元気づけるように、「ほら、食べちゃいな」と、要が笑いかけた。兄が本気で怒っていないことを知ってホッとしたらしい二人の顔に笑顔が戻り、それぞれの好物らしきものにフォークを突きたてた。
「ところで、橘乃さん」
ある程度食事が進んだところで、ふたりが、神妙な顔で橘乃を呼んだ。
「はい?」
「今更だけど、うちの兄のことを、よろしくお願いします」
「いえいえ、こちらこそ」
浩平と隆文に負けないほどしゃちほこばって、橘乃は頭を下げた。だが、堅苦しい態度は、お互いに長続きしなかった。
「仕事馬鹿だから、橘乃さんに寂しい思いをさせちゃうこともあるかもしれないけど」
「普段はトロいというか、ぼーっとしているけど」
「ああ、それと。この人は、サイズと清潔さ以外に私服にこだわりがなさすぎて、放っておいたら、その辺にあるものを考えなしに着ちゃうから、気をつけてあげてね」
「逆に言えば、なにを着せても文句を言わないから、好きにしてもいいよ」
「お客様の前では社交的だけど、実は引っ込み思案だし」
「内向的というより、自己主張ができないんだよ」
「自分を頭数に入れるのを、すぐに忘れるっていうか」
「ひとりでも平気というか、ひとり上手というか」
「でも、仲間に入れてもらうと喜ぶから。遠慮なく声かけてあげてね」
「あ、それと、要に何かやらせたいことがあったら、『仕事に役立つって』って言うといいよ。上機嫌でやるから」
「……。君たち。やはり、朝食は余所でとってくれないか? いたたまれない」
言いたい放題の弟たちに、要が恨めしげな視線を向ける。だが、今度のふたりは、要に対して全く従順ではなかった。「僕たちは、橘乃さんが要に愛想を尽かさないように、要の取り扱い方法を教えてあげているだけだよ」と、悪びれずに笑った。
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「橘乃さんも本気にしなくていいから」
要は、弟たちに言い負かされて辟易している彼を笑って見ている橘乃に情けない顔を向けた。橘乃から、こんなふうに面白がられるなんて、彼としては非常に不本意だ。弟たちの指摘がそれなりに的を射ているだけに、尚更おもしろくない。
「それじゃあ、今日も一日がんばりましょう!」
朝食後、そんな橘乃の掛け声で始まったこの日。セレモニー的なものは昨日のうちにすましてしまったので、改装前の本館の最後の営業日であっても特別なイベントは予定されていない。違うことがあるとすれば、本館からチェックアウトする客はいてもチェックインする客はいないこと。個人的には、貴子に言われて橘乃と一緒にロビーで客の見送りをしていたときに、多くの客から祝福されたりからかわれたりしたことぐらいだろうか。
本館の客室フロアから全ての客がいなくなってしまうと、まずは客室係が簡単な片付けをしがてら、こまごまとした備品を梱包して運び出した。大型の家具等の運び出しは、六条運送が人手を出してくれた。 六条運送は、橘乃の母親の実家ということになっている。隠居した柳原前社長……つまり橘乃の祖父は、橘乃にベタベタのお祖父ちゃんだ。
「おじいちゃま! 来てくれたの」
「あたぼうよ。仕事とはいえ、橘乃ちゃんに会えるんだからなあ。新井! 無理して一人で運ぼうとするな! 坂本! 手を貸してやれ!」
橘乃にハグで迎えられて豪快な笑い声をあげていた柳原老人が、急に厳しい顔つきになって作業着姿の男たちをどやしつける。「はい!」と声をそろえた作業員の中には、要にも見覚えのある顔があった。
「あれ? あの人……」
「ああ。例の《橘乃ファンクラブ》だった奴だよ。六条さんの屋敷で、いつまでもプラプラさせておくのも本人のためにならんだろうからな」
堅そうな髪を雑に束ねた長身の若者に顔を向けて、柳原老人がうなずく。彼は六条家にやってきた若者の中から、働くあてのない者を8人ばかり雇い入れたという。六条建設で働き始めた者もいるそうだ。
「数日で辞めちまった奴もいるがな。ただ……」
「ただ?」
「変なんだよ。宝くじでも当てるつもりで持参金目当てに六条家に寄ってきた奴らだから、もともとチャランポランな奴だったと言ってしまえば、それまでなんだがね」
だが、早々に辞める者に限って、柳原老人の目には真面目そうにも長続きしそうにも見えたという。 「人を見る目には、自信があるつもりだったんだが」と、眉毛を大きく下げながら老人が禿頭をつるりと撫でた。
「しかも、辞めたあとで、消えちまう」
「消える?」
「ああ。連絡がつけられない。緊急連絡先として書かせておいた実家の番号もデタラメだった」
とはいえ、辞めてしまったのは8人中の2人でしかない。そのどちらもが、たまたま、いい加減な履歴書を書いていただけかもしれない。だけども、六条建設を早々に辞めた者の中にも、そのようにして《消えた》者がいたとなると、偶然とは考えづらくなってくる。
「少々気持ちが悪くなってきてなあ。茅蜩館は、どうだ? そっちも、何人か引き受けたんだろ?」
「ええ。うちにも5人ばかりいますが」
ホテルスタッフとして3人、パティスリーと厨房で働いている者がひとりずついる。
「そういえば、武里に引き抜かれたとかで、ひとり辞めました」
その時、要たちは、ろくに仕事も覚えていない者まで引き抜こうとする武里の正気を疑いはしたものの、辞めた本人を疑うことはしなかったように思う。「どうなっているんだろうな。いなくなった奴らは、本当に橘乃ちゃんの持参金が目当てだったんだろうか?」という柳原老人の言葉が気になった要は、その日のうちにセレスティアルホテルリゾートの人事課に、「退職時の手続きに不備があったこと」を理由に問い合わせを入れた。だが、問い合わせた人物は入社した記録さえないということだった。念のために、リゾートとは別組織になっているセレスティアルホテルの人事部にも問い合わせたが、そちらにもいない。
おかしなことは、それで終わらなかった。
「冬樹さんがマリアさんを血眼になって捜している?」
源一郎の息子の和臣と秘書の葛笠からそんな話を聞かされたのは、それから二日後に行われた要たちの結婚式の後だった。
お披露目は先日のパーティーでしているので、この日に行ったのは挙式のみ。橘乃はチャペルでの式に憧れているとばかり要は思っていたのだが、結婚式は神前式だった。心変わりした一番の理由は、神殿の掃除とお勤めのために日に一度はホテルに顔を出す神職の龍生と親しくなったからだろうが、「要さんの紋付き袴姿は見たことがないし見てみたいから」とも言っていた。要としては、小さい頃から可愛がってもらった神職一家と牧師のどちらにも義理もあれば親愛の情もあるので、橘乃が決めてさえくれれば正直どちらでもかまわなかった。
ごくごく親しい身内だけなので、普段は派手な変装で正体を隠そうとしている橘乃の母親でさえ、この日は控えめな礼装でまとめていた。式を取り仕切ってくれた龍生は、久志ともボタンとも知り合いだったはずだが、橘乃の母親を前にしても表情一つ変えずに、彼女のことを《結婚式に出席した花嫁の母親》として普通に扱っていた。『たぶん、そういうことなんだろうなと思ってはいた』と、龍生は言っていた。 『橘乃さんが茅蜩館に頻繁に出入りするようになってからの《彼》を視ていたら、なんとなくわかっちゃた……というか?』とも。龍生が言うところの《彼》は亡くなった久志のことだろうが、要は深く追求するのはやめておいた。龍生だけに視えているらしいモノについて詳しく知ってしまうと、後々怖い目に会いそうな気がする。
それはさておき、マリアのことだ。
「冬樹さんにしてみれば、みんなのいる前でマリアさんに大恥かかされたと思っているだろうからね」
逃げたマリアを探し出して、とっちめてやろうぐらいのことなら、冬樹も考えていることだろう。
「そうなんでしょうけれども、違うんですよ」
葛笠が、矛盾したことを言いながら首を振る。「つまりですね」と、葛笠の後を引き受けたのは和臣だ。
「冬樹さんが《ボタンの娘のマリア》をでっち上げたのなら、彼は、マリアの役を演じている女性が本当はどんな人物なのかを、ある程度知っていて然るべきですよね? 例えば、本名や現住所、通っている学校あるいは職場、それから、知り合うきっかけになった共通の友達は誰だったかといったことです」
「そうですね。まさか……」
「そのまさかです。冬樹さんは、マリアと名乗っていた女性のことを全く知らなかったようなんです。いや、知っているつもりだった」
知っているはずだったのに、冬樹が逃げたマリアを追いかけようとした途端に、彼女が自分から冬樹に話してくれた彼女にまつわる情報が極めて曖昧なものだったことが判明したのだそうだ。
「なんで、そんなことを」
「僕たちが知っているかって? うちに関わりがありそうだからって、教えてくれた人がいるんですよ」
次女の明子の結婚騒動の時に和臣たちと知り合いになった探偵の夫婦が、冬樹からマリアを探してくれるように依頼されたのだという。
「家は武里線の沿線で独り暮らし、学校は専門学校。マリアさんは冬樹さんにそう話していたそうです。今となっては、彼女の名前も年齢も、本当かどうかも怪しいですね」
「でも、連絡を取り合っていたんでしょう?」
冬樹はともかく彼の秘書ならば、マリアの連絡先を把握しているのではなかろうか?
「連絡先を知る必要がなかったんですよ」
むっつりと葛笠が言う。
「知る必要がない?」
「マリアと知り合って以来、竹里冬樹は、自分が使っているマンションに彼女を住まわせていたんです」
下世話な言葉で言えば、彼が彼女を『連れ込んだ』ということらしい。
「同棲していたということですか?」
「それまで住まわせていた女性を追い出して、ですよ」
葛笠は、相当憤っているようだ。
「冬樹によれば、マリアさんは相当な悪女で、しかも……その……」
「ド淫乱だったそうですよ。冬樹さんの話によると」
顔を真っ赤にしている葛笠の代わりに、和臣が言った。
「茅蜩館に対しては薄幸な女性であることを印象づけるために地味な女を演じさせていたものの、本当のマリアは奔放で己の欲望に正直な女だったのだそうです」
「彼女は、冬樹に対して、本当に『自分の母親のボタンは茅蜩館を追い出された』と言っていた。そして、『復讐のためなら、なんだってやる』と言っていた。茅蜩館を陥れる算段は、ほとんど彼女が立てた。橘乃さんのことで茅蜩館や六条家に恥をかかされて憤っていた冬樹には、マリアの企みは、いわば渡りに舟だった。だから、自分は彼女の計画に沿って動いていただけだ……と、冬樹さんは、なにもかも彼女のせいにしているわけです」
隻眼の秘書は、これらの証言を全く信じるつもりはないようだ。口調が棒読みである。
「とはいえ、ここまで冬樹さんに被害者面をされると、こちらとしては、自分が起こした騒動の責任を全てをマリアさんに擦り付けるために、冬樹さんが彼女に騙されたことを周囲に印象づけようとしているだけかもしれないと疑いたくなるわけですよ」
つまり、マリアの逃亡自体が狂言かもしれないということだ。実際、冬樹は都内中の探偵という探偵を雇う気ではないかと思うほど、あちこちにマリアの捜索を依頼しているそうだ。
「『これだけ大騒ぎしてマリアさんを探している自分もまた、マリアさんに騙された被害者のひとりにすぎない』と、冬樹さんが言い逃れたい気持ちもわからないでもないです。でも、方々に向かって、自分から『騙された』と大騒ぎするなんて、自分の馬鹿さ加減を宣伝するだけだとしか、僕には思えないんですけど」
狂言を疑った和臣たちは、探偵夫婦に、マリアを探しているはずの冬樹が彼女とこっそり連絡を取り合っていないかどうかを探ってもらったという。
「今のところ、マリアが冬樹に接触した様子はないそうです。一方で、都内中の探偵が成功報酬欲しさに彼女の行方を必死になって捜しているようですが、彼女はいまだに見つかっていません。というより、まともな手がかりがないので、探しようがないらしいです」
それはそうだろう。一口に『武里線の沿線』と言っても、武里鉄道が運営している路線は5本あり、そのどれもが『武里○○線』と呼ばれている。駅の数こそ南関東鉄道に及ばないかもしれないが、武里線の走行距離の長さであれば余裕で勝っていたはずだ。専門学校にせよ、何を専門に勉強してたのかがわからなければ、首都圏に無数にある専門学校を片端から当たっていくしかない。
「そもそも、マリアさんを冬樹さんに紹介したのは誰なんですか?」
「それもねえ」
マリアを冬樹に紹介した人物というのは確かにいるらしい。だが、その人物にせよ。マリアどころか冬樹とも、たまたま酒場で一緒になって一二度言葉を交わした程度の知り合いでしかないという。彼女の顔写真すらない。
「マリアさんが何がしたかったのか、いまいちわかりませんが。彼女の逃亡が狂言でないのなら、この鬼ごっこは彼女の勝ちです。冬樹さんでは彼女を捕まえられない」
和臣が肩をすくめる。
「そうですか、マリアさんも消えちゃったんですか……」
要は、六条建設や六条運送だけでなく、武里のホテルに引き抜かれたはずのスタッフのひとりも消息がつかめなくなっていることを和臣たちに話した。
「なるほど、そういえば、マリアさん《も》ですね。《橘乃ファンクラブ》と彼女とを結びつけるのは都合がよすぎるかもしれないけど、それにしても痕跡を残さずに消えた人間が多すぎる」
『そちら側から、もう一度探ってもらうのもいいかもしれませんね』と、顎に手を当てながら和臣が言う。
「消えたといっても、正体を隠しているだけで、必ずどこかにいるはずですから」
「そうですね。彼らまでもが幽霊だったら、それこそ都合がよすぎますし」
「は? なんて、おっしゃいました? 彼らまで?」
「ただの独り言です」
ごまかし笑いをしながら首を振ると、要は「そろそろ時間ですね」と和臣を促した。
東京のとあるローカルテレビ局では、平日昼前の30分間に、株価の速報など経済に関係するニュースを中心に扱っている番組が放映されている。本日、その番組内において、冬樹が茅蜩館の近所に建てようとしている都市型リゾートホテルの発表記者会見を生中継することになっていると、昨日菱屋の会長が八重に電話で教えてくれた。
予めテレビを運び込んでおいた親族控室は、既に人でいっぱいになっていた。 紫乃の夫の弘晃も残っている。「お疲れになってませんか?」と要が声をかけると、義兄という間柄になったばかりのその人は、「菱屋の会長と約束したので、観ないわけにはいかないんですよ」と、オープニングテーマを流しはじめた番組を指さしながら柔らかな笑顔をみせた。
「菱屋の会長が、中村さまに番組をご覧になるようにと、おっしゃったんですか?」
「梅宮さん。いや、要くん。義理とはいえ今日から兄弟なんだから、『さま』はやめていいんじゃないかな? 俺に対しても、ため口は苦手そうだから無理にとは言わないけど、『ございます』とかは使わなくていいよ」
弘晃の隣に座っていた明子の夫の森沢俊鷹が、打ち解けたようすで要に話しかけてくる。
「ところで、菱屋の会長が、わざわざ『観ろ』と弘晃さんに言ってきたってことはだよ?」
「ええ。あの御方のことですから、ひどい悪戯を考えているのでしょうね」
弘晃が森沢に苦笑いを返す。
「悪戯?」
「ええ。ああ、これはえげつないなあ」
ニュースキャスターが今日取りあげる主なニュースを紹介するのを眺めながら、不快とはほど遠い表情で弘晃がコメントする。だが、要には、弘晃が何に対して『えげつない』と思っているのか理解できない。困惑している要に、実はとても面倒見がいいらしい森沢が「中継の担当者が『極秘プロジェクト』だとか、『どのようなホテルになるか、その完成図すら、まだ誰にも明かされておりません』って繰り返しただろ?」と、問いかける。
「言ってましたね」
「でも、少なくとも菱屋の爺さんは、完成予定図を知ってる」
「それは、そうなんじゃないですか?」
菱屋は、この地区のいわば顔役だ。茅蜩館にしても、建て替えを行うにあたって、まずは菱屋の都市開発担当部署との話し合いを持っている。新館の完成予定図も、随分前に渡してある。テレビが『誰も知らない』と言っているのは、単に番組を盛り上げるための方便なのではないだろうか?
「菱屋が知っているのが当たり前っていうのは、いかにも、この地域に根差した商売をしてきた茅蜩館の人の感覚ですよね」
画面から目を離さずに森沢とのやり取りを聞いていた弘晃が、クスクスと笑う。
「でも、菱屋さんは独自のルートを使って冬樹さんのホテルの情報を手に入れただけで、冬樹さん自身は、いまだに菱屋さんに何の話も通していないとしたら、どうです?」
「はい?」
「話にこないどころか、みんなをあっと驚かせるために建築許可すら発表してから取るつもりでいるらしいことを知った菱屋の会長が非常に憂いておりましてね」
「それは……」
要が息を飲む。『憂いている』なんて生易しいものではなく、明らかに『怒っている』のではないだろうか。
「そうなんだよ」
青ざめている要から彼の言いたいことを正確に察して、森沢がうなずく。「だから、怒った菱屋が、『こっちに話にこないなら、テレビ越しでもいいから、さっさと何を建てるつもりでいるのか全貌を明らかにしやがれ!』ってことで、裏から手を回して、この生中継つきのプレス向けの発表を仕組んだらしい」
「うわあ~」としか、要は言えなかった。『菱屋に話を通す』というと、冬樹のように進歩的であることを気取る人物が嫌いがちな時代遅れの慣習のように思われかねないが、実は、それなりの必要があるからこそ続けられてきたことなのだ。また、菱屋や慣習をさておいても、建物を建てる時には、まずは建築許可をとらなければいけないというのは、法律で決められたことだったはずだ。
「ついでに言えば、冬樹さんが計画しているホテルの外観を、俺たちも偶々知る機会があったんだけど、それが、非常に『あれ』なんだよ」
あまりにも『あれ』だったので、彼らが菱屋に通報したところ、菱屋は菱屋で既に彼らと同じ情報を手にしていることがわかったという。
「そんなに問題のある外観なんですか?」
「うん。あれを世間に発表する気なら、菱屋としては、『自分は全く関与していない』ということにしたいだろうね」
「だからこそ、これは『極秘プロジェクト』であると、さっきからキャスターさんがしつこいぐらいに連呼しているんですよ。もっともキャスターさんは、『あれ』がどんなものかも知らずに浮かれているだけでしょう。彼女は、菱屋さんの描いた計画に沿って、しゃべらされているだけです。つまり、『菱屋もふくめて自分たちは何も知らなかったんです。全部冬樹さんが悪いんです』っていう絵を描くためのね」
「……というよりも、これは菱屋のテレビ局に対する配慮じゃないかな。きっと、この後、苦情対応に追われることになるだろうからね。あるいは、テレビ局の社長あたりが菱屋とグルになっているか」
『何も知らなかった』ことにしておいてやらないと、何も知らないテレビ局の一般職員が可哀そうすぎると、森沢が言う。
「でも、そんなに?」
「さあ、どうでしょう。ちなみに、森沢さんは、完成予想図を見ても、最初は何が問題なのか、わかりませんでしたよ。だから、その程度といえばその程度の建物です。でも、菱屋さんは許さないでしょう。梅宮さんも、許せないとまではいかなくても、『これはマズイ』と思うんじゃないかな。それぐらい、彼が建てようとしているものは、この地域を大切に思っている菱屋さんやあなた方がしてきた努力を台無しにするものです。しかも、法律にしたがって普通の手順さえ踏んでいたら、誰かが、こうなるまえに冬樹さんに忠告できた。……いえ、もしかしたら、忠告を受けたにもかかわらず冬樹さんがゴリ押ししようとしている可能性もある。であるならば、冬樹さんは、少し痛い目を見た方がいい」
普段は穏やかで優しい表情を絶やさない弘晃が、こんなふうに冷たい表情を浮かべるところを要は始めて見た。「おっかないねえ」と、義兄を揶揄する森沢の表情も冷めている。
「要くんは、こういう人になっちゃだめだよ」
森沢が弘晃を指さしながら、要に笑いかける。「六条家と縁があった男どもが全員、権謀術数みたいなものに現を抜かしたり、人の言葉や行為の裏の裏まで疑う必要はない。嫌なことは嫌だと思っていていいし、こういう一癖もふた癖もあるお義兄さんと対等に見えるように振る舞おうとか考えなくてもいいから。 要くんは、要くんらしく生きなさいね」
「森沢さん、酷いです。僕だけ悪者ですか」
ついさっきまで冷徹な表情を浮かべていた弘晃が、情けない声で訴えた。
「だって、要くん、弘晃さんの顔を見てビビってるし」
「え? 顔つき変わってました?」
弘晃が、驚いたように言いながら両手を頬に当てた。「腹黒義兄さん呼ばわりされるのは遺憾です。でも、森沢さんの言うとおり、変な気負いは必要ありませんからね。特にあなたは、誠実さを売りにする茅蜩館ホテルを代表する人間になるわけですから。そんな人物が、僕みたいに性悪な人間になってしまったら、大問題です。それこそ、僕が菱屋さんに殺されてしまいかねない。それより、始まったみたいですね」
弘晃が、ようやく始まった記者発表に要の注意を向けさせた。
多くの記者の注目を浴び沢山のカメラやマイクを向けられた冬樹は、さすがにいつもほどはしゃいではおらず、武里グループがこれから建てようとしているホテルが東京という地区にどのような変化をもたらすたというようなことを、集まっている記者を相手に大真面目に語っていた。
「そして、これが、我がセレスティアルホテルリゾートが自信をもって皆様に提案する、新しい都市型リゾートです!」
冬樹の掛け声で、彼の背後に設置されている大型のパネルにかかっていた目隠しの布が引き下ろされた。 周りの風景まで丹念に描きこまれた完成予想図に描かれたホテルは、弘晃たちが話してくれたとおり、近未来を思わせるユニークな外観を有していた。
「でも、これは……」
絶対にマズイ。 彼がそう確信するとほぼ同時に、番組はいきなり中継を打ち切ったばかりか、なんの断りもいれないまま、子供向けのアニメを放映し始めた。




