守るべきもの 8
茅蜩館のレジスターブックは、終戦後の営業していなかった期間を除けば、1941年とその前年の分が欠けている。
2年分の記録が失われている理由は明らかにされていない。ただ、同期間の《レジスターブック紛失現象は》は、茅蜩館に限ったことではなく、複数の老舗ホテルでも発生している。ゆえに、過失による紛失事件だとは考えづらく、誰かが意図的に その期間のレジスターブックを処分、あるいは隠した可能性が高い。
今から数十年前の出来事だから、この紛失事件に直接関わっている者が必ずどこかに……しかも複数いるはずである。それにも関わらず、レジスターブックが失われた経緯や真相を語る者がいない。失くした物を取り戻したいと願っているはずのホテル側の人間でさえ、この件については多くを語らない。『戦争が始まった頃はあった』だが『ホテルが接収していた占領軍が帰っていった後になってから、なくなっていることに気がついた』という証言ならば残っている。茅蜩館で育ったも同然の要でさえ、事実として知っていることはそこまでで、それ以上のこととなると、憶測に頼らないで語ることが不可能だ。しかも、この謎。レジスターブックを処分した者を『誰』に設定するかによって全く様相が変わってくるので、どれだけ憶測を巡らせたところで、頭の体操にはなっても真実の追及にはならない。
ちなみに、この偽のレジスターブックを持ってきた竹里冬樹は、『レジスターブックを隠した誰か』を戦後に茅蜩館を接収していた占領軍に設定していた。
彼らがレジスターブックを処分した理由は、開戦前に戦争回避のために日本で行われた秘密交渉についての重要な手がかりが、レジスターブックの中に隠されているから……というところまでは数ある紛失説のひとつとして、要が橘乃に話したことと同じだった。
しかしながら、冬樹の話によると、占領軍にレジスターブックを盗まれたものの、それは、久志が用意した偽物であったという。本物は、彼らに奪われる前に久志が安全なところに隠したらしい。彼は、その隠し場所を愛する者だけに教えた。それがボタンだという。だから、この本物のレジスターブックを持っているマリアこそ、ボタンの娘であり久志の娘でもある。ゆえに、この茅蜩館の正当な継承者はマリアである。その彼女を差し置いて長年相続争いで揉めた挙句、たちの悪い成り上がりで金満家の六条家の娘と何処の馬の骨ともわからぬ孤児とを茅蜩館の跡継ぎに決めるなど茶番もいいところ。六条源一郎の横暴であると、冬樹は大勢の前で声高に主張した。
「ねえ、皆さん、そう思いませんか。由緒ある老舗ホテルなどと格式ばっていても、その内実は、醜いものですよ」
(まあ、僕が『馬の骨』ってあたりは、そのとおりかもしれないけどね)
しかしながら、『たちの悪い成り上がりで金満家の娘』は聞き捨てならない。要としては、『その言葉、そっくりそのまま返してやる』っと言ってやりたい。
(だけど……)
冬樹以上にたちが悪いのは、彼が持ってきた、このレジスターブックだ。
『調べろ』と冬樹は言ったが、これは、十中八九偽物だろう。未来予知ができるわけもなし、なんだって久志が盗難を恐れてレジスターブックの偽物を作らねばならないのか。それも、消えた1940年と41年の分だけを予め用意していたなどと、推論にしても無理がありすぎる。
でも、それなりに良く出来た偽物ではあるようだ。紙質も、当時のものと同じであるようにに思えるし、それなりに古びてもいる。ざっと確認できる限りではあるが、例えば、当時は『東京市』だったものが『東京都』になっているといったような、この場で指摘できるような間違いは犯してない。宿泊客の名前もそれらしいし、それぞれのページの筆跡も変えてある。
「必要なら筆跡を鑑定してくれてもいいよ」
要の考えを見透かすように、冬樹が言った。自信たっぷりな微笑みを浮かべているところをみると、筆跡も、記入者本人のものに似せてあるということなのだろう。
(それでも、しっかり鑑定してもらえば、偽物だとわかるだろう)
わかるだろうが、鑑定結果が出るまでの短くもない時間を利用して、冬樹は外に向かって茅蜩館の悪口を言い触らすつもりなのだろう。冬樹は、マリアの相続権を本気で主張する気はないはずだ。彼の目的は、茅蜩館の評判を落とすことであり、この偽のレジスターブックは、そのための時間稼ぎのようなものだ。しかしながら、時間をかけずにこのレジスターブックが偽物だと確認する術が、要にないわけでもない。
(でも、それ以前に、ボタンが総支配人から預かっていたのは、これじゃないんだけどなあ)
要も勘違いしていのだが、貴子と八重が、久志の死後に『行方がわからなくなった』ために『ボタンに渡したのではないか?』と疑っていたのは、1940年から41年のレジスターブックのことではない。しかも、『それ』は、茅蜩館が使用してきたレジスターブックの体裁を有していない。
『それ』は、久志の私物であり、見た目は、ただの分厚い大学ノートでしかない。
宿泊者が直筆のサインを記入するレジスターブックが別にあるにもかかわらず貴子たちが、そのノートのこともレジスターブックと呼んでいたのは、宿泊者の記録という点において、こちらの方が正確だったからだ。
久志がこのノートを使用していたのは、昭和11年から昭和20年に茅蜩館が接収されることがわかった日まで――西暦に直すと1936年から1945年の9月までであった。主に書き込まれているのは、その日に会った客とのやり取りや、トラブルや懸案事項、そして滞在客の名前である。
当時の茅蜩館は本館だけしかなかったから、客室も50部屋もなかった。しかも、今ほど気軽に遠方との行き来が早くできるわけでもない時代だったので長期滞在の客も多かった。そのため、新しく書き込まれる名前は、1日につき多くても20人程度であった。だが、実際に彼が迎え、彼のノートには、その日、その場にいないはずの者……つまり、公にされているレジスターブックの方には記載が見つからない者の名前が、その人物に宿を紹介した人物の名前と一緒に度々紛れ込んでいる。
貴子と八重から話を聞き、当時もフロントを預かっていた増井にも確認したところ、あの頃の茅蜩館は、足取りを追われると困る者や国内にいると知れると都合の悪い者などに、内緒で宿を提供することがあったのだそうだ。もちろん、儲けようと思ってやっていたことではない。茅蜩館が信頼している常連客に『どうしても』と頼まれた時のみであったという。しかしながら、この時期に限って言えば、この手の頼み事は非常に多かったらしい。そして、秘密で泊めるとはいえ、総支配人である久志には、茅蜩館に宿泊する全ての人間と、この場所で起っていることを正確に把握する必要があった。だから、彼は、自分用のノートを用意したのだ。
そのノートは、現在は要の手元にある。彼が橘乃の母親の正体にたどり着いた時に、ボタンから譲り受けた。
久志がボタンにノートを預けた理由は、彼女の居所が知れたと源一郎から連絡を受けた彼が真っ先に思いついた『自分が大事にしていることをボタンが確実に知っている物』であったからだったようだ。ボタンの性格を知り抜いていた久志は、彼が迎えに行ったところで、彼女がすぐに自分と一緒に茅蜩館に戻ったりはしないだろうと予測していた。ボタンの説得には時間がかかるだろう。その間に、また彼女に逃げられるわけにはいかない。だから、久志は彼女に、あのノートを預けた。彼女であればノートを持ったまま逃げることもできなければ、他人の手を介してノートを彼に返そうとすることさえできないだろうと、彼は考えたらしい。実際、彼女は、久志が亡くなった後でさえ、あのノートを持ったまま橘乃を連れて行方を眩ますことができなかった。源一郎にさえ、触らせなかったという。大事に大事に守ってきたのだ。
冬樹は『どうせ現物はない』と高を括って偽物のレジスターブックを作成してきたのだろうが、あのノートに書かれている内容と付き合わせれば、彼の嘘など、すぐに明らかになる。
(だけど……)
レジスターブックから目線だけを外して、要は、調子に乗って話続けている冬樹の背中越しに客たちを見回した。
今、ここで、それをやってみせるのは、非常にまずい。
終戦後に接収されていた茅蜩館に滞在していた元敵国の進駐軍人。その兄弟国ともいえる元同盟国の紳士に淑女。戦争前のスパイ事件の摘発に関わったと思われる外交官や元憲兵。もしくは、その事件に直接かかわったかもしれない者。戦争中に味方であった国の人、中立だった国の人、そして、攻め込まれた国の人々と同国人だが、こちらの協力者であったかもしれないと噂のある者。あるいは、いわゆる赤狩りに熱心だった元特高関係者、元華族や皇室に近しい人物……等々。
ここには、いわゆる『レジスターブック紛失事件』に関わっている疑いがある国や組織に属した人間たちどころか、久志が秘密で茅蜩館に泊めてきた人間と、彼らに茅蜩館という宿を提供した『依頼人』が揃い過ぎている。特に、依頼人は、桐生喬久を筆頭に、戦争中に大陸で手広く商売をしていた企業の大物もいれば、政府関係者も多い(貴子によれば、政府関係者が茅蜩館を利用したのは「国の威信をかけて作った帝都ホテルより、茅蜩館の方に泊めておくほうが万が一謀が発覚した時に、『あくまでも個人の判断でやったことだ』って言い逃れできると思ったからだろう」とのことである)
久志は、万が一のための『保険』として、秘密の宿泊を依頼した人物の名前も几帳面な字でノートに記していた。つまり、久志がこのようなノートを残しているとわかっただけで心穏やかでいられない人が沢山いるということだ。茅蜩館や他のホテルのレジスターブックを処分した者……1940年から41年の宿泊記録を抹消したがっている組織に繋がる者がこの場にいるなら、ノートの存在が明らかになりしだい奪いにくるかもしれない。要は、比較的近くにいた八重に訊ねるような視線を向けた。『だめだよ』というように、八重が小さく首を振る。
(だけども、このまま冬樹さんに話させておくのもまずいよね)
冬樹の話を聞いている者の中には、彼が《犯人》だと名指ししている旧占領国の人間も多い。事実はどうあれ、泥棒扱いされて嬉しいはずがない。それよりも、下手をすると、外交問題化しかねない。身内の不始末だとして事態を収拾してくれそうな竹里秋彦も輝美も、冬樹のせいで人前に顔を出しづらい状態なので、今日のパーティーには姿を見せていない。目で貴子を探せば、彼女は既に、参加がてら会場の警備に当たってくれていた警察関係者に近づいていた。どうやら、力ずくで冬樹を放り出すつもりでいるようだ。それはそれで茅蜩館の評判を傷つけることになるだろうが、背に腹は代えられまい。
(その前に、ひと言いっておかなくてはいけないだろうな)
貴子に頼まれた男性たちがこちらに近づいてくるタイミングに合わせて、要は「竹里さま」と冬樹に呼びかけた。行かせまいとするように、橘乃が要の袖をきつく握る。それでも、彼は前に出ないわけはいかない。
「このレジスターブックですが、こちらで、お預かりして調べさせていただきますので、今日のところはお引き取り願いたいのですが」
「なんだよ。これが偽物だっていうのか?」
近寄ってくる強面の男たちに対して身がまえながら、冬樹が要を挑発する。「自分に都合が悪いものだからって、暴力的な手段で発言を封じるようなことをするのは、よくないんじゃないかな。ねえ。そう思いませんか?」
冬樹が周囲を味方に引き入れようとするように、声を大きくする。
「偽物だとは申しておりません。ですが、本物かどうかを確かめる必要があります」
「でも、君がこれから偽物にすりかえるかもしれない」
「あなたと一緒にしないで!」
橘乃が要を守るように前に出る。
「私たちは、変な小細工などしません。お疑いならば、この場にいらっしゃるどなたかにお預けして、その方から信頼のおける調査機関に調べていただくようにしましょう。それで、これが本物だとわかったら――」
「本物だとわかったら?」
「マリアさんに、茅蜩館をお渡しするわ」
橘乃が、冬樹の後ろで、ほとんど存在感を失くしていた自称《ボタンの娘》に目を向けた。
「そんな、困ります!」
マリアの悲鳴が、「橘乃さん?!」という警告を含んだ要の呼び声をかき消す。
「ただし、現在の茅蜩館は私のものではありませんから、私が茅蜩館を譲り受けてからという条件はつけさせてもらいますけど」
『それで、いいですよね?』と、橘乃が要を振り返る。
「私たちの存在が茅蜩館とこちらを利用するお客さまの迷惑になるなら、そうするべきだと思うの。マリアさんも、悪い人じゃなさそうだし」
橘乃の声には迷いがなかった。
「今日のパーティーに参加してて思ったの。ここは、私たちだけの場所じゃない。要さんだって、よくそう言ってるでしょう?」
「そうかもしれないけど」
「私は要さんがいれば平気よ」
橘乃が屈託のない表情で要に笑いかける。
「ねえ。小さくてもいいから、どこかでホテルを始めましょうよ。それで、いつか茅蜩館みたいに皆さんに愛される場所にするの」
「それは……素敵ですが……」
ここは戒めるべきではないかと思いつつ、要の口からポロリと本音が漏れた。彼女が傍にいてくれるなら、どんなところでもやっていけるように思えた。それどころか、「橘乃ちゃん、うちの箱根の別荘を改装して使えばいい!」「うちの草津のも喜んで提供するぞ」「私は出資するぞ。要くんが経営してくれるなら、安心だ」という声が、出席者の中から次々に上がったかと思えば、「茅蜩館から、ふたりがいなくなるのは困るな」と他の誰かが二人を引き留めるような言ってくれるといったぐあいで…… なんだか妙な展開になりつつあった時、「新しいホテルも魅力的ですが、話が脱線してやしませんか。まずは、ふたりにここに残ってもらうためにも、そのレジスターブックの真偽を早急に確かめるべきだと思うんですけど」と、控えめではあるものの、至極良識的な発言が聞こえてきた。
橘乃の姉の紫乃に引っ張られるようにして集団の中から出てきたのは、彼女の夫の弘晃ではなく、その父親の中村弘幸氏の方であった。
「余計なお世話かと思ったんだけど、黙っているのもなんだなと思ってね」
学者のような風貌に人懐こそうな笑みを浮かべながら要に断りを入れると、弘幸は冬樹に対して「証拠ならば、この場で用意できると思いますよ」と言った。
「え?」
要は焦った。そういえば、戦時中に弘幸の上官だった人の名前が、秘密の宿泊の依頼人として、久志のノートに記載されていなかったか?
(まさか、あのノートのことを知っていて、あれを証拠にしようとしているのか?)
「あのっ。中村さ――」
『大丈夫だよ、要』
弘幸を止めようとした要を、誰かが背後から引き留めた。始めは篠崎かと思った。だが、仲人を引き受けてくれている外交官は、こんなふうに親しげに彼を名前で呼んだことはない。
(じゃあ、今、僕の後ろにいるのは……)
誰だ?
『僕たちは運がいい。ここはお客さまたちに甘えよう』
振り返ろうとした要の肩を押さえて、その誰かが囁きかける。その手の感触を、響きの良い声を、笑いを含んだ優しい話し方を、要は確かに知っていた。
『ほら、ちゃんと顔を上げて。胸を張って、堂々としておいで』
こんなふうに、いつも励ましてくれた人――小さかった自分に、『自分を卑下する理由など君にはひとつもない』と教えてくれた人だ。
(そう……しはいにん?)
そんなわけがない。源一郎が久志の幽霊の話ばかりするから影響されただけだ。
混乱しかけた要に、『ほら、集中して』と、声が前方への注意を促す。
そうだった。今は、弘幸の話に集中するべきだ。
「あなたは、運がいい」
弘幸が、背後の声の主が要に言ったのと同じ言葉を冬樹にかけていた。
「運が、いい?」
「ええ。なぜならば、この場には昔の茅蜩館に関わった人が多く集まっていますからね。これだけ沢山の常連客が集まっていれば、1940年から41年、すなわち失われているレジスターブックに宿泊記録を残した御本人、あるいは、この時期に茅蜩館に逗留していた方とお会いになった方もおられるのではないでしょうか。もしくは、冬樹さんが持ってきたこのレジスターブックに記載されている人物と懇意にされていた方がいらっしゃるのではありませんか?」
弘幸が客たちに問いかけ、『ちなみに――』と続ける。旧中村財閥との商談その他のために東京にやってくる者には、茅蜩館を贔屓にしている者が多かったのだそうだ。
「当時の資料については空襲で失われたものも多いですが、それなりに残っているはずです。『誰が』『いつ』、茅蜩館にいたかもしれないという情報さえあれば、彼が『確かにここにいた』『あるいはいなかった』という証拠を集めることは、比較的に容易ですよ」
「証拠というのは、例えば?」
客のひとりが質問する。
「レジスターブックが記されたのと同じ時期に、宿泊者と接した誰かが残した何か。できれば日付が記入されているものがいいですね。例えば、業務日誌に記された面談記録とか、宿泊者もしくは宿泊者と接した人物が残した日記とか――」
「そういうものならば、見つけられるかもしれない」
菱谷商事の会長が重々しく声を上げた。「日誌であれば、史料室の奥に手つかずで残っているものがある。それから、私の父が残した日記がある。『誰とどこで何を食べたか』ということばかりが書かれている日記なんだが、確認してみよう」
「日記であれば、うちにもあるよ」
他からもちらほらと手が上がった。
「それから、裏に撮影日時が記された宿泊者の写真もいいですね」
弘幸の呼びかけに応じて、また、手が上がった。「詳しい日付がわからないのだけど、戦争が始まった年に撮られた写真の隣に、茅蜩館を定宿としていた方と父が映っている写真があるんですよ」と自信なさげに発言した初老の女性には、「もしかしたら、こちらの写真館で撮影されたものかもしれませんね」と、すかさず八重がフォローに回った。茅蜩館の写真館で撮られたものであれば、撮影記録が残っているはずである。当時働いてくれたカメラマンも生存している。彼の息子もカメラマンになったと言っていたから、ネガも残っているかもしれない。調べてみる価値はある。
「それから、手紙や領収書の類も役に立ちます」
「1940年ごろなら、祖父が茅蜩館の便箋を使って送ってくれた手紙を、祖母と母が持っています。日付も書いてあります」
戦前の日本に祖父が滞在していたと言っていたイギリス人女性が、流ちょうな日本語で教えてくれた。「茅蜩館を定宿にしていたお客さんからの注文書が残っているはずだ」と言ったのは、テーラーを営んでいる老人であった。
「私も、いいかね?」
几帳面に弘幸に許可を求めてから発言をしたのは、冬樹をつまみ出すために近寄ってきた逞しげな初老の男性だった。たぶん桜井さんの方だと要は記憶を探る。浩平が担当した木原さまの宴会で、主賓を譲り合う一方で乾杯の音頭取りの役を争っていた二人のうちのひとりであることは間違いない。
「私は憲兵だった。昭和15、6年当時、こちらに宿泊していたとある人物が敵国に内通しようとしているという疑いがあり、2ケ月ほど、このホテルのロビーで、宿泊客および、その人物と接触した人物を余すことなくチェックしていたのだが……」
その時に使用していた手帳であれば、自宅を探せば出てくるはずだという。
「処分しようと思ったこともあったのだが。捨ててはならんと思った」
元憲兵が自嘲気味に微笑む。
「あの頃の自分を否定するつもりはない。必要な仕事であったとも思う。だが、あの頃の私は、行き過ぎた正義を振りかざすこともあったし、『疑わしい』というだけで確たる証拠もないまま他人に罪を着せようとすることがあった。それは、間違いだったと今は思っているし、そういう世の中に疑念を持たずに職務に邁進したことも、誰のせいでもなく自分が反省すべきことだ。だから、自戒のために捨てずにとっておいたのだ」と、彼が言う。
「そういえば、あなたとあなたの上官のことも疑っていたことがあった。この時期ではなくて、終戦間際だったが」
「存じています」
弘幸が微笑み返す。
「申し訳ないことをした」
「気にしてませんよ。あなたは、結局のところ証拠も無いままに私たちを捕まえたりなさいませんでした。それに、助けていただいたこともあったでしょう?」
『ですから、貸しも借りもなしですよ』と弘幸が微笑む。
「私の手帳は、役に立つだろうか?」
「それはもう」
「よかった。それはさておき、君!」
元憲兵の(たぶん)桜井氏が、急に厳めしい表情を浮かべて冬樹に呼びかけた。
「自分への反省を込めて君に忠告させてもらおう。君がもってきたレジスターブックが本物であろうがなかろうが、それを盗んだのが占領軍であるという証拠にはならない。証拠もなく盗人呼ばわりされた国の人々に大変失礼だ」
「うん。そうさな。冬樹くん……だったかな。君の説明は、状況証拠だとしても全く充分ではない。不確定な推論が多すぎる。それじゃあ、ただの濡れ衣だ」
桜井氏の上司だった木原氏も、曲がった腰を杖で支えながら(たぶん)畑山氏と共に集団の中から出てきた。
「君が侮辱した皆さんに、あやまりなさい」
老人の言葉に応じるように、多くの者がうなずきながら、冬樹に目を向けた。




