守るべきもの 3
茅蜩館がいじめられている。
日帰りで実家に遊びにいっていた妻の紫乃が、そんな主旨の話を弘晃に持ってきたのは、9月の半ば。日が傾く頃になると茅蜩が鳴き始め、気温が下がるにつれて大きくなる秋の虫の歌声に夏の終わりを感じる頃であった。
「いじめ、ですか?」
「そうなんですの! ひどいんですよ!」
憤慨しながら紫乃が弘晃にまくし立てたところによると、現在の茅蜩館ホテルは、大変な苦境に陥っているのだそうだ。あのホテルを敵視している竹里冬樹の嫌がらせのせいだという。
具体的に冬樹がどのような意地悪をしているのかといえば、茅蜩館に備品や食品などを卸している業者に対して、武里グループからの大量注文と引き替えに茅蜩館と取引しないように持ちかけたり、高い給金を餌にして多くのスタッフを引き抜いたりしているとのこと。
「他にも、セレスティアルホテルの料金をうんと値下げしてしまったり、茅蜩館のすぐ近くに茅蜩館のような高級ホテルを建てようとしているのですって」
それについては、新聞広告が出ていたので弘晃も知っている。新設ホテルはともかく、宿泊料金の大幅値下げについては、紫乃の父親が文字通り力ずくで落としたセレスティアルホテルの客足を取り戻すためだろうが、紫乃が落ち込みそうなので言わずにおいた。
「そのうえ、冬樹さんが、またしても八重さんの偽のお孫さんを見つけだしてきたらしいんですの」
「え? そうなんですか?」
それは、初めて聞く情報である。
「橘乃の話を聞く限り、茅蜩館の誰ひとり彼女を本物だと思っていないようですけどね」
「ああ、そうなんですか」
弘晃は安堵した。冬樹が見つけてきた者が八重の孫が本物であるわけがない。なぜなら、本物は橘乃だからだ。紫乃の妹の明子と結婚する前の半年間を諸々の事情から六条家で起居していた森沢俊鷹によれば、弘晃が手に入れた古い写真の女性は、間違いなく橘乃の母親の美和子である。つまり、美和子こそが、久志の恋人だったボタンであったのだ。とはいえ、冬樹が偽者のことを『ボタンの娘』だと言っていることが弘晃は気になった。冬樹が見つけだした孫は偽物だが、『ボタン』に『娘』がいたことは本当だ。冬樹は、武里の関係者であるし、武里のホテルは長年にわたって茅蜩館を手本にもライバルにもしてきたから、ボタンのことを知る機会ぐらいなら幾らでもあっただろう。だが、少々気持ちが悪い。
それはさておき、紫乃は曲がったことが大嫌いな正義の人であるからして、冬樹の策謀に怒り狂っていた。それどころか、冬樹がやっている数々の嫌がらせが、数年前に自分の父親が弘晃に対して行ったことと似ていることを気に病んでもいるらしかった。
「あの時は、本当に父がごめんなさい」
「あの時は、確かに大変だったけど、結果的に分家の事業も含めた中村グループ全体にとっても良いほうに転んだ。そのうえ、僕のところには紫乃さんというお嫁さんが転がり込んできてくれたから、よいことづくめだったよ」
弘晃は、しおれる紫乃を元気づけた。茅蜩館についても、「心配する必要は全くない」と言っておいた。実際、彼は茅蜩館について、何の心配もしていなかった。この程度のことで茅蜩館を潰せると思っているのならは、冬樹という人物は、とことんおめでたい性格をしているか、自分の力を大きく見誤っている大馬鹿者かのどちらかだろう。冬樹のしていることは、同業社間の嫌がらせの域を出ていないし、彼が出ようと思ったところで出られるとも思えない。紫乃は源一郎と比べていたが、比べるだけでも源一郎に失礼だろう。ついでに言えば、源一郎でも潰せないのが、茅蜩館だ。そこのところを冬樹は全然わかっていない。つまり、観察力もなければ調査力もないということだ。ということは、調査してくれる人材にも、彼の思い上がりを忠告してくれる人材にも恵まれていないのだろう。ないない尽くしである。
冬樹がどれだけ頑張って茅蜩館を苛めたところで、『結果的に自分の小物っぷりを世間にさらして大恥を欠くだけだ』と弘晃は予測している。だが、紫乃の前では比較的よい子でいたい弘晃は、彼女の耳のあるところで毒のある台詞を吐くことを避けた。紫乃の代わりに彼の辛辣な未来予測を聞かされることになったのは、数日後に中村家にやってきた森沢であった。
「弘晃さんも、きついねえ。でも、まあ、そのとおりなんだろうけど」
森沢は、呆れながらも否定しなかった。
森沢もまた、彼の妻経由で茅蜩館の危機を知らされていた。明子は紫乃の妹であるが、姉とは違って内省的な性格をしている。フットワークの軽い森沢は、心配性の妻と一緒に、食事がてら茅蜩館を探りにいってきたそうだ。橘乃の関係者という立場を利用して、八重の居間にもお邪魔してきたという。
「今のところ、茅蜩館は平常運転だよ。とはいえ、今月末で大量に職員が辞めるらしいから、そうなったら、どうなるか……」
「茅蜩館については、『どうなるか』じゃなくて、『どうするか』だと思いますけどね。それはさておき、スタッフを大切にする茅蜩館から、それほどの離職者が出ることのほうが気になります」
「それは、これから予定している建て直しの工事のせいだよ」
茅蜩館東京が工事に入れば、当然そこで働くスタッフの仕事がなくなる。横浜や鎌倉のホテルに一部の人員は移動させるものの、多くのスタッフは休館と同時に解雇される。そういう噂があるらしい。
「どうやら『辞めさせられる前に茅蜩館を辞めてやればいい。今辞めるなら、うちが高級で雇い入れる』って言って回っているリクルーターがいるらしくてね」
茅蜩館としても、『そんなに良い条件で望まれているなら』と、出て行こうとするスタッフを引き留めきれずにいるらしい。
「それはそれは…… いかにも紫乃さんが嫌いそうなやり口ですね」
しかしながら、茅蜩館を恨んでいる冬樹が裏から糸を引いていることがわかっていながら、そんな甘言に乗る方もどうかしていると、弘晃は思う。本当に有能な者を除けば、適当に利用された後で、使えない者から捨てられるのがオチだろう。また、本当に有能な者ならば、そもそも茅蜩館を辞めて武里傘下のホテルに行くという選択自体をしないと思われる。実際、茅蜩館を辞めようとしているのは、経験の浅いスタッフが多いという。
「八重さんによれば、結婚式の理容や衣装担当の人とかも、今月末で、だいぶいなくなってしまうらしいんだよね。なんだったら、うちの方から人を派遣してもいいって言ってきた」
森沢が将来的に背負って立つことを期待されている喜多嶋グループの本業は、紡績業である。系列会社には大手の化粧品会社もあるから、アパレルや美容関連の企業との繋がりも深い。
「茅蜩館なら、関わりになりたがっている人間は幾らでもいるだろうからね。声さえかければ、欠けた人数を補って余りある人材が寄ってくると思う」
「そうなんですよね」
帝都ホテルと並んで、『茅蜩館ホテルで働いたことがある』『茅蜩館ホテルと取引がある』というのは、一種のステイタスだ。抜けてしまった人材の代わりになりたがるものは、幾らでもいる。取引したがっている企業も多い。実際、ここにいる森沢にしても、新しくなる茅蜩館に自社で開発した機能性の高い素材から作られた壁紙やカーテンなどを使ってもらおうと、熱心に売り込んでいたはずだ。
「もっとも、危機に瀕した茅蜩館が、こちらが差し出す手をとってくれるとは限りませんけどね」
「そうなんだよね。あそこは求めるレベルが滅茶苦茶高いから」
弘晃に森沢が苦笑を返し、「それは、そうと……」と、思い出したように背広の胸ポケットに手を突っ込んだ。
「これ、手に入れたんだ。あんまり上手くないと描いた本人が言ってたけど」
森沢が、弘晃に対して正面を向くように置いてくれた罫線入りのノートの切れ端には、鉛筆でビルのようなものが描かれていた。
「茅蜩館の近くに建てられるっていうホテルだそうだよ」
「こんなもの、どこで?」
「知り合いのモデルがね……って、明子も知っているリナだけど」
決して浮気ではないことを森沢が強調する。リナは喜多嶋化粧品の顔ともいえる売れっ子モデルである。そのリナが仕事上の付き合いで呼ばれたパーティーに、冬樹が出席していたのだそうだ。
「そのパーティーで、新しいホテルのことが話題に上がったんだってさ」
その時に冬樹がひどく勿体を付けながら出席者たちに見せてくれた完成予定図を記憶を頼りにリナに描いてもらったのが、このスケッチだという。
「まだ公にされるべきでない情報だし、一応職業上知り得た秘密ってことで、リナの立場を考えると、大っぴらにはできないんだけど」
「パーティーに出席した部外者でさえ大っぴらにしてはいけないと判断できる情報を、この事業の最高責任者であるらしい冬樹さんが、不特定多数の人間が集まるパーティーで、みんなにチヤホヤされてせいで調子に乗って開示しちゃったってことですか?」
やっぱり、おめでたい馬鹿だ。弘晃の冬樹への評価は、ここにきて揺るぎないものになった。
「ところで、このビルですが、本当に、こういう捻じれた感じの建物なんですか?」
「そうらしいよ。下に帝都劇場が入るから、5階あたりまでのフロア面積が大きくて、そこからだんだんに狭くなりながら上に伸びているらしい。捻じれて見えるのは、このあたりの窓枠だか柱だかに曲線が用いられているからであるらしいんだけど……」
森沢が描かれたビルの真ん中あたりを指さす。リナが聞いてきた話によると、このビルをデザインしたのは、冬樹が才能を見出した外国の新進気鋭の建築家であるという。デザインのコンセプトは『見返り美人』とのこと。
「日本の奥ゆかしさと表現方法における大胆さを浮世絵にみられる曲線で表現してみたらしい」
「いかにも野心的な前衛芸術家が言いそうなことですね。そう言われてみれば、背中を向けた女の人が体を捻るようにしてこちらに顔を向けようとしているように見えないでもない……ですか?」
「この絵じゃなんともいえないな。どちらにせよ、斬新なデザインではあるよね。ひと目を引かずにはいられない。こんなのが近くに建ってたら、さすがの茅蜩館も霞んでしまうかもなあ」
「そうですか。これが茅蜩館のすぐ側に……」
スケッチを前に、難しい顔をしていた弘晃が、「おや?」というように、眉を上げた。
「森沢さん。これ、何階建ての建物になるかわかりますか?」
「30階以上じゃないかな。赤坂のセレスティアルに負けないぐらいの見晴らしがどうとかって、冬樹が言っていたらしいから」
「……となると、100メートル以上にはなりますよね。しかも、このあたりが見返り美人の腰として……」
難しい表情を浮かべながらスケッチのビルの特にくびれた部分に指を這わせていた弘晃が、「あらら、これって……」と楽しげに呟く。
「どうかした?」
「ああ、そうか。喜多嶋の本社ビルは、あの界隈ではなかったですね。じゃあ、お分かりにならないかな」
弘晃は電話を引き寄せると、内線で執事を呼んだ。若い方の坂口ではなく、年寄りの沢木の方だ。沢木は、弘晃が子供の頃から彼に仕えているが、その前は中村物産選り抜きの社員でもあった。弘晃が予想したとおり、新しく建てられるホテルの詳しい説明を聞かされるなり、沢木は烈火のごとく怒りだした。
「こんなの、許されることではございません!」
「え? 沢木さんは、そんなにこのビルが許せないの?」
「当然でございます! よろしいですか? 茅蜩館と張り合って建てられるということは、このホテルの入り口は、おそらくこちら側になります。そうしますと……」
沢木は本棚から東京の地図を持ってくると、森沢に向かって自分が反対する理由を念入りに説明した。 話を聞き終わった森沢は、大笑いしてくれた。
「これ、絶対に建たないぞ! よく建築許可が下りたな!」
「たぶん、許可はこれから取るつもりなのでしょう。冬樹さんという人は、まず最初に計画をぶち上げ、それから、細かいところを詰めていくお人のようですから。というよりも、彼は、計画だけをぶち上げるだけの係らしいですから」
要するに冬樹は他人任せの行き当たりばったりだということだ。今回もきっとそうだろう。第一、これを建てるためにどこかに申請を出そうものなら、誰かしら冬樹に警告してくれたはずだ。例えば、長年にわたって、あの地域の総合的な開発で顔を効かせてきた菱屋商事……
「ねえ、沢木。このこと、菱屋さんにも教えてあげたほうがいいよね?」
「さようですな。私どもが竹里冬樹さまの計画を知っていながら見過ごしたと知られたら、後々面倒です」
菱屋へは、菱屋の重役クラスのOBに顔が効く沢木が自ら使者に立った。菱屋の反応が気になったのだろう。森沢は忙しいにも関わらず、沢木が戻ってくるまで待つと言った。もっとも、沢木の帰りを待つまでもなく、一時間ほど後に、当の菱屋の当主が直接弘晃に電話をしてきた。沢木は、当主にかなり近しい人間と話すことができたようだ。
「『中村の言うことなんか信じられるか』だそうです」
電話を終えた弘晃が、近くで息を潜めていた森沢に報告する。
「中村は大の武里嫌いだと知られています。ですから、『その中村が武里の秘密を知っているわけがない。それに、竹里冬樹くんというのは将来の武里を担うことを期待されている若者なのだと聞いている。それほどの若者が、菱屋に何の何の断りもなしに、あのようにふざけた建物を建てるわけがない。これはきっと、菱屋を使って中村が武里を陥れようとする陰謀を巡らせているに違いない。そうは問屋が卸すものか。自分たちは、最後の最後まで、竹里冬樹くんを見守ってあげるつもりである。そういうわけだから、中村はこの件について今後一切口出ししないように。余計なことをしたら、その時こそ、ただじゃおかないから、そう思え』……とのことです」
「つまり、菱屋さんは、とっても怒っているんだね。冬樹の始末は自分たちでつけるから、中村は手出しするなってことか」
「そのようですね。言っていることはきつかったのに、菱屋さんの声が笑ってましたし、橘乃さん婚約のお祝いの言葉もくださいましたから」
菱屋当主が弘晃に対して怒っていないことは明らかだ。もしかしなくても、弘晃以外にも、菱屋に冬樹の新しいホテルのことを知らせた者がいるのだろう。
「菱屋さんも、ああおっしゃっていることですし、私たちはこれ以上何もしないほうがよさそうですね」
「そうだね。菱屋さんの意向は尊重しなくちゃね」
森沢が、強張った笑顔で賛同する。茅蜩館には言わないことにした。冬樹が何を建てようとしているかを知ったら、親切な彼らは理由を説明したうえで冬樹を止めようとするに違いないからだ。そんなことをしたら、『余計なことをした』と、弘晃たちが菱屋から怒られてしまう。
「となると、あとは……」
「菱屋にコテンパンにされた後の冬樹くんをどうするかだな」
森沢が言った。「かなりの粘着気質みたいだから、逆恨みするだろう。橘乃ちゃんに危害を加えたり、茅蜩館に火をつけられても困る」
「そんなことしようものなら、それこそ、六条さんに分子レベルにまで粉砕されてしまいますね」
「父親が警察に捕まったら、明子、泣くだろうな。紫乃さんは……何をするかわからない」
『それだけは、ダメだ』とふたりの愛妻家は、強く思った。
「どうにかしないといけませんね」
「うん。どうにかしよう」
弘晃と森沢は、決意を込めてうなずき合った。




