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誕生日には歌を  作者: 風花てい(koharu)
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守るべきもの 2

 次の日の早朝、源一郎の秘書の車に乗せられて帰宅した要はそのまま部屋に直行し、二日酔いで回る胃やら頭やらをなだめておくために、ひたすら横になって過ごした。立ちあがっても体が斜めに傾いでいないと確信できるようになったのは、午後3時を回った頃であろうか。そろそろと起き出て居間に行ってみると、そこには、八重ではなくて橘乃がいた。彼女は、帰宅した父親から要と飲み明かしたことを聞かされたそうで、「私だけ仲間外れなんて、ひどい!」と憤っていた。


「久しぶりに、お祖父さまにも、お会いしたかったのに。しかも、お母さままで参加していただなんて……っていうか、お母さまが逃げられないように、お祖父さまがお母さまを家に呼び出したところに要さんを連れて行ったんだって、お父さまは言ってたけど……」

「は……あ……。ようやく、ご挨拶できました」

 そういうことになったのかと思いながら、要は相槌を打った。 


 どうやら、嘘を吐き通すためには、自分が思っている以上に頭と神経を使わなくてはならないようである。だからこそ、要は必要以上の嘘を重ねないようにしようと思っている。良心の呵責もあるが、そのほうが嘘だと勘づかれる危険が少ないからだ。できるだけ事実や本心に沿った言動をしなければ、そのうち辻褄が合わなくなるだろう。


「それで…… あの、うちの母は、どうでした? あんなヒラヒラでフワフワな人が義理のお母さんでも、要さんは大丈夫?」

「ヒラヒラでフワフワって……」

 要は思わず噴き出した。そうだった。自分ばかり深刻に悩んでいると思っていてはいけない。橘乃には橘乃の悩み事がある。しかも、かなり深刻なものだ。なにしろ、ボタンの……橘乃の母親の華美な服装は、明らかに一般人の許容範囲を超えている。


「僕は気になりませんよ」

 要が答えると、橘乃は「ああ、よかった。呆れられちゃったら、どうしようかと思った」肩の荷を下ろしたように息を吐きだした。

「呆れてなんかいません。ずっと会いたかった人にやっと会えて、すごく嬉しかったです」

「母もね。要さんのこと、とても気に入ったみたい。あれだけ逃げ回っていたくせに、要さんに会えたら会えたで、昔から知っていたみたいだとか言って、大はしゃぎしていたわ。だったら、始めから逃げなければよかったのよ」

 ところどころに母親を非難する言葉を挟みながら、橘乃は『よかった』を繰り返した。派手な衣装の母親に要が嫌悪を抱かないかどうか、ひとみしりの母親が要に気を許すかどうか、彼女は、相当心配していたようだ。


「息子ができたみたいで嬉しいって」

「じゃあ、僕も本当のお母さんだと思って大切にしないといけませんね」

 要は、心の中で、『総支配人の分まで』という言葉を足した。

「私も、久志さんのこと、本当のお父さんだと思って大切にしますね」

 橘乃が仏壇に笑顔を向ける。そこに飾られた写真の中の久志の顔が、本当の娘に見つめられて、微笑んでいるように見えた。


-------------------------------------------------------------



 それから、半日ほど後の午前2時頃。つまり、草木も眠るという丑三つ時。


 仕事用の身なりに整えてロビーに出た要は、本館の大階段の踊り場に一輪の白いユリを手向けた。


 真夜中なので、ロビーの灯りは必要最低限に抑えられている。見とがめる客もいない。待機中のフロントが見て見ぬふりをしてくれているのに甘えて、彼は階下に足を投げ出すようにして踊り場に腰を下ろした。階段は人の行き来が頻繁なのでスタッフの待機場所としては不向きだが、ここからだとロビー全体を見渡せる。このホテルの結婚式場の神職によれば、性質の悪いものでは決してないものの、茅蜩館には久志の幽霊というか想いのようなものが今でも留まっているのだそうだ。神職の言うとおりだとしたら、自分が亡くなった場所に近いという理由を抜きにしても、見通しの良いこのあたりが幽霊久志のお気に入りの待機場所ではなかろうか。


 持ってきた2脚のワイングラスのうちのひとつを自分の手前に、もう一つをユリの近くに置くと、要は、このホテルのフレンチレストランが採用しているハウスワインの赤を注いだ。 


「献杯」

 小さく呟き、グラスを合わせる。


「総支配人。僕、橘乃さんと結婚することになったよ」

 目の前に久志がいるつもりで、要は音にならないほどの小さな声で報告した。


「ねえ。あなたの、望んだとおりになった?」

 冗談めかして、亡くなった人にたずねてみる。 


「でもさ、ちょっとやりすぎだったんじゃないかな」


 橘乃を自分の娘として育てることした源一郎は、茅蜩館に関わりがありそうな者には彼女を絶対にやらないと決めていたのだそうだ。茅蜩館で働いている要はもちろん、茅蜩館を贔屓にしてきた中村家のような家に属する者ですら夫候補から除外するつもりであったという。


 橘乃の夫にするなら、茅蜩館など古い以外になんの取り柄もないカビだらけの建物に過ぎないとか、懐古趣味の爺婆がありがたがっているだけのホテルだと思っているような青年実業家あたりが源一郎としては理想的である。この条件に加えて、橘乃好みのハンサムで白馬の王子さまを地でいくような青年ならば……とくれば、まさに竹里冬樹その人ではないかと要は思ったのだが、ボタンが「それって、あんたの若い頃か、橘乃が話してくれた冬樹さんみたいね」と言ったら、源一郎は「絶対に違う! 俺はともかく、あんなのと一緒にするな!」とムキになって否定していた。


 もっとも、源一郎の選定基準に照らせば、なにかにつけて茅蜩館と張り合い、あわよくば傘下に取り込もうとしている武里グループの一員である冬樹も、始めから選考対象外であった。そして、冬樹のことなど念頭に置かなくても、こと橘乃ついていえば、源一郎を満足させうる嫁ぎ先のあてが幾らでもあったのだそうだ。というのも、ふたりの姉たちを結婚させて以来、『次は三女の橘乃ちゃん』だと勝手に合点した知人たちが、源一郎の眼鏡にかないそうな青年を物色しては縁談を持ってきてくれたからである。 


 自分が選んだ男のせいで2番目の娘を不幸にしかけたばかりだった源一郎は、自分の人物鑑定力に自信が持てなくなっていたし、3番目の娘の結婚を考えるのは、もっとずっと後にしたいという気持ちもあった。しかしながら、せっかく親切で持ってきてくれる話を片端から断っていたのでは、持ってきてくれた相手にも失礼だ。だから、彼は、『お互いに気に入ったら付き合えばいいぐらいの気持ちで、一度会わせてみませんか?』という申し出に応じてみることにした。時期的には今年の春先の話だったというから、要が研修のために茅蜩館を留守にしていた頃だ。

 

「だが、いざ話を橘乃に持っていこうとすると、話が立ち消えになるんだ」と、源一郎は言っていた。 『立ち消えになった』ではなく、『立ち消えになる』と彼が言ったのは、消えた縁談が一度や二度ではなかったからである。 


 最初の縁談は、橘乃と会わせる予定だった若者が緊急入院し、療養に時間がかかりそうだという理由から、『この話はなかったことに』ということになった。せっかくその気になったのだからと、検討を始めたふたり目の見合い相手も、源一郎が目をつけてから数日後に交通事故にあった。3人目は海外で行方不明に、4人目は駆け落ちと、その後も、源一郎が興味を持った若者の身に不幸が襲い掛かるという事が続いた。5人目の男は、他の4人のように危ない目にこそ合わなかったが、源一郎が秘書に調べさせてみたら男の恋人がいたそうだ。その時、その青年は自分の恋を成就させるために両親と絶縁状態だったという。つまり、橘乃との縁談など、もっていける状態ではなかった。


 どういうわけだがわからないが、源一郎が橘乃に男を近づけようとする度に、相手の男のほうが橘乃から遠ざかっていく。最初はただの偶然だと笑っていた源一郎も、ここまで偶然が重なると、さすがに気味が悪くなってきた。 


 もしかして、橘乃に近づこうとする男は呪われるのだろうか? あるいは、『親の因果が子に報い』というやつなのかもしれない。なにしろ、パンパンだった橘乃の母親は、多くの男に泣かれ恨まれ、多くの女から嫌われ妬まれた。一方、育ての父親の過去の異性に対する行状も、全く誉められたものではない。 ふたりが悔い改めるだけでは払いきれないツケが、男運の無さという形で、娘の橘乃に回ってきたのかもしれない。


 もっとも、源一郎としては、橘乃が嫁にいけないのであれば、それはそれで喜ばしいことのようにも思えた。6人もいる愛娘の全てを他の男にくれてやるのは、実に腹立たしい。独身のまま父親の傍にいてくれる娘がひとりぐらいいたって、いいではないか。そうだ、そうだ、橘乃はずっと自分の手元に置いておこう。それが誰のためにとっても幸せだ。しかしながら、源一郎がそのように思い始めた矢先、今度は、八重が茅蜩館を源一郎に譲りたいと言ってきた。 


 昔々に桐生喬久から受けた恩を返したいのだという彼女の言い分は、彼女の本心の半分であることに違いないだろうが、残りの半分は源一郎に茅蜩館を渡すための口実であるように思えた。要するに、八重は、3人の孫の誰を次期オーナーにするか決めかねているのだ。無理もない。誰を相続人に選んでも、茅蜩館が内部崩壊する危険がある。それならば、六条源一郎という独裁者をあえて招き入れ、彼の元でまとめられたほうが将来的には茅蜩館のためになると、八重は考えたに違いなかった。 


 八重にしてみれば、源一郎は独裁者かもしれないが、茅蜩館と3人の孫のことを知る昔馴染みでもある。源一郎が能力重視で決定した人事であれば、誰もが従わないわけにはいかないだろうし、茅蜩館も栄えるに違いない。 

「ただでもらうのが気が引けるとおっしゃるんでしたら、そちらのお嬢さんのどなたかに、うちの孫のひとりを差し上げてもよござんすよ。若い夫婦が新しい茅蜩館を盛り立ていくっていうのも、よろしいんじゃないでしょうか」

 そう言って、八重は笑っていた。自分が育ててきた孫たちと茅蜩館という老舗ホテルを誇る気持ちが彼女にそう言わせただけだったのだろうが、源一郎は、内心気が気ではなかった。

 八重が知らないこととはいえ、源一郎の手元には彼女の息子の忘れ形見がいる。もしかして、八重は、うちにボタンがいることや橘乃が久志の娘であることに勘付いているのではなかろうか? それで、こんな突拍子もないことを言い始めたのではないだろうか? 


 「少し考えさせてほしい」と返事を保留すると、源一郎は八重の居間を後にした。並んで歩いている橘乃と要の後ろ姿を見て逆上した源一郎が要に襲い掛かってきたのは、それから10分も経たない頃だったそうだ。


「六条さんは、お祖母さまとの話を盗み聞きした誰かが、さっそく橘乃さんをたらし込もうとしていると思ったんだって」

 しかしながら、それは源一郎の勘違いにすぎなかった。要を急襲した源一郎が、次に思いついたことは、「やばい。要が危ない」だった。なにしろ、橘乃に関わろうとする男は、ことごとく不幸に見舞われているのである。しかも、八重が孫のひとりを橘乃の婿にやってもいい言ったばかりだ。源一郎が怒りに任せて首を絞めたことで、この若者を殺してしまうようなことがあっては大変である。


 だけども、要はピンピンしていた。その後、隆文が『祖母の提案を受けてほしい』と頼みにきたが、それでも要に不幸が訪れることはなかった。 


「やはり、呪いなんて、気のせいか」

 安心した源一郎は、安心感を増すために、その時一緒に歩いていた彼と息子兼用の秘書の葛笠に、「なあ、俺がおまえに橘乃をやるって言ったら、どうする?」とたずねてみた。すると、葛笠が返事をする前に、彼の進行方向1メートル先にピンク色の朝顔が咲き誇った鉢が落ちてきた。


 怖ろしいことに、橘乃の呪いは、いまだに有効であるらしい。ただし、要もしくは茅蜩館の関係者に対してのみ無効となるようだ……とくれば、これまでの超自然的な現象は、ボタンの過去の報いではなく、亡くなった久志がこの世に残した未練のようなものかもしれないと、源一郎は思い直した。 


 久志は、ボタンと橘乃を茅蜩館に帰したがっているのかもしれない。自分を差し置いて橘乃の父親に納まった源一郎に腹を立てているのかもしれない。 


 源一郎が茅蜩館を橘乃の持参金にすると決めたのは、そうすることで、亡くなった親友の意志を確認できるかもしれないと思ったからだという。結果は、源一郎の予想以上だった。驚いたことに、持参金の話を発表してから間もなく、源一郎が橘乃の見合い相手に選んでしまったばかりに不幸な目に合された若者たちから次々に朗報がもたらされた。ひとり目の男は不治の病かと思いきや単なる検査ミスであったことが発覚して無事に退院し、ふたり目の男も交通事故で入院していたおかげでハイジャックされた飛行機に乗らずにすみ、海外で行方不明になっていた3人目も無事が確認され、4人目と5人目は無事想い人と結ばれたそうだ。 


 一方、持参金つき来る者拒まずの橘乃の婿選びは、始まった当初こそ有象無象が押し寄せたものの、最初の騒ぎがひと段落すると、確実に源一郎が望んでいない方向へ……つまり、ボタンを知る要が選ばれることが確実になりつつあった。 


 茅蜩館の古参のスタッフは、橘乃と要の仲を進展させるための努力を惜しまなかったし、最大のライバルとなりそうな要の弟ふたりは、始めからやる気がない。その上、昔の源一郎を劣化させたような冬樹が大活躍したせいで、これまでずっといがみ合っていた茅蜩館一族が要の元に結束する始末である。なにより、橘乃が要のことを気にいってしまった。源一郎にしても、要のことが嫌いなわけではない。むしろ、久志のもう一人の忘れ形見のように思って目をかけてきた要のことを、彼はかなり気にいっていた。橘乃の賢明な選択を誉めこそすれ、批判する気にはなれない。橘乃の父親でなくなるかもしれないという恐れさえなければ、これほど嬉しい組み合わせはないとも思う。だから、ふたりを祝福することに決めたのだそうだ。


「『まったく恐れ入った。俺の負けだ。久志の勝手にしやがれ』って、六条さんが言ってたよ」

 要は源一郎からの伝言を伝えた。ついでに、「でも、僕たちの結婚は、あくまでも僕と橘乃さんが決めたことだからね」と、釘も刺しておく。


 久志は、ふたりがより近づくために、目に視えない形で、様々な御膳立てを仕掛けてくれたのかもしれない。だけど、要が橘乃を好きになったのは、久志に心を操られたからではない。橘乃もそうだ。

「だから、こういうのが続くと、自分の気持ちに自信が持てなくなりそうだから、これからは見守ってくれるだけでいいよ。それから、橘乃さんは、ずっと六条さんの娘さんってことにしておいて、いいよね?」

 要が橘乃に本当の父親のことを打ち明けないと決めたことを、久志は残念に思っているかもしれない。 橘乃のためにならないと、怒っているかもしれない。

「間違っているかもしれない。でも、僕なりに一生懸命考えて、決めたんだ。この先、間違っていると思ったら、その時は、また一生懸命考えるから」

 それでも間違っていたら、その時も、また考える。最初から正解なんて求めない。久志だって源一郎だってボタンだって、若いうちから間違ってないことばかりできてきたわけではないはずだ。茅蜩館のことにしても、間違うかもしれないし足りないところもあるかもしれない。けれども、その時に自分たち最善と考えたことをしていく。そうやって橘乃と生きていきたい。


「だから、これからは気長に見守ってやってください。茅蜩館のことも」

 ユリの花とワイングラスに向かって、要は頭を下げた。とはいえ、『これ以上のお節介は無用』と突っぱねるのも久志に悪いような気がしたので、「でも……ボタンのことは、ちょっとだけ気にかけてあげてもいいかもしれない」と呟いた。源一郎がまた怖がるかもしれないが、それは……きっと源一郎がなんとかするだろう。 

「……いや、でも、茅蜩館については、本当に口出ししたい時だけ口出ししてくださってもいいかな。いや、それは都合が良すぎる考えだよね。でも……」

 照れ笑いを浮かべながら、要は言った。「強引な手を使ってでも、橘乃さんに引き合わせてくれて、ありがとう」


 要は空になった自分のグラスを置くと、久志のために用意したグラスの中身を飲み干した。そして、いささか感傷的になっていた気分を切り替えることにする。


「さてと。これからどうするか、だよね」


 まずは、八重と貴子、それから小菅たちに、ボタンのことを話さなくてはならない。それから、結婚式のこともある。姉の結婚式の時とは事情が違う。花嫁の母ともなれば、周囲の視線が否応なしに彼女に集まる。ボタンと悟られることなく、どうやって橘乃の母親を出席させるかを考えなくてはいけない。


 冬樹がこの近所での開業を予定しているホテルのこともあった。こちらからできることは何もないとはいえ、あちらは茅蜩館に嫌がらせをする気満々のようだから、つまらないことで足元をすくわれないように気をつけなくてはいけない。そして、彼が連れてきたマリアという自称ボタンの娘のこともある。証拠を持ってくると、冬樹は言っていた。もっとも、彼がどんな証拠を持ってこようと、マリアが偽者であることに違いはないし、こちらには、間違いのない証拠もある。橘乃と、失われたレジスターブックだ。 レジスターブックは、貴子が予想していたとおり、ボタンが持っていた。ただし、要が想像していたものとは違っていた。しかしながら、橘乃も久志のレジスターブックも証拠として公にすることはできない。


「結局。冬樹さんについては、むこうの出方待ちってことか」

 だから、やはり、まずは八重と貴子からだと要が思い直したところで、フロントの奥の事務室から初老の男性が出てくるのが見えた。 


「増井さん」

 彼に気が付いてもらおうと手を振りながら、要は小声で呼びかけた。 

「要くん?」

 丸くて小さめの眼鏡を高い鼻に指で乗せ直し、テキパキとした足取りで階段を上ってきた増井は、要の側に置かれていた2脚のワイングラスとユリの花を見て、笑みを浮かべた。 


「久志総支配人とお話していたんですか?」

「はい」

「三上さんから、聞きました」

 ボタンのことを言っているのだと、要にもすぐにわかった。詳しい話は後にすることにして、ボタンに会えたことだけは、小菅と三上に伝えてある。彼らには、増井と他数名に伝えてくれるように、頼んでおいた。


「なんにせよ。生きていてよかった」

 腰を庇うようにして増井が要の横に座る。

「元気でしたか?」

「ええ。昨日は、衣装も普通でした」

「噂では、相当らしいですね」

 増井が苦笑を浮かべる。

「それで、これから、どうします? 八重さんには?」

「貴子さんにも話すつもりです。でも、橘乃さんには……」

「それが君の判断なら」

 無言で首を横に振る要に、増井が微笑む。


「僕は間違っていると思いますか?」

「それは、なんとも。こういうことは、正解があってないようなものですから」

 不安げな要の顔を増井が覗き込む。

「何度も言ってきましたよね? 自分が間違ってないと思う時でさえ、いや、間違っていないと思っている時に限って、トラブルが発生したり、お客さまとの関係を拗らせてしまう時もある。大切なのは、そうなった時に、自分がどう振る舞えるか」

「人のせいにしない。言い訳しない。投げ出さない。他人に責任を押し付けない。思い込まない、ちゃんと相手の話を聞く。不満を相手に見せない。解決する意思と誠意を示す」

 要がフロントの仕事を習い始めた時から、増井から口うるさく言われてきたことだ。


「それから?」

「ええと…… 何かが起こった時は、とりあえず報告する?」

 今回のことには当てはまらないような気もするが、増井が部下に徹底していることだ。

 問題や情報はチームで共有する。ミスを隠すためであれば言い訳のしようもないが、単に忘れていただけであろうと、それを怠ったことが知られた時、この物腰の柔らかな老フロントマンは鬼よりも怖くなる。

「秘密を打ち明けてもらった以上、この件については私も三上さんたちも、要くんの協力者……チームだと思っています」

 だから困ったことがあったり悩んでいることがあったら遠慮なく相談するようにと、増井が言ってくれた。

「独りで抱え込んで悩むのだけは、いけませんよ」

「ありがとうございます。じゃあ、早速相談に乗ってもらっていいですか?」

 要は、明日のうちにボタンのことを八重と貴子に話すつもりであることを話した。 

「どう話を切り出したものか悩んでいるというか、話を聞いたふたりの反応が予想つかないというか……」

「特に貴子総支配人の反応……ですね?」

 要の内心を見透かすように増井が微笑む。 


「なるほど、要くんひとりでは心許ないですね」

 それならば小菅を同席させればいいという増井のアドヴァイスをありがたく採用した要は、翌日、彼女の存在を心の底から感謝した。



 人間というものは、驚きすぎると口がきけなくなるものであるらしい。 

 ボタンが生きていたこと。彼女と久志の娘が橘乃であること。ボタンが六条源一郎の愛人のひとりを装って、彼の庇護下で橘乃を育ててきたこと。それらをできるだけ順序立てて要が説明している間、八重も貴子も瞬きすら忘れて要の顔を凝視していた。小菅が時々相槌を打ってくれたり説明したりないところを質問してくれたりしなかったら、要はきっとふたりの沈黙に耐えきれなかったに違いない。


「ひとつだけ確認させてもらっていいかい?」


 話を聞き終えた八重は自分の湯飲みを脇にどけると、座卓の上に乗りあがるようにして要に顔を近づけた。貴子も「返答次第では、ただではおかない」と言わんばかりの目で彼を見ている。


「久志を階段から突き落としたのは、ボタンじゃないんだね?」

「…………は?」

「違うんだね?」

「はい。違います」

 八重の気迫に押されるように要はコクコクとうなずいた。本当に逸子が久志を殺したのだとしたら、ボタンの妊娠が久志殺害の遠因になっているかもしれない。だが、ボタンが久志に直接手をくだしたということは絶対にない。


「そ……そうかい」

 空気の抜けた浮き輪のように、八重が脱力する。貴子もだ。

「え? まさか、ふたりは、本気で……」

「まさかもなにも、だって、久志が……ねえ?」

「そうよ、あんな言葉を残したら、誰だって……ねえ?」

 眉毛を大きく下げた八重と貴子が顔を見合わせる。 


「あんな言葉?」

「だからさ、『これは事故です。お母さん。ボタンが……』」

 続く言葉は、『お母さん。ボタンが見つかりました』、あるいは、『ボタンが逃げ出したのは、僕の子供ができたからなんです』とか『妊娠したんです』とかだったのだろうが、彼は、そこまでしか言わずにこと切れたそうだ。 

「だから、久志がボタンを庇ったのかもしれないと思ったんだよ。それで、警察にも余計なことを言わないほうがいいと思って」

 要たちを引き取った頃に、八重からそのことを打ち明けられた貴子もまた、黙っていたほうがいいと助言した。


「ボタンを捕まえてもらおうとは思わなかったんですか? 息子が殺されたかもしれないのに?」

「そう、かもしれないけどさ。でも、仮にボタンが久志を死なせたとしても、あの子が久志を憎んでいたはずがないじゃないか」

 だから、警察に突き出すよりも警察から守ろうという方向に、八重の気持ちは向いたようだ。


「それに、ボタンが事件に関わっているかもしれないなんて言おうものなら、茅蜩館を狙っている親戚たちが何を言い出すかわかったもんじゃないと思ったのよ。だって、茅蜩館欲しさに偽者の隠し子まで仕立て上げる人たちなのよ。逸子おばさんなんか、特にボタンを嫌っていたから、どんな言いがかりを……って、わかった! 犯人は逸子おばさんね! あの女、久志兄さんが亡くなった途端に急に大人しくなったと思ったら……」

 貴子がいきなり事件の真相にたどり着いた。 


「でも、ボタンもボタンよ! 兄さんを殺してないなら、さっさと出てくればよかったじゃない!」

「そうだよ、あの馬鹿娘! とっとと戻ってくりゃあ、あたしが、こんなに悩むことなかったんだ!」

「っていうか、六条さんも六条さんよ!」

「そうだよ! あの男、ここに、ちょくちょく来るくせに、なんにも言ってくれないないなんて!」

「今度六条さんに会ったら、殴ってやる! ボタンも、許さないんだから! それより、許せないのは逸子おばさんよ!」

 ホッとした途端に、怒りが込み上げてきたのだろう。八重と貴子が、『ひどい』『ひどい』の大合唱を始めた。そうかと思えば、次の瞬間には『橘乃さんが久志兄さんの本当の娘だったなんて……』と当惑するやら感動するやら。しまいには抱き合って泣き出す始末である。 


 これほど情緒不安定なふたりを見たことがなかった要は、ふたりをなだめるのも忘れて唖然とした。そんな彼の代わりに、彼女たちの気持ちを落ち着かせてくれたのは、小菅だった。『橘乃の気持ちを考えたら、ボタンのことは内緒にしておいたほうがいい』と、ふたりを納得させてくれたのも、彼女だ。 


 ひとたび落ち着くと、『さっきの大騒ぎは幻だったのか?』と疑いたくなるほど、八重も貴子も物わかりがよかった。「久志から身を引いてくれようとするボタンを思いとどまらせることもしなければ探そうともしなかった私が、今さら『こうしてほしい』なんて言えるわけないよ。それに、要の言うとおり、浩平たちのことを考えても黙っている方がいいだろう」と、自らに言い聞かせるように八重が言えば、貴子も、「確かに、橘乃ちゃんが受けるショックを考えたら、秘密にするしかないわよねえ。六条さんにしたって、嫁に行かせる以外の理由で娘をなくしたりしたら、悲しみのあまり死んじゃうかもしれないもの。逸子おばさんだって、物的な証拠もないし時効にもなってるから、いまさら警察に突き出すわけにもいかないものね」と、諦めたように肩を落とした。……かと思ったら、急に仕事用のキリリとした表情と浮かべて、「それより、小菅さん」と、今現在の彼女が……というよりも茅蜩館が直面している問題に話を移した。 



「今日、部屋係で今月で辞めたいって言い出した人が7人も出たって、本当?」





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