守るべきもの 1
その後、ボタンに背中を押されるようにして家に足を踏み入れた要は、玄関先で靴を脱ぐ前に「橘乃はやらない」と言われた。ただし、結婚に反対したのはボタンでも源一郎ではなく、玄関口にて仁王立ちで出迎えた逞しい体つきをした禿頭の老人のほうだった。ボタンは、この人を『お父さん』と呼んだ。
「いきなりなによ。要が面食らっているじゃない」
絶句している要を気遣いながら、ボタンが老人をたしなめる。しかしながら、遊郭生まれのボタンに父親はいなかったはずだ。彼女が『おとうさん』と呼んでいただろう花街の置屋の主人も既に他界している。正式ではないとはいえ、夫ということになっている源一郎にも親はいない。
(でも、橘乃さんも、自分にお祖父さんがいると思っている)
橘乃との会話でも、彼女の祖父なる人物が時折登場する。そして、ボタンが現在名乗っている柳原美和子という女性にも実家があることになっている。その家が経営していた小さな運送会社を成長させたものが現在の六条運送だと言われている。
緊張のあまり表札を確認する余裕がなかった自分の迂闊さを悔やみつつ、「橘乃さんのお祖父さまでいらっしゃいますか?」と、要が訊ねてみると、老人は、ボタンを顎で示しながら「こいつはな、俺が拾ったんだ」と唸った。質問と答えが、噛みあっていない。
「なによお、人を猫の子みたいに」
ボタンが笑いながら老人に抗議し、困惑している要に、老人を紹介する。
「ええと、私のお父さんの柳原寛祐さんです。もちろん、私の本当の父親じゃないのだけどね」
源一郎が久志の葬儀に出かけ、綾女がわずかな間だけ目を離した隙に外に出て川に身を投げようとしたボタンを救ったのが、柳原だったそうだ。「俺が拾ったんだ」と、挨拶の代わりに、柳原が仏頂面で繰り返した。
柳原に助けられた時、ボタンは、口を閉ざしたまま、死のうとした理由どころか連絡先や名前さえ彼に言おうとしなかったそうだ。しかも、警察を呼ぼうとすれば逃げようとする。このまま放っておけば彼女は再び死のうとするだろう。助けてしまったのも何かの縁だと腹をくくった柳原は、しかたなく自分が運転していたトラックに乗せてボタンを家に連れて帰ったという。
柳原の妻は、文句も言わずに、自殺未遂の妊婦を温かく迎え入れた。ボタンが死のうとした理由さえ聞かなかった。理由なんぞどうでもよい。今は、とにかく無事に赤ちゃんを産むのが最優先だと彼女は言った。それから一週間ほど夫妻の家で過ごすうちに、ボタンは彼らが空襲で娘を亡くしていたことを知った。その娘の夫も2人いた息子のうちのひとりも戦争でなくしたという。娘は、ボタンと同じ妊婦だったそうだ。「それは偶然……」と言いかけた要に、「別に珍しくもないさ」と、そっけない口調で源一郎が否定する。空襲では、大勢の人間が亡くなった。親、子供、友人、夫、誰もが身近な人を失った。生きたくても生きられなかった人が沢山いた。「だから他人事だと思えないし、自分から命を絶とうとするあなたのことが許せないんですよ」とボタンを叱るでもなく夫人に言われて、ボタンは考えを改めた。久志の後を追うことをやめ、当初の予定通りに、生まれてくる子供と共に逞しく生きていくことに決めた。心配しているだろう源一郎たちにも連絡した。
知らせを受けて柳原家に急行した源一郎と綾女は、今後の彼女の身の振り方を巡って、その場で彼女と口論を始めた。ボタンが、「これ以上、源一郎たちにも迷惑をかけられない。子供とふたりで生きていく」と我を張ったので、言い争わないわけにはいかなくなったのだ。「こいつは、恰好のいいことを言っているわりには、考えが全然っ足りないんだよ」と、当時を思い出したのか、源一郎が青筋を立てる。
ボタンは、源一郎たちの世話になるつもりはなく、とりあえず東京から離れた場所で橘乃を産んで育てるつもりだと彼らに言ったそうだ。しかしながら、どこで産むとか産んだ後どうするといったことになると、「なるようになる」と場当たり的な発言を繰り返すばかりであったという。そのくせ、「茅蜩館に気が付かれたら困るから、橘乃が生まれれても、どこにも届けるつもりはない」と言い切った。
ボタンに任せておいたら、子供が無事に生まれるかどうかさえ心許ない。無事に生まれたとしても、無戸籍になってしまうかもしれない。浮浪児のような生活を体験したことがある源一郎には、生まれた子供が被ることになるだろう苦労を具体的に想像することができた。どこの誰だかハッキリしない子供は学校にも行けないだろうし、病気になっても医者にもかかれない。だが、「それでも母親ですか!」と、源一郎よりも先に怒りだしたのは綾女だった。頭に血が上りやすい源一郎を制御するためについてきたはずの綾女が、突然ボタンの横面を張り倒したというから冷静な話し合いなど望むべくもない。今にも女同士の掴み合いが始まろうとした時、それまでは親切な傍観者にすぎなかった柳原が、いきなりボタンに申し出た。
「よくわからんが、とりあえずボタンはここで暮らせ。なんだったら、うちの娘になればいい」
「まあ、それはいい考えですね」
いきなりすぎる提案についていけない若い3人は目を丸くしたが、柳原と連れ添ってきた妻は、夫の言いたいことを理解していた。
「ねえ、ボタンちゃん。事情はよくわからないけれども、逃げ隠れしながら子供を育てるのは大変ですよ。それでも、どうしても隠れて暮らさなくちゃいけないなら、うちに隠れていなさいな。ねえ、六条さん、ボタンちゃんを、うちの子にしてはいけませんか? 生まれてきた子供ごと面倒をみさせてもらいたいんです」
言葉の足りない夫の代わりに、夫人がボタンと源一郎を説得した。
夫妻から『亡くした娘の代わりに可愛がらせてくれ』と言われてしまえば、ボタンも意地を張りづらい。遠慮とは無縁の源一郎は、ボタンを引き留めるために彼らの好意を最大限に利用することにした。 真っ当な養子縁組の手続きを行えば八重たちに勘付かれる恐れがあったので、彼は、《ちょっとした》小細工をしてボタンを柳原夫妻の実子として彼らの戸籍の中にねじ込んだ。ボタンが現在名乗っている美和子というのは、夫妻の亡くなった娘から生まれてくる予定だった子供ために夫妻が考えていた名前のひとつだという。
「だから、美和子も橘乃も名実ともに、俺の娘で孫だ。いまさら茅蜩館が迎えにきたからといって、『はい、そうですか』って返せるか」
柳原老人が頑なな表情で主張する。
(なんだ、そうか)
初対面で想定外だった男性からいきなり結婚を反対されて動揺しかけていた要も、ようやく合点がいった。つまり、この人は、橘乃の《お祖父さん》でなくなることが嫌なのだ。それほど橘乃のことを可愛く思っているということなのだろう。
「そのことについてですが。僕は、橘乃さんにはボタンの正体は明かさないほうがいいと思っています」
「なに?」
「彼女に隠し事をするのは気が引けますが……」
眉毛を吊り上げた柳原に向かって、要は言葉を足した。話す順序が自分が想定していたのとかなり違うが、仕方がない。今日の要は、その話もするつもりで源一郎とボタンに会いにきたのだ。
「入れ」
玄関に立ちふさがっていた柳原が、踵を返して家の奥へ入っていく。
「さ、どうぞ」
ボタンに促されて、要も家に上がらせてもらった。
歓迎されていないのかと思いきや、通された絨毯敷きの和室には酒宴の用意が整えられていた。セッティングされた食器の数からして、運転してきた佐々木も宴席に加わるようだ。長方形の座卓の前に着座する前に、まずは座布団を脇に外して正座をすると、要は背筋を伸ばして上座で胡坐をかいた柳原老人と向き合った。源一郎とボタンが、老人の背後に控えるように腰を下ろす。
「つまり、君も我々の嘘に付き合ってくれるということか? 俺の機嫌を取るために、思いつきでいっているようなら……」
「最後まで、付き合うつもりでいます。だけど、あなた方のためではありません」
要は首を振った。目の前にいる男に橘乃との結婚を認めさせるために耳あたりのよい言葉を囀るつもりなどない。そう思われているのなら心外だ。
橘乃が自分にとって大切な存在だと気がつくのとほぼ同時に彼女の母親がボタンだということに気がついてしまってから、要はずっと悩んできた。自分が橘乃と結婚することになれば、遠からず八重と貴子が、ボタンを顔を合わせることになる。自然の流れに任せれば、橘乃は近いうちに自分の本当の父親を知ることになるだろう。そうなれば、橘乃が源一郎の子供でないことも、彼女だけが他の兄弟と違うことも知られてしまう。彼女の母親がかつて世間体の悪い商売をしていたことも知ることになる。だが、橘乃にしてみれば、これらのことは知りたくない真実であるかもしれない。
嘘や隠し事はいけない。そんなことは、要だってわかっているし、この嘘に関わった全ての大人たちがわかっていたはずだ。それでも、彼らは共謀して《ボタン》をいう人物を世間から隠そうとした。様々な事情を考慮した結果、そうするほうがいいと彼らが判断したからだ。
だからこそ、要も考えた。この先、どうするのか?
橘乃に嘘をつきつづけるのか? それとも、成り行きに任せて真実を明らかにするのか?
あるいは、橘乃にだけ真実を打ち明け、彼女ごとボタンの嘘に巻き込むのか? それとも、打ち明けたうえで、どこまで真実を公にするかを彼女自身に決めさせたほうがいいのか?
本当は要だけで決めていい事ではない。橘乃の幸せは、橘乃にしか決められない。そのことを念頭に置きつつ、橘乃に代わってウダウダと悩んだ挙句に要が出した結論はといえば、『まずは要が彼らの嘘の共犯者になる』という、ある意味中途半端な結論だった。
「橘乃さんのことは以前から知っていましたけど、僕が橘乃さんと個人的に話をするようになってからは、まだ半年程度です」
彼女への好意を彼が自覚してからであれば、1か月も経っていないかもしれない。
橘乃について、まだまだ知らないことがある。朗らかで前向きな人だという印象が勝っている女性だが、騒がしいだけの無神経な性格の持ち主であれば、あれほど人から好かれないだろう。無邪気なようでも彼女が相手に相当気を遣いながら話していることも、実は繊細な神経の持ち主であるらしいことも、ようやくわかってきたところだ。もしかしたら、他の姉妹にコンプレックスのようなものを抱えているのではないかと思わせる彼女の言動に要が気が付いたのも、ごくごく最近だ。
橘乃との付き合いが一番短い自分が、彼女を見守ってきた多くの大人を差し置いて、彼女にとって一番いい事など決められるはずがないと思う。世の中は『かくあるべき』的な綺麗事では動いていない。理不尽な差別や意地悪も横行している。人にも社会にも、裏と表がある。ホテルに勤めているからこそ、孤児として形見の狭い思いをしてきたからこそ、要はそれらのことを承知している。うっかり秘密を明らかにすれば、橘乃を好いてくれる友人知人の中に掌を返すような仕打ちをする者が現れるだろうことも、容易に想像がつく。なにより、橘乃が変わってしまうかもしれないことが、要には恐ろしい。橘乃には、今のまま、明るく朗らかなままでいてほしい。だからこそ、彼女には本当のことを話しづらい。だけども、大人たちの判断を無批判に受け入れるのも癪である。
「これから橘乃さんと一緒に生きて、そうしたほうがいいと僕が判断した時には、彼女に本当のことを打ち明けようと思います」
橘乃の心の準備ができていない場合でも、例えば不可抗力で橘乃に秘密が知られた場合や、あるいは黙っていることで更なる問題が発生しそうな時にも、要から橘乃に本当のことを話そうと思っている。
「そうできるまでは、僕が責任を持って、あなたがたの嘘を守ります」
「責任?」
「責任という言葉は適切ではないかもしれませんけれども……」
橘乃に変わってほしくないという理由で真実から逃げるのは、要自身だ。だから、秘密が明るみに出た時に要が橘乃から詰られても恨まれても、甘んじて受けるつもりだ。秘密にしてきたこと、あるい秘密がバレことで問題が生じた場合には、その解決のために積極的に自分から動くつもりでもいる。それで責任が取り切れるかどうかはわからないが、責任逃れだと思われる行動だけはするまいと思っている。
「それに…… この秘密が公になって傷つくのは、橘乃さんだけではないと思うんです」
要は、弟たちのことも心配している。
隆文と浩平のふたりは、久志の隠し子だとされて茅蜩館に連れてこられた。それが嘘だということは、本人たちも既に承知している。だが、本物の久志の娘が現れたら、彼らも心穏やかではいられないだろう。『自分たちは、いったいなんだったんだ?』という気持ちになるに違いない。
「弟たちは、これまで大人たちの嘘に振り回されてきました」
今の生活を受け入れるまで、弟たちには弟たちなりの葛藤があったことを、要は知っている。ふたりとももういい大人だから、昔の浩平のように荒んだりはしないだろう。だが、できることなら、彼らの気持ちを不用意に揺さぶるようなことは起ってほしくないと願うのは、要の我がままだろうか?
「ですから、ボタンには、このまま柳原美和子さんのままであり続けてほしいのです。そのための協力もします。とはいえ、これから結婚式等々がありますので、僕ひとりで隠し通す自信はありません。ですから、祖母と貴子さん、それから茅蜩館の古参のスタッフの数人に協力してもらいたいと思っています」
要は、体の向きをわずかに変えると、ボタンにたずねた。
「八重さんと貴子さん、それから小菅さんと、数人の古参のスタッフに、あなたが生きていることを教えてもいいかな? できれば、橘乃さんのいないところで、一度会ってあげてほしいんだ。手はずは僕が整えるから」
「いいの?」
「みんな、心配していたんだよ。ボタンの顔をみたら、きっと喜ぶ。すごく怒るとも思うけど」
口元に手を当てながら潤んだ目でこちらを見ているボタンに、要は励ますような微笑みを向けた。
「大丈夫だよ。うちは茅蜩館だもの。貴子さんにしても小菅さんにしても、黙っていると決めたことを誰かに話すようなことはしないよ。おばあさまも、橘乃さんが本当の孫だと知ったところで態度を変えたりしないから」
冬樹が新しい隠し子騒動を持ち込んでくれたおかげでわかったことである。
「その調子だと、ボタンを引き合わせる段取りもできているようだな。なるほど、父親をクビになる覚悟を決めることまでして彼に橘乃ちゃんを嫁がせたいと、あんたが思うわけだ」
要がその場の思いつきで言っているのではないと理解してくれたらしい、柳原老人が組んでいた腕を解き、源一郎に苦笑を向けた。
「要を気に入ってるのは事実だが、それこそ決めたくて決めた覚悟じゃねえよ」
源一郎が面白くなさそうに呟き、「本当に橘乃に黙っていてくれるのか?」と不安げな顔で要に念を押す。
「いいのか? 俺たちのほうが確実に早く死ぬぞ。そうしたら、おまえが俺たちの嘘を全部背負い込むことになる」
「わかってますよ」
そこまで考えて、自分で決めたことだ。だが、考えすぎたおかげで、好きな女性との婚約を決めたばかりの男子が陥りがちな浮かれた気分と無縁で過ごす羽目になってしまった。「どうしてくれるんですか」と、要は彼らに恨み言を言ってみた。冗談めかしてはいるものの実はかなり恨みが籠っていることに、源一郎も気が付いたようだ。
「そいつは悪かったな」
源一郎が苦笑しながら、要の向かい側の席まで膝立ちでにじり寄り、ビールの栓を抜く。王冠がテーブルに落ちる音を合図に場の雰囲気が一気に和んだ。
「ともかく、俺は、要が橘乃と一緒になってくれることが嬉しいよ」
「このまま橘乃さんのお父さんでいられることにもね」
ボタンが源一郎をからかい、要に言いつける。
「この人、そのことだけをずっと気に病んでいたんだから。それから、こっちの人も」
「だってだなっ! 橘乃ちゃんのお祖父ちゃんじゃなくなるなんて、そんなの嫌じゃないか!」
ボタンに指差された柳原が、顔を真っ赤にしながら言い返した。
その後は、源一郎が憧れていたらしい盃を傾けながらの静かな語らいとはかけ離れた、まるで噂話に興じる女性同士の茶話会のような騒がしい飲み会となった。というのも、一晩という時間が、要とボタンが離れ離れになっていた時間に起ったことを互いに語り尽くすには短すぎたからだ。
その短い時間に要がボタンから聞き出したことをだいたい時系列に並べてみると、こうなる。
橘乃が生まれてから2年ほど、ボタンは柳原夫妻の元で、彼らの仕事を手伝いながら暮らしていた。
その後、六条源一郎の後押しもあって急拡大した会社を手伝うために彼らの息子が勤めを辞めて戻ってきたのを機に、ボタン母子は柳原家の近所に居を移した。息子と一緒に戻ってくる彼の嫁にボタンが遠慮したためだ。しかしながら、引っ越しした後も、ボタンは柳原夫妻の元で働いていたし、橘乃は毎日のように柳原家の《お祖母ちゃん》と過ごしていた。橘乃の相手をしてくれたのは、もっぱら柳原夫人だったそうだ。そのせいか、橘乃の性格は彼女のそれに多分に影響されているという。
その柳原夫人が亡くなって2年後、源一郎の本妻が亡くなった。
橘乃が小学三年生の時の出来事だが、巷の噂や要の記憶では、この時、源一郎が各所で囲っていた愛人たちが、次の本妻の座を目指して彼の家に押しかけ、そのまま居座ったことになっている。六条家の子供たちも、そのように信じているそうだ。だが、本当のところは、少しばかり違っていたらしい。
現時点で源一郎の愛人だと思われている6人の女性のうち、本妻の死の直後に彼の家にやってきたのは、4人だったという。そのうち、本気で本妻の座を狙っていたのは、6女月子と次女明子の母親のふたりだけであったそうだ。
「では、他のふたりは?」
「夕紀の母親は別件で、こちらから呼び寄せた。朱音は……紅子の母親は、単なる賑やかしだな。『楽しそうね。私も混ぜて!』みたいな」
源一郎がため息をつく。
一方、愛人とは日陰者であるとわきまえていた長女紫乃の母親の綾女は、他の愛人たちが源一郎の所に向かってると聞いても、自分の住処から動こうとはしなかった。そんな綾女のものわかりの良すぎる態度を見て腹を立てたのが、ボタンである。ボタンは、綾女になにかと借りがあった。綾女には他のどの愛人よりも源一郎の妻になる権利があると彼女は確信していた。
いままで散々迷惑をかけ甘えたいほうだいだった綾女を差し置いて、源一郎が他の誰かを妻にするなど、他の誰が許しても自分が許さないとばかりに、ボタンもまた橘乃をつれて源一郎の家に乗り込んだ。彼女は、綾女の代わりに彼女の権利を源一郎に主張するつもりだった。
パンパンだった時代には商売敵の女たちと渡り合い、常に勝利してきたボタンである。ボタンが参戦したことで、六条家の本妻争いは苛烈さを増した。寝ても覚めても繰り返される女たちの争いに手を焼いた源一郎は、女絡みのことで困った時にはいつもそうしてきたように、綾女に助けを求めた。
ボタンが勧めても決して源一郎の家に行こうとしなかった綾女は、源一郎からのSOSを受けるやいなや、すぐにやってきたそうだ。ボタン曰く、『どうしようもない女』である。だが、彼女が、源一郎にとって非常に頼りになる存在であることだけは間違いなかった。押しかけた女たちを追い出すことこそできなかったものの、綾女は、あちらを宥めたりこちらをすかしたりしながら、同じ男を愛する女5人プラス1人が同じ屋根の下で無暗に喧嘩をせずに生活していく体制を整えてのけた。
同じ頃、綾女の娘の紫乃は、妹たちと弟をしっかりと手なずけていた。ただし、彼女は大人の事情には詳しくなかったので、橘乃のことも自分の妹だと思い込み、そのように扱っていた。橘乃は橘乃で、一度にたくさんの兄弟姉妹ができたことを素直に喜んでいた。時々訪ねてきていた優しいオジサン(源一郎のことだ)が本当のお父さんだとわかって嬉しいと、わざわざ源一郎に打ち明けにきてくれたのも橘乃だったという。
血の繋がりがある娘たちにならば、源一郎も、感情に任せて、『おまえなんか、俺の娘じゃねえ!』と突き放すこともできたかもしれない。だが、本当に父親を亡くしている橘乃に真実を告げることを彼はためらった。上機嫌な橘乃の気持ちを損なうことを恐れて、なんとなく拒否しきれないまま7人の子供の父親の役目を果たしているうちに、源一郎の気持ちに変化が現れた。
「言われてみれば、昔の六条さんって、こんな人ではなかったですよね」
女は好きだが束縛されるのは嫌い。生まれてしまった以上子供の面倒を見ないわけにはいかないが、正直なところ面倒臭い。だから、金だけは出す。女性にマメなところは今も昔も変わらないが、要の記憶では、昔の源一郎はもっと享楽的で、しかも、かなり冷淡だった。口に出せば頑強に否定されること請け合いだが、竹里冬樹に似ていたと思う。
その源一郎が、娘たちと暮らすようになってから明らかに変わった。
最初の頃は八重の居間にやってきては愚痴ばかり言っていたくせに、いつのまにやら子供たちのことを嬉々として語るようになり、気が付いたら筋金入りの親馬鹿に変化していた。そして、そのまま現在に至る。久志のことを隠して橘乃を実の娘として育てることに決め、ボタンの正体を知る女たちに協力を求めたのも源一郎だったそうだ。他の子には親がいるのに自分だけいないと感じる時のどうしようもない寂しさを、源一郎は知っていた。だからこそ、橘乃を区別できなかったのだそうだ。『愛人と娘があと一人増えようと、あなたの評判に変わりはない』という綾女からの身もふたもない助言もあって、彼はボタン母子を自分の家族に取り込んだ。
「綾女も、どうせなら賑やかなほうがいいって言うからさ」
「綾女さんがどう言ってくれようと、あんたの女癖が悪さが諸悪の根源でしょうよ?」
さりげなく綾女に責任を擦り付けようとする源一郎を、ボタンがたしなめた。
「じゃあ、ボタンと六条さんは……」
「肉体関係があるかないかといえば、ないわね。そういう意味では、私はこいつの愛人ではないわ。でも、好きよ。愛していると言ってもいい。この人は、橘乃に家族をくれたもの。お祖父さんとお祖母さん。お父さんと、お姉さんとお兄さんと妹たち。ね?」
酒のために目元を赤く染めながらボタンが源一郎に微笑みかける。
「孤児だとか片親しかいないからといって、子供が立派に育たないなんてことはない。私や源一郎、なにより要がそのことを証明しているわ。でも、本当の親じゃなくても他の誰かより自分のことを大切にしてくれる人や、自分を気にかけてくれる人がいることほど、子供にとってありがたいことってないと思うのよねえ」
「そうだね」
実感の籠ったボタンの言葉に、要がうなずく。
もしも、要がボタンや久志に知り合うことがなかったら、八重や貴子や弟たちに出会うことなかったら、彼の人生は、とても味気なく寂しいものになっていただろう。始めから当たり前にあるものではなかったからこそ、要にはボタンの言っていることが身に染みた。
「とはいえ、家族といっても、普通の家族と比べたら、お母さんの数が多すぎるんだけどね。こいつのせいで」
「ふん。悪かったな」
ボタンの嫌味にふて腐れつつ、源一郎は「実は、俺の当初の計画では、茅蜩館に復讐してやるつもりだったんだよ」と要に打ち明けた。
源一郎は、育ちが卑しいという理由でボタンを追い出した茅蜩館の創業者一族を許せなかった。嫁だからという理由で八重を軽んじ、孤児の要を邪険にしどこぞから連れてきた彼の弟たちを利用する彼らが許せなかった。彼らの中に久志を殺したであろう人物が含まれていることは、もっと許せなかった。だから、いつか、彼らから彼らの優越感の基盤となっている茅蜩館を取り上げてやろうと思っていたそうだ。
「八重さんが亡くなるか、橘乃が結婚の適齢期になったら、茅蜩館を買い取るつもりだった」
源一郎が茅蜩館を買い取ったら、東京と横浜と鎌倉のホテルの運営を、要と隆文と浩平の三人に任せるつもりだったという。
「そのうえで、要と橘乃を結婚させてだな。結婚式で橘乃が久志の娘であることを公表すると同時に橘乃を茅蜩館のオーナーにすることを発表したら、さぞや痛快だろうと思ってたんだ」
「あんた! そんなこと考えてたの?!」
初めて聞く茅蜩館乗っ取り計画にボタンが青筋を立てて怒りだした。もっとも、源一郎の構想は、彼が親馬鹿病を発症した時点で消滅したそうだ。復讐よりも橘乃の父親でいることのほうが、自分にとって大事なことになったからだと源一郎は打ち明けた。
「でも、僕と橘乃さんを結婚させて橘乃さんをオーナーに……って」
頓挫した計画通りに事が進んでいるような気がするのは、要の気のせいだろうか?
「でも、俺は、橘乃をできるだけ茅蜩館と関係のないところに縁付かせたいと、この間まで思っていたんだよ」
「だったら……」
それが本当であれば、どうして、こうなった? 確かに、茅蜩館を源一郎に譲ると言いだしたのは八重ではある。だが、八重は橘乃の正体を知らない。源一郎は、しれっとした顔で茅蜩館を六条グループの傘下に組み込めばよかっただけだ。
「それなのに、どうして橘乃さんの正体がバレる危険を冒すような真似をしたんですか?」
「それは……」
しばらく、ためらうそぶりを見せた後、源一郎は手にしていたコップを煽るようにして空にし、要を見た。
「なあ、要。 幽霊って信じるか?」




