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誕生日には歌を  作者: 風花てい(koharu)
56/86

遠い約束 5

 

 要からプロポーズされた日からホテルセレスティアルの一面広告が新聞の朝刊に掲載されるまでの約一週間、橘乃はなにかと忙しくしていた。 

 

 誘拐されかけた日に要と橘乃(と源一郎)がホテルに戻ってみると、シェフたちが食べさせ損ねた冬の新作メニューの代わりに、美味しい料理とデザートを盛りつけた大皿を食堂のテーブル一杯に並べて待っていてくれた。ふたりは、色とりどりの紙のリボンや銀紙の雪を噴出するクラッカーと歓声でもって食堂に迎え入れられ、ホテルのスタッフから、荒っぽいけれども心のこもった祝福の言葉を浴びるように受けた。

 ささやかな祝いの会がお開きになろうかという頃、雨に濡れたまま一日駆け回っていた要が熱を出していることが発覚し、橘乃は彼の遠慮を押し切って看病をさせてもらった……はずだったのだが、かなり早い段階で、彼の寝床の脇で寝潰れたようだ。 


 幸いなことに、夜中近くに八重に起こされた時には要の熱も下がっていた。橘乃は八重に勧められるまま彼女の部屋に泊めてもらうことになり、貸してもらった浴衣に着替えた。


「またひとり、可愛い孫が増えましたねえ」


 いつもの居間で橘乃と布団を並べた八重が、「これで11人目だ」と言いながら幸せそうに長く息を吐き出した。浩平、隆文、要。貴子が産んだふたりの兄弟と、その兄弟のうちの弟が2年前に嫁にした女の子。それから、隆文と結婚することになった香織。そして、要と結婚することになった橘乃と、楽しげに八重が指を折り曲げていく。

「それから、時夫のところのふたりの女の子。ああ、時夫っていうのは、うちでバーテンダーやってる輝美の弟のことなんですけど。無口だし、いるんだかいないんだかわからないぐらい気配の薄い子ですから、紹介されていたとしても橘乃さんは覚えてないかもしれませんねえ」

 天井からぶら下がっている照明に灯された小さな電球のおかげで、八重が笑顔でいることはわかる。

 しかしながら、八重が名を挙げてみせた人物の中に、ひとりとして彼女の血を引く者はいない。息子の久志が亡くなった時に彼の遺産を狙う者が連れてきた要たちはもちろん、貴子も輝美も時夫も、八重の夫の久助が他の女性との間に設けた子供だ。 

 そんな子供たちの面倒ばかりみていた八重は、幸せだったのだろうか。不満はなかったのだろうか。 要や貴子たちに向ける八重の愛情を疑いたくはない。けれども、気にはなる。


「ねえ。ここで『沢山の孫に囲まれて、私は幸せ者ですねえ』なんて言ったら、偽善者みたいですかね?」

 橘乃の内心を見透かしたかのように、こちらに寝返りを打った八重がたずねた。

「い、いえ、そんなことまでは考えていませんけど」

 橘乃は慌てて否定した。 

「でも、ごめんなさい。ちょっと気になってしまったのは本当です。実は、私、そういうことを気にしていた時期があったんです。というのも、うちも、その……父のせいで親子関係が複雑怪奇なので」

 八重が黙って聞いてくれていることに安心して、橘乃は、打ち明け話を始めた。


 あれは、紅子と夕紀が中学に入学したばかりの頃だったから、中学2年生の春だ。 

 その頃の、橘乃は、人知れず悩んでいたことがあった。長女の紫乃を筆頭に華やかな評価を欲しいままにしている六条姉妹の中で、橘乃だけが浮いているような気がしてならなかったのだ。

「浮いているというよりも、むしろ沈んでいたんですけど」

 なにかにつけて抜きんでて秀でていた他の姉妹と比べると、橘乃は常に『普通より、ちょっとだけ上』程度に出来が良いだけだった。成績はもちろん、容姿についても、他の姉妹のそれが『とびきり美しい』と形容されるものならば、彼女のそれは『綺麗なのかもしれないけれども親しみやすい』と分類されるものだという自覚もある。 

 自分が人よりも得意なことといえば、人と話すのが好きなことと好奇心が旺盛なことぐらいだろうが、『どこにでも首を突っ込みたがるお喋り』が誇れることだとは、とても思えない。しかも、姉妹の中では、ひとりだけ髪の色が淡く、しかも天然パーマである。

 

 もしかしたら、自分だけが他所の子なんじゃないか。母親違いどころか父とも血が繋がってない貰われっ子なんじゃないか……と、悩みに悩んだ挙句に大泣きして、姉たちと母親たちから『メロドラマの観すぎだ』と一笑に付されたのは、今では懐かしくも恥ずかしい思い出である。

「私の場合は、ただの思い過ごしでした。だけど、要さんは……」

 橘乃は言葉を濁した。孤児として茅蜩館に引き取られた要は、あの頃の橘乃を悩ませていた漠然とした不安や人恋しさを、ずっと抱え込んでいるのではないだろうか。彼が遠慮しすぎる性格なのも、他者に受け入れられないかもしれない自分に怯えているせいではないだろうか。 


「橘乃さんは、良い子ですね。要の立場から、あの子を思いやってくださるんですね」

 八重が手を伸ばして橘乃の頭を撫でた。

「だから、私も、正直に申しましょうね。最初は、本当に偽善でした。久助さんに貴子を置いていかれた時なんぞ、『こんな子供、なんで私が面倒なきゃいけないんだ』と腸が煮える思いでした。偽善者どころか、『なさぬ仲の娘を育てる出来た嫁』だと誉められることさえ、ウンザリでした。でも、ある日、突然怖くなったんですよ」

「怖い?」

「ええ。ある日、鏡を見てみたら、そこに、すっかり人相が悪くなった自分がいましてね。目が吊り上って眉間きつい皺が寄ってて、口の端と端が『へ』の字に下がって、ほうれい線が、こうクッキリとね。まだ三十になったかならないかの頃だったていうのに……」

 鼻の脇から口の端に向かって、八重が指で線を引いてみせる。

「そ、それは、怖いですね」

「でしょう? 理不尽な目にあった挙句に醜く老いていくんじゃ、自分が可愛そうすぎますよ。だから、愚痴るのも怒るのもやめて、できるだけ笑ってようと決めたんです。家に寄りつかない旦那のためでもなければ、善い人になるためでもありません。あくまでも私のため。美容と健康と老化防止のためですよ」

 今流行りのダイエットみたいなものだと八重が笑う。

「あ、うちの母も同じようなことを、よく言います。『怒ってたって、誰も何もしてくれないわよ。幸せと美貌と良縁が逃げていくだけだ』って」

 美和子は、姉妹で仲たがいをしていたり、学校で面白くないことがあってふくれっ面をしている娘を見つける度に、そう言って笑う。

「まったく、そのとおりですよ」

 どうやら自分は美和子と気が合いそうだと、八重が喜んだ。


「それにね、『愚痴るまい、恨むまい』と念じながら笑顔でいたら、貴子たちが可愛く思えてきたから不思議です。久志が死んだ時も、あの子たちがいてくれなかったら、私は耐えられなかったかもしれません」

 久志の死後、八重は、どこの誰ともわからない要たちを自分の孫として引き受けた。浮気相手の子供を3人も育てられたのだから、この3人についてもどうとでもなるだろうと思ったのだそうだ。 

「ひと通り大きくなるまで子供を育てているから気持ちに余裕もありましたし、ホテルのスタッフやお客さままでもが、あの子たちを育てる手伝いをしてくれました。あの子たちの存在が、スタッフとの絆を深め、お客さまとのご縁を深め、茅蜩館のためにもなったんです。今では、久志があの子たちを連れてきてくれたんじゃないか……なんて思っているぐらいですよ。そして、今度は、要を介して橘乃さんとご縁を結ぶことができました。朗らかで、人を話すのが好きで、人の気持ちを慮れる優しさをもっている。いわば、ホテルが求めてやまない人材――茅蜩館のオーナーにピッタリの条件をお持ちの娘さんです」

 八重の骨ばった手が、横向きに寝そべる橘乃の頬に置かれる。


「お互いに好きあっていることを抜きにしたとしても、要が茅蜩館を継ぐのなら、あなた以上に伴侶としての好条件を揃えた娘さんがいるでしょうか? そんな御縁に恵まれたのも、元はといえば、久助さんのせいですよ。あの人には、いろんな面倒を押し付けられたけど、でも、あの男のおかげで最後に笑ったのは私です。『ざまあみろ』ってもんです」

「そうですね。『ざまあみろ』ですね」

 八重と声を合わせて笑うと、橘乃は、自分のほうこそ要を介して良い縁に恵まれたことに感謝しながら目を閉じた。 



------------------------------


  

 翌日、家に戻ってみると、妹たちが女たちだけの祝いの席を用意してくれていた。

 その翌日も、橘乃が知らせるまでもなく彼女の結婚が決まったことを知っていた友人たちが、『あなたを呼んだのは、さらに詳細なゴシップを本人の口から聞き出すためだ』と断言しながらも、楽しいお祝いの会を開いてくれた。 

 学生時代にクラブや委員会を通して仲良くしてくれた先輩や後輩たちも、みんなでおしゃべりする機会を設けてくれた。『とりあえず、おめでとうだけ言いたくて』と電話をかけてきた知り合いも多かった。

 

 要と共に貴子の家の夕食にも招かれた。 

 要とは戸籍だけで繋がっている家族かと思いきや、貴子の夫も彼女のふたりの息子も要のことを相当可愛く思ってくれているようだった。『もっと遊びに来てほしいのに、要が遠慮し過ぎて寂しい』とか、『貴子が要を独占していてムカつく』という微笑ましい愚痴を、橘乃は、彼らから山ほど聞かされた。


 横浜と鎌倉のホテルにも、ふたりで挨拶に行った。

 要のプロポーズよりも先に隆文と浩平がオーナー争いを辞退したこともあって、どちらの総支配人もふたりを好意的に迎えてくれた。『とりあえず、橘乃が竹里冬樹を選んでくれなくてよかった』というのが、彼らの偽らざる本音であるようだった。しかしながら、ふたりの結婚と要がオーナーになることに全ての人が賛成してくれたかといえば、そうではなかったようだ。 



「私は反対ですよ! 絶対に許すものですか!」


 鎌倉のホテルの総支配人との歓談中に彼のオフィスに駆け込んできた老女は、彼の母親だということだった。艶やかな白髪の持ち主で、更紗模様のワンピースをゆったりと着こなしている。これで、穏やかな笑みでも浮かべていれば絵に描いたような鎌倉マダムだが、橘乃たちに向けられた老女のむき出しの敵意と甲高い声は、好意的な印象を一瞬にして霧散させるだけの迫力があった。

「由緒ある茅蜩館を、パンパンが産んだ子供なんぞにやるわけにはいきません! それに、本当に久志の子供かどうかなんて、わからないじゃないの! あのアバズレは、男だったら誰彼かまわず誘惑するような娼婦だったんですよ!」 

 総支配人と彼が呼んだスタッフになだめられながら退場するまで、老女はずっと叫んでいた。


「ボタンさんと要さんが親子?」

「ええ、まあ。あの人は逸子さんっていうんですけど、何年か前から、そう思い込んでいるようでして」

 帰り道、遠くに海が見える坂道を並んで歩きながら、要が言いづらそうな顔をしながらも、詳しい話をしてくれた。


 茅蜩館の本家の長女として生まれた彼女は、弟久助の放蕩に悩む両親を見ているうちに、茅蜩館がホテルにならないまま昔ながらの豪華旅館を続けていたら、自分が女将として茅蜩館を継げたはずだと考えるようになったらしい。

「昔ながらの豪華旅館?」

「まあ、あくまでも逸子さんのイメージだと思うんですけど、旅館って女将が切り盛りしていたりするじゃないですか」

 『伝統的に女性の力が強い職場ですから』と、要が苦笑する。


 ともあれ、久助が問題を起こすたびに、彼女の不満は大きくなっていった。彼女は、遊び呆けているばかりの弟が許せなかったし、自分を無視して息子にばかり跡を託そうとしている両親も許さなかった。久助の代わりに頑張るしかなかった八重のことも許せなければ、久志と恋仲だったボタンのことを茅蜩館を乗っ取ろうとする泥棒猫だと信じていた。

「しかも、久志さんが亡くなった時に後継者として名前が上がったのは、男性ばかりでした」 

 養子に出た弟はもとより勘当された久助までもが相続問題に絡んできたというのに、彼の姉にも跡を継ぐ権利があると言ってくれるものは誰もいなかった。彼女の息子に本家を継がせようと提案する者さえいなかった。それどころか、久志の隠し子に継がせるべきだと主張する者が、どこぞから跡取りまで探し出してきた偽者の八重の孫たちも、男の子ばかりだった。 

「その頃から、逸子さんの言動は、おかしくなっていったようです。気持ちの浮き沈みが激しくなり、妄想と現実の区別がつかなくなり、親戚の集まりで誰彼かまわず罵倒したり乱暴を働いたりするかと思えば、ふさぎ込んで何日も家から出られなくなったり」

「要さんのことを、ボタンさんと久志さんの子供だと思い込んだり?」

「え? ええ、そうですね。僕が生前の久志さんとボタンを知り合いだったという話が、彼女の心の中で、おかしな具合に変換されたみたいです。とはいえ、彼女は、なにをどう勘違いして、ボタンに僕みたいな大きな子供がいると思いついたんだか……」

 つらつらと話していた要の話が急に途切れた。


「要さん?」 

「あ、いいえ。ぼおっとしてしまって、すみません」

 前方の海から橘乃に視線を戻した要が、いつもの笑顔に戻る。彼は、橘乃に詫びると、「だから、鎌倉の総支配人さんは、なにかとご苦労が絶えないのです」と強引に話を締めくくり、「ところで、僕のほうこそ、橘乃さんのお母さまに御挨拶に伺わなくてはいけませんね」と、これまた強引に話を変えた。

「あ、うちの母のことならば、放っておいてもいいです」

 なにしろ、彼女は極度の人見知りだ。会う約束を取り付けたところで、直前に逃げ出す可能性のほうが高い。それでは、要に悪い。

「逃げられても僕は気にしませんよ。でも、お母さまが僕と会いたくないとか、結婚に反対とか、そういうことならば……」

「反対なんて、とんでもない! 大賛成なのよ」

 橘乃は要の懸念を笑い飛ばした。とんだ勘違いだ。なにしろ、妹たちが用意してくれた祝いの席で、母が一番はしゃいでいたのだから。


「そうですか。よかった。喜んでくれてはいるんですね」

 ホッとしたように、要が微笑んだ。母とは違った意味で、この人も内向的すぎると橘乃は思う。

「当たり前じゃないですか」

 憤慨してみせながら、橘乃は思い切って要の腕に手を絡めた。要は驚いたようだが、橘乃の腕を振りほどきはしなかった。気をよくした橘乃は、更に大胆になって要の腕に顔を寄せた。

「もっと自分に自信をもってください。要さんは、数多くの求婚者の中から、私が選んだ人なんですからね」

 さりげなく言ってみたものの、我ながら恥ずかしい台詞である。赤くなった顔を要に視られたくなくて、橘乃は彼の腕に顔を押し付けた。  

「だ、だから、気にしないで。要さんは、妹にも姉にも他のお母さんたちにも会ってくれたでしょう? それで充分。会いたくなったら、向こうから寄ってきますよ」



 その日の夜、家に帰った橘乃は、母にその話をした。 

「ひっどーい。気になったら自分から寄ってくるなんて、それじゃあ、まるで私が野生動物かなにかみたいじゃない」

 母は、頬を膨らませて橘乃に抗議した。

「同じようなものでしょう? でも、いつでもいいから、いつかちゃんと要さんに会ってね」

「わかってるわよ。いつの日か覚悟を決めるって、この間だって言ったでしょう」

「言ったっけ?」

 言ったかどうかはさておき、要に会うのに『覚悟』がいると思う方が変だと、橘乃は思う。要は、美和子を捕って食ったりはしない。


「要さんぐらい人当りの良い人もいないと思うのよ。お母さまも、彼のことを、きっと気に入ると思うの」

「わかってるわよ。だけど……」

 美和子が手近にあったクッションを掴んで顔に押し付けた。なにやら、まだまだためらいがあるようだ。

「どうして、そんなに困るのかしらねえ」

 橘乃は呆れた。美和子の人見知りは今に始まったことではないとはいえ、我が母ながら不思議な人である。


 それから後の数日も、橘乃は、その前の数日と同じような勢いで祝われて過ごした。


 そして9月の最初の日曜日。



『全室3割引き』

 

 新聞に掲載されたセレスティアルホテルグループの一面広告には、スーパーの折り込みチラシを髣髴させる謳い文句が添えられていた。


 またしても冬樹の報復に違いない。広告を目にするなり橘乃は確信した。宿泊価格を下げるだけ下げて、茅蜩館の客を奪い取るつもりなのだ。だが、新聞を片手に橘乃が要に知らせに走ると、彼は拍子抜けするほど落ち着いた表情でこのニュースを受け止めた。

「驚かないの?」

「驚いてはいますよ。うちも少なからず影響は受けるでしょうから」

「だったら……っ!」

 茅蜩館も値下げするとか、お客さんを呼び寄せるキャンペーンをするとか、とにかくホテルセレスティアルへの対抗策を講じるべきではないのかと焦る橘乃を見て、要が嬉しそうに目を細めた。

「なんですか?」

「いえ、橘乃さんが、一生懸命心配してくれているから」

 要は、そんなことが嬉しいらしい。

「そんなに呑気なことを言っていていいんですか」と、反射的に返したものの、橘乃は、なぜだか、ものすごく照れ臭くなった。戸惑う橘乃に、要が『ありがとう』の追い打ちをかける。 


「ど、どういたしまして」

「でも、大丈夫ですよ。影響があるといっても、うちは、たぶん少ない方だと思います」

 橘乃がモジモジしながら返事をしている間に、要が話題を戻した。

「というのも、茅蜩館は、ホテルセレスティアルよりも値段が高いというイメージを持たれているんですよね。それでも泊まりに来てくれるお客さまが、この広告に惹かれるかといえば……」

「そうか。困るのは、むしろ、セレスティアルよりもランクが低く見られていて、今の宿泊料がセレスティアルの値下げ後の値段と同じになるホテルですね」

「ええ。ですから、例えば、この広告を出したのが帝都ホテルやホテルオオヤマだったら、うちも相当困ったことになるんです。それより、僕としては、この値段でセレスティアルがやってけるのかということのほうが心配なんですけど」

 新聞を見つめる要が、困惑しきったように眉を寄せた。

「こんなことしちゃって、秋彦さん、大丈夫なのかな」

「え? 秋彦さん?」

「ええ。ここに名前の挙がっているホテルですけど、セレスティアルのリゾートホテルばかりじゃないですよね? 都市部のホテルや、この間の赤坂のホテルも値下げ対象になっている」

 『冬樹の陰謀ではないのか』とたずねる橘乃に、要が新聞を示してみせた。そういえば、冬樹がリゾート担当で、秋彦がそれ以外の担当である。


「リゾートのほうはよくわかりませんけど、あのホテルのサービスでこの値段では、かなり厳しいと思うんですよね もしかして原価ギリギリなんじゃないかなあ」



-----------------------------



「もしかしなくても原価割れしているらしいよ」

 翌日、戸籍上の息子という立場を利用して、浩平が武里を探ってきた。


「それもこれも、全部冬樹のせいだよね。冬樹が六条さんを怒らせたりしたから、いけないんだ」

「ということは、結局、うちの父のせいじゃないですか」

「誘拐犯と、娘を取り戻そうとした父親。手段はどうあれ、悪いのは誘拐したほうだよ」

 肩を落とした橘乃を、笑顔で浩平が慰める。ともあれ、その手段――つまり、橘乃を取り戻そうとした源一郎がセレスティアルホテル赤坂を破壊しようとしたことが、この広告が出されるキッカケになったことだけは間違いなさそうだ。

「だいたい、『映画の撮影のためでした』なんて理由を誰もが信じてくれるだろうと期待するほうが、おかしいんだよ」

 八重と橘乃という最高の聴き手を前に、浩平の舌は滑らかだ。


 六条源一郎のホテル破壊未遂行為のきっかけを作ったのは、冬樹の橘乃誘拐未遂だ。だから、悪いのは冬樹である。俺のせいじゃない。そう結論づけた源一郎は、この騒動の後始末のために自ら動くことをしなかった。『映画の撮影だ』とマスコミに囲まれた要が咄嗟に口走った言い訳を採用することで、騒ぎの責任を、映画の撮影場所を提供したことにされたホテルセレスティアル赤坂および武里グループに押し付けたのである。責任者として事情を説明する必要に迫られた竹里秋彦にせよ、『実は、うちの弟が人様の娘さんに乱暴しようとしまして』などという話を公にするわけにはいかない。彼もまた、『映画関係の撮影でした』と言い張ることにした。


 しかしながら、そんな稚拙な言い訳を鵜呑みにしてくれるほど、世間は甘くなかった。 

 六条源一郎という人物を知っている政府と公安の関係者だけは、武里グループの苦し紛れの言い分を建前として受け入れてくれたものの、それだけでは事は収まらない。なにしろ、冬樹が橘乃を連れ込もうとしたホテルの立地が悪すぎた。ホテルセレスティアル赤坂の目と鼻の先には、首相官邸や、国会のある永田町がある。目と鼻の先といえば、戦後の進駐軍の大半を占めていた某超大国の大使館も近い。近いといえば、その某超大国と共に先の大戦では敵対したものの、この国が近代化する過程で大変世話になった元大帝国の大使館も、そこから遠くない場所にある。 


 この2国は、今回のことを、『なあなあ』では済ましてくれなかった。今回の事件は、彼らに、この国が結果的に軍国主義へと向かい彼らと袂を分かつきっかけともなったクーデター事件を思い出させた。数年前に過激派が起こした立てこもり事件と印象が似ていたことも、彼らの警戒心を強く刺激した。 

 事件に関わっていたのが、桐生喬久の後継者だと言われている六条源一郎であることもいけなかった。桐生喬久といえば、日本が占領下にあった時代に、敗者の分際でやりたい放題かつ言いたい放題であった無頼漢だ。

 『たいしたことじゃ、ありませんよ』と表面的には愛想の良い笑顔で説明しながらも、この国は、またしても彼らの望まない方向に突き進もうとしているのかもしれない。もしかしたら、自分たちの知らぬところでよからぬことを画策しているのかもしれない。 ……と、いろいろと誤解した両国は、今回の騒動の現場となったホテルセレスティアルの代表責任者である秋彦を非公式に何度も取り調べた。あまりにもしつこいので、最後には、六条源一郎自ら彼らに事情を説明しなければならなかった。源一郎は、彼らの母国にも出向く行く羽目になったという。


「もしかして、父の海外出張って、このためなんでしょうか?」

 橘乃は、数日前に、慌ただしく出かけて行った父の姿を思い出していた。

「そうかもしれない。ともかく、六条さんのおかげで、そっちの2国は納得してくれたようなんだけど」

 しかしながら、ふたつの大国以上に警戒心が強く手厳しい者がいた。この国の消費者である。

「武里グループが過激派に狙われているという噂が、日本中に広まってしまったらしいんだよね」

 この一週間、全国のセレスティアルホテルでは、宿泊のキャンセルが相次ぎ、新規の予約もほとんど入らなくなってしまったという。

「武里グループってさ。創業者の時代から政治家との黒い噂に事欠かないんだよ。だから、資本主義の悪しき申し子として、今まで攻撃されてこなかったことのほうが奇跡だと思わないでもない」と言う浩平に、彼の話を聞きに集まってきた全員が深くうなずいてしまうほど、この噂には説得力があるらしい。

 

「だから、とにかく今は、値段を下げてでも客を呼び戻さないといけないらしいよ。それなのに、あの馬鹿は、自分のしでかしたことが全然わかっていないらしくてね」

 クツクツと喉を鳴らして笑いながら、浩平が肩を震わせる。

「あの馬鹿って、冬樹さんですか?」

「他にいるの?」

 浩平は表情を曇らせると、「お祖母ちゃん。あの馬鹿、要と茅蜩館に復讐するって、まだ吠えてるらしいよ」と八重に言いつけた。

「あれ、まあ。まだ懲りてないのかい?」

「どうせ口だけで、何もできないと思うけどね」

 浩平が笑う。


 だが、数日のうちに事態は深刻なことになってきた。



--------------------------



 数日後。武里リゾートが、新しいリゾートホテルの計画を近日中にマスコミに発表するらしいという情報を仕入れてきたのも浩平だった。


「東京リゾート?」

「うん。東京のど真ん中で、帝都や茅蜩館をしのぐ贅沢な時間を満喫してもらうっていうのが、コンセプトらしいんだけど」

 秋彦が誘拐未遂事件の尻拭いに追われている間に冬樹が勝手に計画をまとめ、武里グループ全体 ―――つまり、秋彦よりもずっと偉い人たちからの承認を取り付けてしまったそうだ。

「独り蚊帳の外に置かれていた秋彦は、カンカンだよ。本当だったら、これから誘拐未遂を理由に冬樹を追い詰める予定だったのに、この計画が盛り上がってしまったせいで、逆にグループ内での自分の立場が弱くなってる」

 こんなことなら誘拐犯として冬樹を警察に突き出しておけばよかったと、秋彦は、今さらながら後悔しているという。  


「それで、その新しいホテルというのは、どこに建てられる予定なんだろう?」

 問題は場所だと要が心配する。

「それが……」



「今度、この近所に僕のホテルを作ることになったから、挨拶にきたんだ」


 翌日、茅蜩館のロビーに颯爽と現れた竹里冬樹が、応対に出た要に気取った口調で言った。

 例によって例のごとく、どこかのファッション雑誌の表紙さながらの洒落た服装でキメている。とはいえ、最新号の表紙は明らかに季節を先取りしすぎていたようで、芥子色のジャケットは見るからに暑苦しかった。

 冬樹は、今日も女性と同伴だった。こちらは、冬樹とは反対に、冷房の効いた茅蜩館のロビーでは寒く感じるのではないかと思うほど、身に着けている布の量が少ない。チューブ状の赤いワンピースの丈は足の付け根を辛うじて隠す程度で肩もむき出しだし、胸も半分しか隠れていない。紫乃の母の綾女が彼女を見たら、『はしたない』と、彼女に外出を禁じることだろう。もしも橘乃が冬樹を選んでいたら、この女性の位置に自分が立っていたのかもしれない。そう考えただけで、橘乃は気分が悪くなった。

 

 冬樹と対峙することなった要も制服ともいえる夏らしからぬ黒のスーツに身を包んではいたものの、表情は涼やかだった。

「それは、ご丁寧にいたみいります」

 たぶんポーズなのだろうけれども居丈高に振る舞う冬樹を真っ直ぐに見返して、要が答える。冬樹に微笑んでみせる余裕さえある要に、橘乃は惚れ直す思いだった。『頑張れ、負けるな』と、心の中でエールを送る。


「どこだか知りたいかい?」

「教えていただけるのでしたら、是非とも」

 すでに浩平から聞かされていることを、要は明かさなかった。 

「帝都劇場があるところと言ったらわかるかな?」

 その劇場は、少し距離はあるが茅蜩館とは斜向かいの位置関係にあり、大きな道路に隔てられてはいるが茅蜩館と比べると劇場の方がより皇居に近い場所にある。つまり、劇場のほうが立地が良い。

「興行収入の落ち込みが激しいあの劇場の救済に、我が武里グループが乗り出すことになった。今のプログラムを徹底的に見直して、集客数を3倍にする予定だ。それに伴い、あのボロい劇場をぶっ壊して、上階に宿泊施設を備えたお洒落なビルに生まれ変わらせることにしたんだ」

 得意げに冬樹が説明する。 


「驚いたかい?」

「さすがに、武里グループはスケールが大きいですね」

 愛想は良いが感情の伴わない平坦な声で、要が応じた。要のリアクションの少なさが気に入らないのか、冬樹は要に近づくと、おもむろに彼のネクタイを掴んで、自分の方に引き寄せた。

「涼しい顔をしていられるのも今のうちだ」

 冬樹が声を低くして、要を脅す。

「俺は、受けた無礼は忘れない。俺を侮辱したお前も、この古臭いホテルも、ぶっ潰してやる。 君も」

 要を守ろうと駆け寄った橘乃に、冬樹がネチっこい視線を向けた。


「後悔するといいよ」

「絶っ対にっ! しませんから」 

 こんな男に一瞬でも引かれたことを心から後悔しつつ、彼女は即答した。

「それに、私では、きっと冬樹さんは、すぐに飽きたと思いますよ。本当は、そういう方がお好みなんでしょう?」

「ああ、彼女のこと?」

 冬樹は要から手を放すと、肉感的な赤いワンピースの女性の腰を引いて引き寄せた。 


「彼女は、僕の復讐のパートナーだよ」

「復讐……?」

「紹介しよう」

 芝居がかった仕草で、冬樹が女性を橘乃たちの前に押し出す。


「新藤マリア。茅蜩館の総支配人兼オーナーだった恵庭久志のかつての恋人で、妊娠が分かった途端に茅蜩館から追い出された新藤ボタンの娘。つまり、偽物の孫を名乗るあんたとは違って、彼女こそが、茅蜩館の正統な跡取りだ」




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