巡り巡って 8
娘を拉致しようとした男との直接対決に向かう源一郎の足取りは軽かった。 残酷なほど無邪気な笑みを浮かべながら、遠足に向かう子供のように意気揚々とロビーを突っ切っていく。
そんな源一郎に半歩後からついていきながら、要は、周囲を観察するように首を巡らせた。
狂暴な侵入者に怯えているのか、ロビーに客の姿はない。 いるはずのスタッフさえ、ほとんど見当たらなかった。 このホテルではフロントが客室のある上階に設置されているからかもしれないが、こちらから見る限り、螺旋状の階段の奥にあるクローク兼コンシェルジュのような受付カウンターから制服姿の男女がこちらをうかがっているだけだ。
(もしかして、閉じこもっている冬樹さんを引っ張り出すために、スタッフ全員が駆り出されている……とか?)
まるで天岩戸である。
それはさておき、要がこのホテルに来るのは久しぶりだった。
青みがかったガラス窓から贅沢に取り入れられた陽の光が淡く照らす吹き抜けのロビーは、普通のフロアに換算すれば3階から4階分の高さがある。 中央に配された巨大なステンレス製のオブジェは、有名な芸術家の手によって誂えられた物だとかで、今ではホテルセレスティアル赤坂のシンボル的な存在になっている。
なるほど、このモダンアートの美術館めいたホテルを気に入っている冬樹にしてみれば、茅蜩館ホテルは前時代の遺物のように見えることだろう。 しかしながら、他のどのホテルよりも東京の茅蜩館を気に入っている要は、ここも気に入っている。 近未来的で、かっこいいと思う。
(なんて、今は、ロビーに関心している場合じゃないんだよ)
自分を戒めつつ、要は前方に注意を戻した。
とにかく今は源一郎から離れるわけにはいかない。
ゴジラみたいなやり方でホテルを破壊することだけは思いとどまらせたものの、源一郎の怒りは全く収まっていない。 というよりも、要がしたことは、源一郎の攻撃対象をホテルから冬樹個人へと絞り込んだだけだ。 全体的な被害は少なくなるかもしれないが、誰かに深刻な被害が集中する可能性を高くしてしまった。
(誰かに怪我をさせるようなことだけは、絶対に阻止しないと!)
客やスタッフだけではない。 業腹ではあるが、いざとなったら冬樹のことも要が体を張って守るしかないだろう。 源一郎を犯罪者にするわけにはいかない。
(僕のほうが冬樹さんをぶっ飛ばしたいぐらいなのに)
理不尽な状況と己の性格を要は呪いたくなった。
だが、狂暴化している源一郎を前に、要の思考や感情は、これから起きるであろう修羅場に備えて冷たく研ぎ澄まされていくばかりである。 とてもではないが、怒りに任せて冬樹に向かって突進していく気分にはなれない。
(僕って、なんでこうなんだろう)
「要さん」
自分の『良い子』さ加減にうんざりしかけていた要の背中を誰かが突っついた。 橘乃である。 葛笠もいた。 源一郎の隣を葛笠に譲ると、要は橘乃と並んだ。
「ついて来ちゃったんですか?」
「だって、お父さまのことが変なことをしないように、私も見張っていないと」
気負ったように橘乃が言う。
(この人も、いい加減に『良い子』だよな。 一番迷惑を受けたのは、あなたでしょうに)
それなのに冬樹を守る方向で動こうとするとは、お人好しにもほどがあると、要は呆れた。 自分といい勝負だ。 もしくは、彼女のほうが勝っている。
「冬樹さんの心配を、あなたがする必要はないです。 第一、あなたこそ冬樹さんに怒ってたんじゃなかったんですか?」
自分のことを棚に上げて、要は橘乃に嫌味を言ってみた。
だが、充分に予想がついていたことだが、彼女に嫌味は通じなかった。
「怒ってますよ」
怒っているようには全く見えない笑顔で、橘乃が答える。
「その顔のどこが怒っているんですか?」
「怒ってますってば!」
ムキになった顔が可愛い。 などと、彼女の反応ににやけてしまう自分のほうこそ緊張感に欠けていると、人知れず要は反省した。
「怒ってますよ。 だから……、えーと、だから…… お父さまにボコボコにされる前に冬樹さんにビシッと言うべきことを言ってやってですね……」
「それ、今、考えながら言っているでしょう?」
「そ、そんなことないですよ」
図星だったのだろう。 橘乃が動揺を見せた。
「では、具体的に彼に何を言うつもりなのかを訊いてもいいですか?」
「そ、それは…… ええと、ここでは教えてあげません」
口ごもりながら、橘乃が要から顔を背けた。
(やっぱり考えてないじゃないか)
要が笑う。 そんなつもりはないのだが、橘乃は馬鹿されたと思ったのかもしれない。
「そういう要さんこそ、どうなんです?」
彼の顔を下から覗き込むようにして、彼女が訊ね返してきた。
「要さんだって、冬樹さんに言ってやりたいことがあるって言ってたでしょう? あの人に何を言うつもりなの?」
「え? 僕ですか? 僕は……」
要は口元に手を当てた。
要が冬樹に言いたいこと。 それは、源一郎の言葉を借りるとすれば、要するに『俺の女に近づくんじゃねえ!!』とか、『橘乃は俺のもんだ!』というようなことである。 それを今ここで……彼女の前で言えるなら、要は、とっくの昔に橘乃にプロポーズできていたことだろう。
「……。 冬樹さんに直接言うまで内緒です」
「要さんこそ、具体的に何を言うか考えてないんでしょう。 私のこと笑えないじゃないですか」
無心に見上げてくる橘乃の視線に耐え切れずに顔を背けた要を、ここぞとばかりに彼女がからかう。
「そ、そんなことないですよ」
「嘘、嘘、考えてない」
狼狽える要を橘乃が笑う。
「おい、お前らには緊張感ってものがないのか? っつたく、遠足に行くんじゃねえんだぞ」
にわかに騒がしくなったふたりを、前を行く源一郎がたしなめた。 源一郎にだけは言われなくないと、要は心から思った。
その後、彼らがエレベーターを待っている間に源一郎の筆頭秘書である佐々木に連れられた秋彦が合流し、源一郎たち6人は、彼の案内で冬樹が立て籠っている客室があるフロアへと向かった。
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地上35階にあるロイヤルスイートルーム前の廊下は、要の予想どおり、天岩戸のような状態になっていた。
「冬樹さま! お願いですから出てきてくださいまし!」
このホテルの総支配人やその他従業員が、扉とインターホンに縋り付くようにして、中にいる冬樹を必死で説得している。 だが、彼らの呼びかけに冬樹が反応している気配はない。
ちなみに、このロイヤルスイートルーム。 その名から連想されるとおり、このホテルで最も宿泊料の高い部屋である。
秋彦の説明によれば、床面積は250平方メートル超。 キングサイズのベットがある寝室と、8人ほどなら余裕で食事がとれるダイニングルーム、それから、食事をした後の彼らが飲み物を片手にゆったりと寛げる広さのリビングルームがあるそうだ。 もちろん、スイートに本来あるべき介添えや警備の者が使用する続き部屋も用意されている。 そして、このロイヤルスイートは、豪華さや広さ以上にスイートとしての大事な特徴も備えていた。
つまり、頑丈なのである。
最近では見た目ばかりが豪華なスイートルームも多いようだが、スイートルームとは本来、要人を泊めることを想定して用意された部屋である。 ゆえに、スイートルームである以上、頑強なセキュリティも備えていなければならない。 例えば茅蜩館であれば、外から鍵が解錠されにくいことはもちろん、扉も壁も窓ガラスも防弾仕様。 蝶番なども易々とは壊されない作りになっている。
しかしながら、治安の良いこの国では、宿泊者が襲われることなどめったにないので、これらの設備が役に立つ機会はほとんどないといってよい。 というよりも、『こんなこと、やるだけ無駄なのに……』と笑える状態が続くことこそが望ましい。 だが、この手の部屋を必要とする宿泊客は、今日でも相当数いる。 また、戦争という時代を経験している茅蜩館や帝都ホテルなどは、この手の備えを疎かにしてはいけないことも経験的に身に染みていた。 要も、命を狙われているような客を受け入れなければならない時は、その人の懐事情など斟酌せずにスイートに案内するようにと教えられてきた。
「でも、冬樹さんが使うような部屋なら……と、ちょっとだけ期待していたのですけどね」
「なんちゃってスイートだと思ったか? 馬鹿な。 このホテルの裏は永田町だぞ」
蹴とばしたぐらいではビクともしなそうな重厚な扉を撫でながらため息をつく要を横目で見ながら、秋彦が皮肉気な笑みを浮かべる。
「廊下で手りゅう弾や火炎瓶を爆発させたぐらいでは壊されない自信がある。 だが、断じて女遊びが過ぎる馬鹿な身内が立てこもれるように作ったわけではない」
「それは、そうでしょうね」
こめかみを押さえる秋彦に、要は同情するような笑みを向けた。
もっとも、下の階には、そういった……つまり、《なんちゃって》な部屋もあるのだそうだ。 「だったら、冬樹には、そっちを使わせればよかったんだ。 ここは女とイチャイチャしたいだけの馬鹿な身内を泊まらせる部屋じゃねえだろうよ」という源一郎の嫌味に、秋彦は返す言葉がないようだった。
「とはいえ、困りましたね」
要は、ため息をついた。 源一郎には『多少なら手でも足でも出してよい』と唆してみたものの、その程度の衝撃でこのドアが壊れるとは思えない。
「出てくるまで待ちますか?」
無理を承知で提案してみる。
「3日は楽に籠城できるだけの食料と水を備えているが」
「そうでしょうとも」
『スイートですものね。 うちのもそうです』と呟きながら、要は肩を落とした。
「じゃあ、どうしましょう?」
「壊す」
娘の問いかけに源一郎が即答する。
「でも、簡単には壊れないのでしょう?」
「簡単には壊せません。 けれども、壊せないことはありません」
要が橘乃に教え、意向を確認するように秋彦を見る。
「そうするしかないようだな」
秋彦はうなずくと、「救助作業用の斧があったと思うが? あと電動ノコギリも」と総支配人に訊ねた。
「斧ぉっ?!」
橘乃と総支配人の声が重なった。
「破壊するなら、銃弾よりも、そちらのほうが威力はあるだろう。 それでだめなら、下にいる六条さんの会社の人から道路作業用の電動ドリルでもお借りしよう」
「社長! ですが……!」
「君の気持ちもわかるが、このドアを破壊されるのと、ホテルごと重機でへし折られるのとどちらがいいと思う?」
総支配人は数秒の葛藤の後、観念したように「わかりました」と答え、道具を取ってくるようにと若手に命じた。
「い、いや、でも、そこまでしてくださらなくても、私は無事だったんですから……」
未だに事を丸く収めたいという思っているらしい橘乃が決定を翻そうと試みたが、その他全員によって聞き流された。 要も、「要さんも、止めてください!」という彼女の懇願を、あえて無視した。 そうこうするうちに、ベルマンの制服を着た青年によって柄と刃が一体になっている小ぶりの片刃の斧がもたらされた。 仰け反るようにしてそれを振り上げた源一郎が、大音を響かせながら2度3度と力いっぱい扉に叩きつけた。
「や、やめろっ!」
中から冬樹の叫び声が聞こえた。 かなり動揺しているようだ。
源一郎は冬樹の声に応じる代わりに、再び斧を振り下ろした。
「や、やめろって言ってんだろ! 中には、人質がいるんだぞ! そいつがどうなってもいいのか!」
冬樹が叫んだ。
「人質?」
「冬樹は女性と一緒に滞在しているのか? 女性スタッフで姿の見えない者は?」
要と橘乃が顔を見合わせ、秋彦が青ざめながら廊下に溜まっているスタッフに声を掛ける。
源一郎の斧も、さすがに止まった。
だが、その直後に部屋の中から聞こえてきた「きゃああああああっ! 助けてっ! この人を怒らせないでぇ!」という甲高い悲鳴が聞こえた途端、彼は「ふざけんなっ!」という怒号と共に再び斧を振り回し始めた。
「お父さま! 中に人質がいるんですよ!」
「六条さん、落ち着いてください!」
橘乃と要が必死になって止めようとするが、源一郎の破壊力は増すばかりである。
「人質が声音を使うかよ! 今の声は男だ!」
彼が叫ぶと同時に、ドアノブの脇に辛うじて腕が通る程度の穴が開いた。 要は源一郎と場所を代わると、穴に手を突っ込んで鍵とチェーンを外した。 ドアを開けた要が最初に見たものは、腰を抜かしかけている冬樹と、六本木で要たちに因縁をつけてきた男たちをよく似た雰囲気を持つ青年だった。 源一郎の言うとおり、女性はいないようだ。
「ひいいっ!」
部屋に踏み込む源一郎から逃げるように、冬樹たちが倒つ転びつしながら部屋の奥へと進んでいく。 悠然と彼らを追いかける源一郎の後に、要も続いた。 リビングまで進んでも、人質らしき女性の姿はない。
「悪ふざけがすぎるなぁ、小僧。 俺が、喉仏のある男の声と女の声を聞き間違えるかよ」
ソファーの隅に追い詰めた冬樹に、斧を肩に担いだ源一郎が声を掛けた。
その声は怒りを通り越して、もはや楽しげだ。 とはいえ、まだ理性は残っているらしい。 源一郎は斧を持ち直して柄の方を冬樹に向けると、尚も逃げ場を探すように落ち着きなく顔を巡らせる彼の顎を柄の先で持ち上げた。
「なあ、坊主? この六条源一郎の大切な娘を怖がらせておいて無事で済むと思うほど、あんたは愚かじゃねえよな?」
「俺は、やってないっ!」
顔を引きつらせながら冬樹が喚いた。
「……と、言っているが?」
問いかけるように源一郎が側らに立った要を見る。
「私の名を借りて橘乃さんを攫ったハイヤーが向かった先には、この方のお友だちが2名ほどいらっしゃいました」
どうせなら、もっとマシな嘘を吐けばよいのに。 そう思いながら、要は、冷えた声で源一郎に言いつけた。 子供のような冬樹の言い訳に、要は、もはや彼を庇う気力を失くしていた。 冬樹が拉致した橘乃をどうするつもりであったかも、ついでだから源一郎に教えてやる。
「そんなこと俺は言ってないぞ! ハイヤーのことだって知らない! 俺じゃない!」
「だが、あのハイヤーは武里交通所有のものだった」
腹違いの兄の秋彦が、容赦のない声で冬樹の釈明を遮った。
「君は、あそこを頻繁に利用しているそうだな。 しかも、付き合いのある女性の前で良い恰好したいだけだって理由から、かなり強引な手続き……というか、ほぼ無断で使い回しているらしいじゃないか」
「無断じゃない。 いつだって事前に連絡させている。 そうだ、俺の秘書は何て言っているんだ?」
「彼は配車の依頼はしていないそうだ」
「ほらっ!」
冬樹が活気づいた。
「だが、君が配車の依頼を出していないと断言できないとも、君の秘書は言っていた。 君は友達に彼の名前を騙らせて随分と勝手なことをしていたようだね。 彼の知らないところで、ハイヤーを借り出したことも一度や二度ではないらしいじゃないか。 随分と困っているようだったよ」
「あいつ、クビにしてやる」
「自業自得だろう」
一向に反省する気のない弟を見下ろしつつ、秋彦がため息を吐く。
「ついでに、橘乃さんを攫ったハイヤーの運転手は、梅宮さんを君の友人のひとりだと勘違いしていたようだ。 誘拐に加担している自覚がなかったとはいえ、非常に反省していた」
『どうしても謝りたいと申しておりますので、後程お時間をいただけますか?』と、秋彦が橘乃にたずねた。 彼女がうなずくのを確認すると、秋彦は再び弟に向き直った。
「だから、君も、悪いことは悪いことだと認めて、橘乃さんに謝りなさい。 話はそれからだ」
「嫌だ」
彼は頑なに首を振った。 やってもいないことを謝れないとも。
「そりゃあ、確かに俺も、橘乃に対して多少しつこかったかもしれないとは思うけどさ。 だからといって、この俺が、そこまで馬鹿な真似をすると思う?」
「思う」
あっさり言い返した源一郎に合わせて、要も秋彦もうなずく。
「……って、おい! あんたたち、失礼だぞ!」
「そういうおまえがしたことは、失礼以前の問題だろう!」
「だから、やってないって! っていうか、俺は、親の言いなりになって結婚させられる橘乃が可哀想だと思ってだな……」
「可哀想だから彼女が怖がるほどの嫌がらせをしたっていうんですか?」
たまらず要が冬樹に食って掛かった。
「嫌がらせってなんだよ?! してねえよ!」
「したでしょう! 毎日毎日電話かけてきたり、屋敷に侵入しようとしたり」
「なんだ? こいつ、そんなことしていたのか? 俺は聞いてないぞ!」
「だから、してないってっ!」
再び斧をかまえた源一郎に、冬樹が叫んだ。
「往生際が悪いですよ。 とにかく、今後は彼女に近づかないでください!」
「あんたに言われる筋合いはねえよっ!」
「筋合いなら、あります。 なぜなら、私は――」
「ああ! もう! 誘拐していようがいまいが、もう、どうでもいいです!」
ようやく『俺の女に手出しするな』的な台詞を冬樹に向かって吐こうとした要を押しのけるようにして、橘乃が最前列に出てきた。
「とにかく、これから先は私に関わらないでくだされば、私としては結構です! それから」
断固とした態度で冬樹に申し渡すと、橘乃は要の袖をやや強引に引っ張って隣に並ばせた。
「私、この人と結婚しますから。 これ以上誤解されないように、ここでお断りしておきますけど、これは私自身が望むことです。 この人が好きだから一緒になりたいんです」
「き、橘乃さん?」
「だめですか? でも、こちらに向かう途中で、そういうことを私に言いかけてくれましたよね?」
うろたえる要に橘乃が真剣な眼差しを向ける。
恥ずかしいのだろう。 頭が湯気が出そうなほど顔が真っ赤である。
「確かに言おうとはしてました。 ……が」
「……が?」
橘乃の大きな目が不安そうに揺れる。
「あなたに、先を越されてしまいましたね」
彼は、熱のこもった彼女の頬に両手を添えると、「私と結婚していただけますか?」とたずねた。




