巡り巡って 6
「え? あらら? 要さん?」
自分の顔を見るなり抱きついてきた梅宮に、橘乃は動揺を隠せなかった。
照れ屋だとばかり思っていた彼の愛情表現にしてはいささか……いや、かなり度が過ぎているような気がする。 しかも、表通りではないにしても、ここは公道である。 知らない人が沢山歩いている道だ。 それに、まだ日が高い。 それよりも、雨が降っている。 梅宮の腕の中に納まっている橘乃はともかく、このまま傘も差さずにいたら、彼が濡れてしまう。
「か、要さん、人が見てます。 それより、濡れちゃいますよ」
橘乃は、梅宮の腕の中でおたおたともがいた。 だが、橘乃がもがけばもがくほど、梅宮は彼女にしがみついてくる。
問題なのは、この状況が、橘乃にとって決して不快ではないことだった。 早くここから脱出しなければ、橘乃の方こそ恥ずかしさを忘れ、彼の腕の中で気持ちよく落ち着いてしまいそうである。 だけども、橘乃が、昼日中から人目も憚らずに男性と抱き合っていたと知れたら、姉たちは彼女のことをどう思うだろう? いいや。 姉たちの橘乃への評価など、この際どうでもよろしい。 なによりも怖いのは、彼女の父親だ。 このことが知られたら、父は彼に何かとんでもないことをするに違いない。 それより、こんな梅宮はおかしかった。 普通じゃないと言っていいだろう。 いったい何が彼を―― ……と、考えるに至って、ようやく彼女は気が付いた。
(そうだ。 いつもの要さんなら、こんなことはしない)
いつもの梅宮ならば、どんな時でも、もっと常識的に紳士的に振る舞うはずである。
「要さん?」
橘乃は抵抗をやめると、そろそろと梅宮の背中に腕を回した。 あやすように彼の背中をそっと叩くと、橘乃への拘束がわずかに緩んだ。
橘乃は、そろそろと顔を上げると、梅宮に目を合わせた。雨のせいでクセが強くなった前髪から頬へと伝っていく水滴を気にするふうでもなく橘乃の顔を見つめ返している梅宮は、なぜだかとても頼りなさげに見えた。 橘乃よりもずっと大人であるはずなのに、泣くのを我慢している子供みたいな顔をしている。
「あのぉ」
橘乃は恐る恐る彼に問いかけた。 「ひょっとして、私、何かをしでかしてしまいましたか?」
彼女の問いを肯定するかのように、梅宮が悲しげに微笑んだ。
「橘乃さんがここまで乗ってきたハイヤーですけど、僕が寄越したものではありません」
「え!?」
橘乃は目を見開いた。 「だって、あの運転手さん、要さんに頼まれたって言ってたわよ。 ホテルで急なトラブルがあったせいで、食事会の時間までに私を迎えにいけそうにないから、自分が頼まれて迎えにきたんだって。 それで、車に乗ったら、食事会の前に要さんが私に見せたいと思っているものがあるから、そこで落ち合いましょうって要さんが言っていたって言って、言って……あら?」
さすがの橘乃も、早口でまくし立てているうちに、ようやく自分が話している内容の不自然さに気がついた。
「手が離せない人なら、『見せたいものがあるから、回り道した先で落ち合いましょう』っていう伝言をしないですよね? それに、八重さんも、『なにがあっても、最優先で要さんを迎えに行かせるから待ってるように』って言ってらしたわ」
冬樹に付きまとわれている橘乃の安全を考えてくれた上での八重の発言だということは、梅宮も承知している。 何事にもそつのない梅宮のことだ。 自分が橘乃を迎えにいけないならば、彼女にとって初対面の人物が運転するハイヤーを差し向ける前に、八重から彼女に電話で知らせることぐらいはしてくれそうである。
「ごめんなさい。 軽率でした」
橘乃は、しおしおと頭を下げた。 梅宮は彼女の軽はずみな行動を非難するでもなく、今日何度目かの「無事で、よかった」を繰り返した。
「でも、要さんが、私をここに呼んだわけじゃないとすると、いったい誰が……」
『誰が彼女をここに呼び寄せたのか?』という疑問が出てくる。
もっとも、こんなことをしそうな人物として橘乃の頭に浮かぶのは、たったひとりしかいない。 梅宮が思いつくのも、ひとりだけだろう。
「やっぱり、冬樹さんなんでしょうね」
梅宮が目の前にある雑居ビルの地下への入り口に顔を向けた。 そこから数人が階段を上がってくる気配を感じて身を固くした橘乃を守るように梅宮が前に出た。 地下から現れたのは、胸元が大きく開いたサファイヤ・ブルーのロングドレスを着た30過ぎぐらいの女と、彼女の用心棒にも見える若者がふたりだった。 ふたりの若者は、冬樹の友人のようにも見える。 だが、当の冬樹がいない。 女は、地下階段の出口から突き出ている雨除けの庇の下で立ち止まると、梅宮の後に隠れている橘乃に向かって、「六条橘乃さんって、あなた?」と声を掛けてきた。
「え? ええ」
「伝言を預かっているの。 冬樹さんは、すぐに来るって。 店の中で待っているようにってことだけど……」
『どうする? 中に入る?』と橘乃にたずねるように、女が地下への階段のほうに視線を向けた。
もちろん、橘乃は冬樹の言うことをきくつもりはなかった。 梅宮の背中にしがみつきながら、彼女は震える声で「え、遠慮させていただきます」と答えた。
梅宮も、相当怒っているようだった。
「彼女を騙して連れてきたくせに、『待っていろ』ですか?」
抑揚のない低い声は、聞きなれた彼の声とは思えぬほど冷ややかだった。 「あいにくですが、彼女は連れて帰ります。 竹里冬樹さんには、『今度やったら警察に訴える』と梅宮が言っていたとお伝えください。 それとも、私のほうから彼に直接伝えたほうがいいですか?」
「なんだと、この野郎!」
「そうしてくれると、うちとしては助かるわ」と、案外に物分りがよかった……というよりも本音は関わりたくないと思っているらしい女を押しのけるようにして、ふたりの若者が、肩を怒らせてながらこちらに向かってきた。
「っていうか、お前、橘乃さんの誰なんだよ? ああ?」
変に光沢のある黒のスーツを着崩したほうの男が、ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま梅宮に凄みをきかせる。
「わかった。 あんた、橘乃さんの財産を狙って、冬樹さんと彼女の仲を邪魔しているって奴だろ。 しかし、まあ、今度の冬樹さんは随分と子供っぽい子に入れあげたもんだね。 趣味、広いなあ」
男のくせに片耳にピアスをつけている痩せぎすの男のほうは、しまりのない笑みを浮かべながら梅宮の背後に隠れている橘乃の顔を確認しようと首を伸ばした。
「ちょっと、やめておきなさいよ。 女の子が怯えてるじゃない」
梅宮の背中で怯える橘乃を見かねたのか、女が男たちをたしなめた。
だが、あまり強そうに見えない梅宮と、弱そうにしか見えない橘乃の取り合わせは、彼らにとって甚振り甲斐のある玩具かなにかに思えるようだ。 目の奥に残忍な光を宿らせつつ、男たちが、ふたりとの距離を詰めてきた。
「なあ。 そんな所に隠れてないで、こっち、来いよ。 俺たちが、愛しい冬樹さんの所に連れてってやるからさ」
片耳ピアス男のほうが、梅宮の背中から橘乃を引っ張り出そうと、手を伸ばした。 その手を、梅宮が音を立てて払いのけた。
「もしかして、あなたがたもグルですか? こんなところに彼女を連れてきて、いったい何をするつもりだったんですか?」
「なにって……」「そりゃあ、なあ」
顔を見合わせた男たちが、下卑た笑いを浮かべる。 「女なんて、結局同じさ。 どんなに清純ぶってたって抱いてしまえば、あとはこっちの言いなり……」
「最低ですね」
男たちが全部を言いきらないうちに、梅宮が吐き捨てる。
「なんだとっ!」
激高した男たちが、梅宮に襲い掛かってきた。
「すみませんが、 ちょっと離れていてください」
梅宮が、橘乃を遠ざけるように突き放す。
橘乃は悲鳴を上げた。 このままでは梅宮がやられてしまう。 周りに気を遣い過ぎて口喧嘩さえしたことがなさそうな人なのだ。 盛り場で昼間から悪ぶっているような男たちとやりあったら、彼など、ひとたまりもないだろう。
だが、気が焦るばかりで、彼女は何もできなかった。 それどころか、怖くて立っていることさえできずに、崩れ落ちるように地面にしゃがみこむ。 誰かが殴られたような倒れたような音に驚いて、反射的に目をつぶり耳も塞いだ。 体がすくんで動かない。 動くのは、日頃から鍛えている口だけだ。
(と、とにかく、できること! なんでもいいから、助けを呼ばないと!)
「助けて! 人さらい! 人殺しっ! 強盗!」
橘乃は、声を限りに叫んだ。
「落ち着いて、橘乃さん。 要なら、大丈夫だから!」
誰かが、橘乃の肩を強く揺さぶった。
「え?」
橘乃は、耳から手を離すと薄く目を開けた。 見覚えのある男が、彼女にこうもり傘をさしかけてくれている。
「しん、どう、さん、ですよね? 運転手の?」
「はい。 もう大丈夫ですよ。 ほら、あそこ」
茅蜩館のハイヤーの運転手に促されるままに橘乃が前を見ると、橘乃と梅宮に襲い掛かっていた男たちが濡れた道路の上に折り重なって呻いていた。 ロングドレスの女性が感心したように、短く口笛を吹いた。
「ねえ? それ? 合気道? 護身術?」
「どうなんでしょう? 教えてくれた人は我流だと言ってましたけど」
「けっこう強いんだよ。 彼」
ロングドレスの女に律儀に説明している梅宮を見ながら、新藤が自慢げに微笑んだ。 「ホテルには、道理のわからない客とか酔っ払って訳がわからなくなった客とかが来ることがあるからね。 こういう技も身に着けておいて損はないのだよ」
「そういう新藤さんは、もっと強いんだから、手伝ってくれてもよかったのに」
愚痴めいたことを言いながら、梅宮が地面に伸びている男たちを見下ろした。
「それで? 結局のところ、竹里冬樹本人は、ここに来るんですか? それとも、あなたたちが彼の指図でどこかに連れ込む予定だったんですか? 彼は、今、どこにいるんですか?」
答えたくないのか、それとも答える気力がないのか、梅宮の問いに男たちは沈黙している。
梅宮は腰をかがめると、最初に彼に突っかかってきたほうの男の腕をねじ上げた。 さほど力を入れていないように見えるのに男が悲鳴をあげた。
「赤坂セレスティアルだよっ!」
「間違いないですか?」
「たぶんね」
どこからか取り出した煙草に火をつけながら、気だるげな口調でロングドレスの女が話に割り込んだ。 「セレスティアルホテル赤坂のロイヤルスイート。 冬樹さんが今日ここに来るつもりがあるかどうかは知らないけど、あの人、女の子と仲良くなると、たいてい、そこに連れていくみたい」
「どうして教えてくださるの?」
もしかしたら罠ではなかろうか。 橘乃が疑いの目を向けると、女が肩をすくめた。
「どうしてって? だって、あたしの目には、あなたが本当は冬樹さんが好きなようにも、その人が嫌いでここに逃げて来たようにも、あなたたちが嘘の恋人同士を演じているようにも全然見えないから。 そっちのお兄さんだって、そうでしょう? 財産目当てで動いているだけの人には見えないわ」
女が梅宮を見て微笑んだ。 笑うとえくぼができて、大人びた顔が一気に幼げになった。
「あなたたちを見てれば、これまで聞かされてた話が出鱈目だってこと、あたしがいくら馬鹿でも、わかるわよ。 それに、あなたの目には胡散臭げな場所にしか見えないかもしれないけど、うちの店は安全と健全をモットーとする大人の夜の社交場なの。 いくら金離れのいい客だって、犯罪者はノーサンキューよ。 ねえ、これからセレスティアルに乗り込むつもりなの」
女が心配そうに眉を寄せた。
「そのつもりです。 いい加減にケリをつけないと、冬樹さんが話をややこしくするばかりですから」
しっかりとした口調で答える梅宮に合わせて、橘乃も大真面目な顔で女にうなずいてみせた。
(もう我慢できない!)
金輪際冬樹に煩わされることがないように、彼に言ってきかせてやらなければ!
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……と、橘乃が意気込んでいたにもかかわらず、梅宮は、単独で冬樹に会いにいくつもりであったらしい。
「橘乃さんは、このまま新藤さんにお家まで送ってもらってください」
茅蜩館専属のハイヤーに乗り込むなり、彼女は梅宮に『お願い』された。
もちろん、橘乃は彼の言うことを聞くつもりなどなかった。 だが、梅宮も譲らない。
「お家の人が心配していますから、早く戻って元気な姿を見せてあげてください」
「さっき公衆電話で元気な声を聞かせたから、大丈夫ですよ」
橘乃は頑固に言い張った。
ついでに言うと、いつも鷹揚な母親の美和子が電話口で怒り狂っていた。 家に帰ったら、橘乃は、美和子を含めた6人の母親と3人の妹によって、全方向から叱られることになるだろう。 そう思うと、帰るのが恐ろしくもあった。
「でも、危ないかもしれないから」
「危ないかもしれないのは梅宮さんも同じです。 それに、大丈夫ですよ。 梅宮さん、強いもの」
「あの人たちには油断があったんです。 それに、そもそも、それほど強くない人たちなんですよ。 僕のは、仕事のために身に着けた護身術ではなく、浩平を連れて帰るのに一時的に頑張って身に着けた程度の喧嘩技でしかないんです。 アテにされても困ります」
「え? 浩平さんを連れ戻すって?」
「それは、あれですよ。 浩平が中学生にの時に、自分の生まれというか自分の置かれている立場に嫌気が差して、グレて家出同然の状態で悪い仲間とつるんでいた時があったんですよ。 それで……って、話を逸らさないでくださいっ! とにかく、あなたは留守番! お願いですから、これ以上僕の心配を増やさないでください!」
「私だって、あなたが心配なんです!」
橘乃は負けじと言い返した。 「独りで行って、怪我でもしたら、どうするんですか。 それに、これは、そもそも私が撒いた種なの! 私が解決すべき問題なの! あなたは、巻き込まれただけで……」
「好きで巻き込まれたんだからいいじゃないですか!」
梅宮が、いままで橘乃が聞いたことがないような大声を出した。 「これは既に、橘乃さんだけの問題じゃありません。 僕の……僕たちの問題でしょう!」
「え? 『僕たち』って……」
「え、ええと。 そういうことでは、ダメでしょうか? 僕では、いけませんか?」
途端に弱気になった梅宮が不安げに橘乃に問いかける。 「僕は孤児で、橘乃さんのお姉さまたちの旦那さまや、あなたのお友達の旦那さまになるであろう人たちと比べたら、ずっと劣っているかもしれない。 そのせいで、あなたに引け目を感じさせてしまうこともあるかもしれない。 それに、冬樹さんほど恰好よくもなければ、洋服のセンスもよくないし、仕事馬鹿で、女の子が喜びそうな流行りの店とか、気の利いたセリフとか、そういうのは全然わからなくて……」
「冬樹さんと比べるの、やめてください」
ムッとしながら、橘乃は梅宮の告白を遮った。 「私、他の誰とも要さんを比べる気はありません。 というより、誰と比べても、要さんが劣っているなんて思わないわ。 でも……」
『橘乃さん! 要! 助けて!』
突然、無線からの音声がふたりの会話に割って入った。
ずいぶんと音が割れているが、辛うじて女性の声だとわかる。
「今の、輝美さん……の声?」
『お願い! 赤坂のセレスティアルに行って! 六条さんを止めて! 秋彦さんを助けて!』
顔を見合わせる二人に向けて、無線の声が必死で訴えかけてくる。
「六条さんが、セレスティアルで何をしているんですって?」
「お父さまが、輝美さんの旦那さまに何をしようとしているんですって?
「どうやら、ふたりとも冬樹さんの所に行かないわけにはいかないようだね」
それまで、若いふたりのやり取りに耳をそばだてながらも運転に専念しているフリをしていた新藤が、ハンドルを切った。 まもなく見えてきた光景に、車に乗っていた3人は唖然とした。
「……。 なに、あれ?」
「これは、いったい……」
「おいおいおいおいおい……」
土砂降りに変わった雨の中。
冬樹がいるはずのセレスティアルホテル赤坂は、黒いスーツにサングラスをした大量の男たちと艶光りする大量の黒い車、そして、黒服黒車と同じぐらいの数の作業着を着た男たちと大型の工事車両によって完全に包囲されていたのである。




