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誕生日には歌を  作者: 風花てい(koharu)
39/86

恋の障害 8

3日ぶりに橘乃が帰宅してみると、妙なことになっていた。


「おかりなさいませ! 橘乃さま!」

 まずは帰宅初日。 門前までタクシーで乗り付けた彼女は、見慣れない若者によって迎えられた。 


 彼の声を聞きつけて、そこかしこから、わらわらと男たちが集まってくる。 その数、およそ30人。 年の頃は、大学生かそれよりも少し上に見るものがほどんどであろう。 服装も、カジュアルなものが多い。 

 襲われる危険を感じて身を強張らせた橘乃ではあったが、そんな心配はいらなかったようだ。 若者たちは、タクシーを降りた橘乃よりも5メートルほど離れたところでピタリと立ち止まると、朗らかな笑顔で一斉に「おかえりなさい」と彼女に声をかけてくれた。


「た……ただいま帰りました?」

 困惑しながら、橘乃は、群衆の中から手を振ってくれている男性に応じて振った。 すると、まるで餌を投げ込まれた池の鯉のように若者たちが活気づいた。 大きなレンズがついたカメラをこちらに向けてくる者もいた。

「本人の許可を取らずに写真を撮るのは禁止だって、何度も言っているだろう!」

 最初に出迎えてくれた若者が、撮影者に向かって、すかさず声を上げる。

「フィルムを没収しろ!」

 誰かが声を上げると同時に沢山の手が一斉にカメラに向かって襲い掛かった。 ほどなく、撮影者の叫び声と共に、引っ張り出されたセピア色のフィルムが宙を舞った。 



「気になさることないですよ」

 ビックリしている橘乃に、最初に出迎えた男が笑いかけた。 この尖った顎を持つ目のクリクリした男性と、彼女のスーツケースを持ってくれた背の高い男性だけは、他の男たちよりも橘乃の近くにいることを認められているらしい。 橘乃は、ふたりのうちのどちらにも見覚えがある……ような気がした。 

 

「ありがとう。 ねえ。 間違っていたらごめんなさい。 少し前に私を訪ねてきてくださった方かしら? その…… 結婚を申し込みに」

 背の高い男のほうに橘乃が自信なさげに訊ねると、彼だけでなく橘乃を先導していた尖った顎の男も、「覚えていてくれたんですね?」と目を輝かせた。


〇 ● 〇 ● 〇



「あの人たちは…… う~ん、ファンクラブのようなもの、なのかしらねえ」

 橘乃を家の中に迎え入れた紫乃の実母の綾女は、彼らが何者なのかを未だに判じかねているようだった。


「ほら。橘乃ちゃんが茅蜩館に出かける前に、あの人たちに向かって『あなたたちと結婚する気はない』って伝えに行ったでしょう?」

 どうしてだかは知らないが、彼らは、その時の橘乃の対応に感じ入ってしまったらしい。 結婚してくれなくてもいいから橘乃に会いたいと、あれから毎日のようにやってくるのだそうだ。


「迷惑ですからお帰りください、と言ってはみたんですよ」

 すると、彼らは、こちらの迷惑にならないように、自主的にルール作りを始めたそうだ。 

 その時に中心になって動いていたのが、橘乃を玄関まで連れてきてくれたふたりであるという。 

 その後の彼らは、六条家に迷惑を掛けそうな者を自分たちで取り締まるようになった。 そればかりか、持参金の噂を聞きつけて次々にやってくる新参者の応対もしてくれるようになった。 


「おかげで、こちらも助かっているの。 だから、むげにもできなくて……」

 綾女は様子をみることにしたのだそうだ。 彼ら追い払ったところで、どうせ別の男たちがやってくるだけ。 彼らが来訪者の応対を引き受けてくれるのであれば、執事や葛笠の手間が省けるだろうという打算もないわけではなかった。


 しかしながら、 六条家には橘乃以外に妹が3人も住んでいる。 ついでに、源一郎の6人の妻たちは、いずれも美女である。 また、男たちの中には、実家に立ち寄った美しい姉たちをたまたま見かけた者もいた。

「どうやら、他の子にもファンがついてしまったようなのよねえ」

 綾女によると、橘乃が不在であったにもかかわらず、門前にたむろする若者は日に日に増えていったという。


「お父さまは、なんて?」

 橘乃はたずねた。 娘を狙う男どもが家の周りをウロウロしているのだ。 源一郎が心穏やかでいられるはずがない。

 だが、橘乃の予想は外れた。

「放っておけばいいって。 残っているのは休みで暇を持て余している学生ぐらいだろうから、夏が終わる頃には、ここにいることにも飽きるだろうって言うんですよ。 『男には、そういう時期もある。 流行り病みたいなもんだ』って」

 源一郎の言うことが気に入らないのだろう。 紫乃の母は柳のような弧を描く綺麗な眉をわずかにひそめた

「源一郎さんは源一郎さんなりに、何か考えがあるようなのだけど。 でも、知らない人に庭先をうろつきまわられるのは……」

「そうよね。 好い気持ちはしないわよねえ」

 何事にも奥ゆかしい綾女の気持ちに寄り添うように、橘乃がうなずく。


 とはいえ、彼らは、全体として見れば、邪魔にするのが申し訳ないほど役に立ってくれていた。 妹や母たちを隠し撮りするしようとする人がいれば阻止してくれるし、抜け駆けして橘乃や妹たちへのアプローチを仕掛ける者が現れれば、体を張って守ってくれもした。 騒音をまき散らすこともない。


 一度だけ、5女の夕紀の臆病さを知らない男が彼女をひどく怯えさせたことがあった。 

 もしもこれを父が知ったら、彼らは根絶やしにされたかもしれない。 だが、たまたま訪ねてきていた兄の学生時代からの友人が、夕紀を救ってくれた。 そればかりか、彼は、彼女を後ろ手に庇いながら『橘乃さんの縁談に口を挟む立場にはないが、ここで静かに暮らしている女性たちを無暗に怯えさせるような輩は恥を知るべきだ』と意見してくれた。 同年代の若者から正論をぶつけられたことで、彼らは彼らなりに反省してくれたらしい。 それまで以上に六条家に住まう者たちに気を遣い、紳士的な行動を心掛けてくれるようになった。

 若者たちが大幅に態度を改めてくれたことで、母たちは安心したようだ。 

 表をウロウロしているのは正体不明のヒッピーもどきではなく話せばわかる青年たちだと認識した彼女たちは、彼らに少しずつ気を許していった。 

 紫乃の母は、「暑気あたりでも起こしたら、大変だから」と庭に日よけのテントを設置させ、冷えた麦茶と軽食を振る舞うことにしたし、紅子の母も、気まぐれに庭に赴いては手持ち無沙汰にしている若者と話をするようになった。 

 女たちからの親切の返礼にと、若者たちの幾人かは、梅雨明け以来目立って伸びてきた草むしりを買って出てくれた。 犬を洗ってくれたり、散歩を引き受けてくれる者もいた。

「まさか、源一郎は、こうなることを予想していた。 ……わけないわよね」と、明子の母に言わしめるほど、橘乃の帰宅から3日も経つ頃には、彼らの存在は迷惑どころかありがたいものになりつつあった。 そして、そんなことになったのは、竹里冬樹のせいでもあった。


 あれだけ父に叱られたにも関わらず、冬樹は挫けていなかった。 むしろ、父が橘乃を遠ざけたことが、彼のやる気に火をつけたようだった。 

 最初は気まぐれで近づいてきたようにしか見えなかったのに、今の冬樹は、人が変わったような熱心さで橘乃に言い寄ってくる。 


「お気持ちは嬉しいです。 でも、ごめんなさい。 私、あなたとお付き合いするのは、ちょっと無理かな……と思うんですよね」

 最初に冬樹が六条家の門前まで車で橘乃を迎えに来た日、人の気持ちを傷つけるような物言いが苦手な橘乃は、なるべく角の立たない言葉を選んで冬樹との付き合いを拒絶した。

 しかしながら、婉曲な表現は冬樹に伝わらなかったようだ。

「そんなことはないさ。 確かに、君は色気に欠けるし、良い子すぎて退屈なところもある。 でも、君の家柄も考慮に入れれば僕と釣り合わないほどじゃないから、卑屈になることはないさ。 それに、発展途上のお嬢さまを育て上げるっていうのも面白いと思うんだ。 僕が、君を女にしてあげるよ」

 橘乃は彼を拒絶しているのに、彼は彼女が遠慮しているのだと勘違いしているらしい。 

 甘ったるい眼差しと声で冬樹に誘い掛けられて、さすがの橘乃も、愛想笑いで彼から逃げ切るのは難しいと思い始めた。


「だから、断る時にはハッキリキッパリお断りしなさいって、言ったでしょう?! 紅子ちゃんに託した伝言を聞かなかったとは言わせないわよ!」

 屋敷の警備をしてくれている若者たちの助けも借りてどうにか冬樹を帰らせた後、橘乃は、明子の母からこっぴどく叱られた。 

「いいこと? ああいう育ちがよくて何不自由なく我がままし放題で育てられた人の中には、自分の意にならないことが此の世にあることさえ知らない人が――そういう現実があるということにまで想像が及ばない人が、少なからずいるの!」

 欲深い父親の手引きで無理矢理金持ちの妾にされそうになった過去を持つ女性の言葉には、重みと凄みがあった。 


 また、おちぶれた美貌の華族令嬢であった時に多くの男性から《援助》と引き換えの結婚を求められたことがあるという紫乃の母から、「誤解を生まない言葉ではっきりと断らないと、あの方、いつまでも橘乃ちゃんに付きまとうかもしれなくてよ」とも脅されて、橘乃は怖くなった。

 

 しかも、娘が叱られるのを横で眺めているだけかと思っていた実母の美和子までもが、「あの人の精神年齢は、玩具をねだる子供と大差ないわね。 あの分だと、手に入れるまで諦めないんじゃないかしら。 ならば、さっさと冬樹さんのものになってしまうという手もあるわね。 あの手の男は飽きっぽいから、くっついちゃったら、すぐに別れてくれるかもしれないわよ」と、ひどく無責任なことを言うものだから、橘乃はいよいよ焦った。

 

「でも、もう遅いかもねえ」という紅子の母の予言めいた言葉は、橘乃を恐怖に陥れ、次なる行動へと駆り立てた。


(好きでもない男性から離れるためにあえて交際してみるなんて、絶対に嫌!)

 しかも、交際後に冬樹が橘乃に飽きて離れてくれる保証は、どこにもない。


 翌朝、またしてもやってきた冬樹に向かって、橘乃は、今度こそ「あなたと結婚するつもりもなければ、お付き合いするつもりはない」と、はっきりと告げた。 

 だが、紅子の母が警告したとおり、もう遅かったようだ。 


「お父さんに、そう言えって命令されたのかい?」

 またしても、冬樹は誤解した。 その後は、橘乃が何を言っても無駄だった。 

「君は良い子だもんな。 お父さんの言うことはきかなくてはいけないものと頑なに信じている。 お父さんの意向に逆らうのが、怖いんだろう?」と、彼は勝手に橘乃の気持ちを斟酌した挙句、「でも、結婚するのは僕たちであって、お父さんじゃない。 君は自分の気持ちを誤魔化さなくてもいいんだ。 大丈夫、何があっても僕が君を守るから」と諭された。


「そうじゃないの。 違うの」

 橘乃は必死になって、彼に自分の気持ちを伝えた。 彼の心を傷つけることまではしたくないと思いながらも「あなたが嫌い」だとハッキリ告げもした。 

 だが、彼に彼女の言葉は通じなかった。 橘乃の言葉は全て、彼女が父親の命令に従うための方便だとみなされた。 

「あの男、自分がフラれるって概念がないんじゃないかしら」というのが、末妹の月子の見立てであった。


 とはいえ、冬樹には伝わらなかった橘乃の本心は、彼女と六条家の女たちを守る《にわか橘乃ファンクラブ》の面々にはしっかりと伝わった。

 しかも、冬樹は、歴史と品格のある茅蜩館ホテルでさえ、『ボロっちい安ホテル』だとこき下ろしてのけた御仁である。 そして、最高の男を自負する彼の目に、《橘乃ファンクラブ》の面々はモテない雑魚男の群れにしか見えなかったようだ。

 冬樹が彼らを見下しているのは、誰の目にも明らかだった。 彼の視線や言葉の端々には、彼らへの侮蔑が滲み出ていた。 それがまた、ファンクラブの怒りを買った。


「帰れよ。 橘乃さんは、あんたと付き合う気がないってさ」


 冬樹を《敵》だと認定した男たちは、数を頼みに強引に冬樹を車の中に押しこめ、来た道を戻らせた。 そして、その後は、門よりもずっと下方にある六条家の私道の入り口に見張りを立て、彼の来訪を徹底的に阻止しようとした。


 それでも、冬樹は諦めない。 むしろ、歯牙にもかけたことがない男たちから侮辱的な扱いを受けたことで、更にムキになったと思われた。

 その後から翌日にかけて、橘乃あての電話が頻繁にかかってくるようになった。 贈り物も、引っ切り無しに大量に送られてきた。 

 受話器を上げっぱなしにしても、『もらういわれはないから』と運送屋に持って帰らせても、彼はしつこかった。 一度など、茅蜩館で見かけた彼の秘書が、ファンクラブの面々を騙して玄関先までやってきて、橘乃を連れ出そうとしたこともあった。


「ここまでするなんて、あの冬樹って男は、どれだけ暇人なのよ!」

 橘乃の帰宅から5日を経過した頃、静かな生活をぶち壊しにされた母たちの怒りは心頭に発した。


「でも、ここまでされると不気味よねえ」

「警察を呼んだほうがいいんじゃないかしら?」

「それより、源一郎さんに相談しましょうよ。 あの人、冬樹さんにここまでされているって、まだ知らないでしょう? 知ったが最後、彼を許しておかないわよ」

 月子の母の言うとおり、父はまだ、冬樹の求愛行動に気がついていないようだった。 先日怒鳴られたことで警戒しているらしく、冬樹の橘乃へのアプローチは、今のところ、父がいない日中に限られているからだ。 


「でも、ここまでされているからこそ、お父さまに知らせるのは、かなりまずいんじゃないかしら?」

「そうよねえ。 本当のことを知ったら、お父さま、怒りに任せて冬樹さんを殺しちゃうかもしれないし……」 

 源一郎を殺人犯にするのはマズイだろうと、妹たちが首を振る。 

 梅宮が六条家にやってきたのは、どうにかして冬樹に橘乃を断念させる手立てはないものかと女たちが頭を悩ませていた頃だった。



〇 ● 〇 ● 〇



 橘乃に会おうと決めた休日の2日前の夕方。 

 デートに連れ出すにしても家を訪問するにしても、まずは相手の意向を確認するべきであろうと、要は橘乃に電話をすることにした。


 居間の電話の前で正座をし、緊張しながら六条家の電話番号をプッシュする。 すると、すぐに話し中であることを示す信号音が聞こえてきた。

 しばらく待ってから掛け直してみたものの、やはり話し中である。 

「女性が多い家だからな」

 六条家の娘たちが順繰りに長電話をしている様子を想像して、要は苦笑いを浮かべた。 


 その後、要は時間を置いて六条家に電話をしてみたが、またしても繋がらなかった。 何度か試しているうちに、電話をかけるにはふさわしくない程度に夜が更けた。

 翌日。 橘乃の妹たちが学校に行っているであろう午前中を狙って再度電話をしたが、この時も話し中であった。 ここまで電話が繋がらないのは、おかしい。 『そのうちに掛かるだろう』と呑気に構えていた要も、さすがに訝しく思い始めた。


「受話器が外れているのに、気がついていないんじゃないのかね?」

 居間に何度も電話しにやってくる要を眺めていた八重も、心配になってきたようである。

「電話局に訊いてみたほうがいいかねえ。 そういうことを調べたうえで、向こうに知らせてくれるサービスがあったはずだろう。 ええと、何番だったかねえ……」

 八重が分厚い電話帳を調べ始める。 そんな時、連絡を取りたいと思っていた当の家の主――六条源一郎が、若い男を従えて入ってきた。 男の年頃は、いつもの秘書の葛笠と同じぐらいに見えた。 だが葛笠よりも彼のほうがずっと細身で血色も悪かった。 表情も暗く荒んでいて、要や八重に向ける目つきに明らかに警戒の色がある。 『騙されるものか』とその目は語っていたが、八重も要も、誰彼かまわず発している彼の敵意をあえて無視した。 こんな顔をしている者が八重の居間に連れて来られるのは、珍しいことではない。 こちらが怪しめば男は更に敵意を募らせるだろうし、同情や労わりの言葉をかければ更に頑なになるであろうことを、要は、これまでの経験から知っていた。


 まずは友人の位牌が納められている仏壇にお参りしてから、源一郎は八重に要件を切り出した。 


「彼を、ここでしばらく使ってやれないか?」

 源一郎の依頼は、要の予想どおり。 「ようござんすよ」と軽い口調で応じた八重の返事も予想どおりである。 というよりも、要は、彼女がこれ以外の返事をするところを見たことがなかった。

 だが、安易に引き受けたように見える分だけ、引き受けた後の八重は厳しい。 

「どういう事情があるのかは知らないし聞く気もないが、私らは、お前さんに過去に同情する気もなければ、甘やかす気もない。 良くも悪くも、他の者と同じに扱う。 いいね?」

 ちんまりと正座した八重が、源一郎によって前に押し出された男に向かって、顎を突き出しながら話しかける様子は、業突く張りの遣り手婆のようだ。


「返事は?」

「……。 はい」

 小さな声ながらも男が返事をする。 すると、祖母は「結構」と言いながら顔をほころばせ、いつもの人のよさそうな話好きの老婆に戻った。 しかも、今「聞かない」と言ったばかりなのに、「じゃあ、あんたの身の上話でも聞かせてもらいながら、具体的な話を詰めるとしようかねえ。 ああ、もちろん、話したくなかったら話せるところだけでいいからさ」と、彼のための座を示しつつ、いそいそと茶を入れ始めた。 要の分の茶も入れているところをみると、どうやら彼も同席しなけれなならないようだ。


「じゃあ、よろしくな」

 話しがついたと判じた源一郎が、軽く手を上げて今から出ていこうとする。

「ああ、そうだ。 六条さん」

 八重が源一郎を呼び止め、六条家に電話が繋がらないことを告げた。

 

「それならきっと、電話線を引っこ抜いたか、受話器を上げているんだろう。 俺が橘乃に持参金をつけて以来、変な奴が屋敷の周りにたむろするわ、電話が引っ切り無しにかかってくるわで困っているって綾女がこぼしていたからな。 なんだ、橘乃に連絡を取りたいのか?」

 苦笑いを浮かべながら源一郎が要にたずねた。

「明日、会いに行きたいって? そういうことなら直接行けばいい。 家の者には、俺が話しておくよ。 うちは、わかるな?」


 もちろん、要は知っていた。 六条家といえば、1万分の1程度の縮尺の地図でも場所が確定できるほどの大きさがある。 行ったことはなくても迷うことはあるまい。

 ……と甘く考えていたのがいけなかったのかもしれない。 要は、六条家の近くまで来てから道に迷ったようだった。 目指した場所だと思われる所に建物の影らしきものは見当たらず、立ち入りを禁ずる金網でぐるりと囲われた雑木林があるばかりである。 だが、地図をいくら見直しても、要が正しい道を辿っていることは間違いないように思われた。


「……ということは、これが六条家?」


 蝉しぐれが降りそそぐ雑木林を見上げる要の背中を、夏らしくない冷たい汗が伝っていく。 

 もしかしなくても、ここは茅蜩館ホテル東京の敷地よりも遥かに大きい。 

 なるほど、六条家というのは相当な大金持ちであるわけだと、要は視覚的に心の底から納得した。 これだけの大富豪だからこそ、源一郎自身は茅蜩館に金銭的な魅力を感じることなく気前よく娘の持参金にできるのだろうし、旧財閥の中村本家や紡績業で財を成した喜多嶋紡績とも縁組できてしまうのだろう。


(その点、自分は?)

 

 要は、今さらながら尻込みしたくなってきた。 茅蜩館も、親に捨てられた孤児である自分も、姉たちの嫁ぎ先と比べると見劣りすること甚だしい。 橘乃は、そんな所に嫁いでも平気なのだろうか? あとあと惨めな気持ちになったりしないだろうか?  


(いやいや、僕はともかく、茅蜩館は大丈夫だから!)

 湧き上がってくる劣等感をどうにか抑え込むと、要は、前に進むことにした。 

 ともかく、今は自分を卑下しないこと、そして、屋敷への入り口を見つけ出すことが先決である。


 とりあえず雑木林を一周する気で歩けば入り口が見つかるはずだと、要は林を左手に見ながら歩き続けた。 

 10分ほど歩いたところで、要は、前から走ってきた大学生ぐらいの男性5人に、「そこの君!」と呼びかけられ、あっという間に取り囲まれてしまった。

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