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誕生日には歌を  作者: 風花てい(koharu)
31/86

厳しい理想と甘い現実 9

 もしかしたら、すっぽかされたのかもしれない。 

 だが、『侮辱された』と怒り出す前に、落ち着いて考えてみるべきこともあるだろう。例えば、ここに出向く直前に急な仕事が入ったとか。あるいは、ここに向かう途中で渋滞に巻き込まれたとか。渋滞ではなく事故に合ってしまった可能性だってないとはいえない。だとしたら一大事だ。


 冬樹と約束した時間から15分。時計と睨めっこをしなから怖い想像ばかりしすぎて独りでいることに耐えられなくなってきた橘乃は、客室を出てロビーに向かった。

 冬樹を迎えるためだろう。出入り口のすぐ近くでは、総支配人の貴子と梅宮が並んで待機していた。彼らが橘乃と同じように約束の時間よりも早めに冬樹を待ち始めていたのだとしたら、30分近くあそこで立ち続けていることになる。そのためかどうかはわからないが、梅宮は虫の居所が悪いようだった。 「橘乃さん、降りてきちゃったんですか?」と問いかける声も心なしか尖っている。「ごめんなさいね」と橘乃が謝ると、困ったことに、彼は、ますます不機嫌になった。


「橘乃さんが謝る必要は全くありません。というよりも、待たされているのは、あなたじゃないですか?」

「そうかもしれないけど、梅宮さんは怒ってらっしゃるみたいだし、冬樹さんと食事の約束をしてしまったのは私ですもの」

「私は待たされているから怒っているわけじゃありません」

 ロビーで立ちっぱなしなど苦でもなんでもないと梅宮は言う。昨晩の梅宮は『僕』と自分のことを呼んでいたが、勤務中だから、今は『私』だ。けれども、昨夜の気安さも多少は残っているようだ。

「女性を待たせるのなら、それなりの礼儀というものがある。個人的に、そう思っているだけです」

 傍に寄ってきた彼女にやっと聞き取れる程度の小声で、むっつりと彼が言った。


「でも、来たくたって来れないことだってあるでしょう? 仕事で抜けられないとか、渋滞に巻き込まれたとか、事故だったり……」

「今回に限って言えば、その心配はないようです」

 梅宮が、フロント近くのソファーで新聞を広げている男に目をやった。神経質そうにみえる銀縁メガネの若い男性に、橘乃は見覚えがあった。昨日、冬樹につき従っていた山辺という男だ。

「時間通りに到着なさった秘書の山辺さんのお話では、仕事は終わっているし、遅れはするけれども必ず来るとのことですから」

「え? それは、どういう?」

「王子さまは、お召替えに時間がかかるんだそうですよ」

 穏便な説明で済ませようとする梅宮に焦れたように、貴子が話に割り込んだ。こちらは、明らかに冬樹にもその秘書にも良い感情を持っていないようで、「『よくあることです』ですって。いったい何様なんだか」と、吐き捨てるように言った。


「総支配人。お客さまのことですよ」

「でも、茅蜩館にとって、橘乃さんはもう身内も同然だもの」

 軽口を諌める血の繋がらない息子に、貴子が言い返す。 

「王子さまにとって不都合な情報を橘乃さんに知らせないまま他人事を決め込むほうが、不義理だわよ」

「それは、そうかもしれませんが…… ああ、到着されたようですね」

 ドアの外に車が止まったのを確認した梅宮がホッとしたような顔をし、貴子共々姿勢と顔つきをを改めた。橘乃も慌てて背筋を伸ばす。だが、ドアマンに先導されて入ってきた冬樹を見るなり、彼女は、取り澄ました顔をするのも忘れて、無遠慮な視線を冬樹に注ぐことになった。


(『着替え』っていうから、レストランのドレスコードに合わせた正装でもしてくるのかと思っていたけれども……)


 もっとも、冬樹が身に着けている三つ揃いのスーツは、日本で一般的に着られている背広よりも正統ではある。それに、今は夏だから、彼が帽子を被っているのも決して不自然なことではない。

 だが、蒸し暑い日本の夏に、あえてベストがついた三つ揃い。しかも、色が白。ついでに、既に日が暮れているのに片目が隠れるほど目深に被ったパナマ帽。 ……と、くれば、今思い浮かぶのは、ただひとつ。最近テレビなどで頻繁に放送されている流行歌を歌う某人気男性歌手のステージ衣装である。  


(冬樹さんったら、なんだってまた、こんな格好をしてきたのかしら?)

(でも、冗談のつもり……ではないのよね? ここは笑うところではないわよね?)

 などと、彼女にしては真っ先に失礼なことを考えてしまったのは、つい先日、彼女の父親が同じような恰好をして娘たちの前でふざけていたからに他ならない。

 しかしながら、ふざけていても、六条源一郎は真正の伊達男。同じ出で立ちでも、悪ふざけの一環でしかなくても、父のほうが目の前の男よりも板についていた。 同じ格好をして歌っている人気歌手については、冬樹と比べるまでもないだろう。 


(冗談でないとしたら、ここは誉めたほうがいいのかしら?)

 だが、相手に気に入られるために心にもない世辞を言うのは、どんなに些細なことでも自分が『素敵』だと思ったことならばためらわずに全力で褒め称えてきた橘乃のポリシーに反する。 


「やあ」

 戸惑う橘乃に、片手を上げながら冬樹が微笑みかけた。 

 ジゴロでも気取っているのか、口の片側だけを器用に曲げた笑顔だ。これも、残念なことに、わざとらしすぎた。 


(なかなか素敵なお顔をしてらっしゃるし、お洋服も似合ってはいると思うのだけどねえ)

 なまじ冬樹に期待していただけに、返す返すも残念である。とはいえ、勝手に期待を膨らませて盛り上がっていたのは自分だ。思っていたのと違っていたからといって失望を顔に表すのは相手に対して失礼だろう。橘乃は、力ない微笑みを冬樹に返しつつ、チラリと横を盗み見た。他の者たちが冬樹にどのような印象を持ったのかが気になったのだ。 

 さすがプロだというべきか、動揺を隠しきれない橘乃とは違い、茅蜩館ホテル東京総支配人と将来の総支配人は、冬樹の仮装など全く目に入っていないかのように落ち着き払っていた。

 特に、貴子の態度は称賛に価した。ついさっきまで怒っていたのに、「お待ち申し上げておりました」と頭を下げた貴子の声には温かみさえあり、皮肉や嫌味は微塵も感じられなかった。 

 散々待ってもらった彼らに謝ることもせずに鷹揚にうなずいただけの冬樹を見て、橘乃の彼へのガッカリ度が著しく更新されても、彼に向けられた貴子の微笑みが陰ることもなかった。

 

 貴子の挨拶の後、橘乃と冬樹を本館2階のレストランまで案内してくれた梅宮もまた、非常に我慢強かった。

「茅蜩館ってさあ。ワン・パターンっていうの? いつ来ても代わり映えしなくて、つまんないよね。でも、こんな化石みたいなボロいホテルでも、歴史があるってだけで、うちのホテルよりも格上扱いされるんだから、世間の価値観なんていい加減なものだと思わないかい?」

 道すがら自分たちのホテルを冬樹に貶されても、梅宮は、愛想の良い相槌を打ち続けた。 しかも、「竹里さまが手掛けてらっしゃるセレスティアルホテルリゾートに比べると、わたくしどものホテルは、たしかに古うございますし、見劣りがするかもしれませんね」と、笑みを浮かべながら謙遜してみせたりもした。それどころか、レストランの入り口で冬樹の帽子を預かろうとして、「わからないかな? これはファッションなんだよ」と馬鹿にされても、梅宮は、ひたすら低姿勢に冬樹の意向に沿った接客をしていた。

 

(ここまで言われっぱなしになることないのに。怒ったっていいのに)

 梅宮がホテルを大切にしていることも誇りに思っていることも知っている橘乃は、イライラを募らせたが、レストランでは他の客も食事を楽しんでいる最中である。自ら騒ぎを起こすような真似を梅宮ができるはずがないことも、橘乃にはわかっていた。


(客商売って大変なのねえ)

 冬樹に追い立てられるようにして離れてった梅宮の背中に、橘乃は同情的な視線を向けた。 

 客がホテルで過ごす時間を少しでも楽しいものにしてもらうために、梅宮もスタッフも頑張っている。ならば、ここで橘乃が頑張らなくて、どうするのだ?


(武里グループとは、この先もお付き合いしていかなくてはいけないのだもの。あと2時間か3時間の辛抱よ)


 心の中で気合を入れると、橘乃は、竹里冬樹に笑顔で向き合った。


--------------------------------------------------



 橘乃と冬樹がテーブルに着席するのを見届けた要は、顔に微笑みを張り付けたまま、来た道を早足で戻り始めた。 


「食事中は……」


 一階に降りる階段に続く廊下を歩いている途中、会釈してすれ違った客の数組が充分に遠ざかったことと前方に客の姿が見当たらないことを確認した途端に、喰いしばった要の歯の間から声が漏れた。 続く「帽子を取れ!」という言葉は我慢しきれなかった。ついでに、手近な壁に八つ当たりしたい衝動にも駆られたが、殴りつける直前で彼は思いとどまることができた。目の前の壁は、木板だ。下手に凹ませたら簡単には直らない。壁一枚といえども、自分たちは、そんなふうに何十年も大切に扱ってきた。  


 要は、小さく息を吐くと、姿が映り込むほどに磨き上げられた壁に優しく触れた。

「ボロくなんて、ないよ」

 壁に向かって、慰めるように話しかける。「クラリッジだって、リッツだって、サヴォイだってブラウンズだって、古いけどボロじゃないだろう? うちも同じだ」 

 歴史あるホテルや建物―― 例えば、ベルサイユ宮殿やサンピエトロ寺院をボロ呼ばわりする奴がどこにいる? あの男は言葉の使い方を知らないのだ。 


 唯一の救いは、橘乃が冬樹の言っていることに賛同しているように見えなかったことだ。彼女は、建て替えることを残念がるほど茅蜩館を好いてくれている。あの男が、どんなにエラそうな顔で茅蜩館をこき下ろそうと、彼女は聞く耳を持たないだろう。 

 

(でも、人が好すぎて、他人の考えを真っ向から否定できない人だから、これからの数時間は、彼女にとって、かなり苦痛だろうな)

 ……と、ここに至って、彼はようやく、橘乃独りを厄介事の渦中に置き去りにしてきたことに気が付いた。


(でも、冬樹さんと約束していたのは橘乃さんだしな)

 いくら梅宮が冬樹に強い反感を抱いたとしても、彼女の代わりに会食をぶち壊しにするわけにはいかない。橘乃だって、そんなことを望んでいないだろう。


(それに、彼女が冬樹さんを気に入らないとも限らない)

 どこぞの歌手の物真似のような恰好をしてきた冬樹を思い出しただけで、要は胃のあたりがムカムカするのを感じた。確かに、あの歌手は非常に女性に人気がある。しかしながら、ああいう格好が似合う男性にも、女性は心惹かれるものなのだろうか? 橘乃は、どうなのだろう? 結構ミーハーなところがある女性のようだから、もしかしたら……ということもある。


(ちょっと様子を覗いてみるか)


「あ! いたいた!」

 来た道を再び戻りかけた要を呼び止めたのは、貴子だった。これから会議だという。 

「これからですか? どこで?」

 そんな予定があることを、要は聞かされていなかった。しかも、合流した貴子が歩き始めた方向は、まさに要が進みたかった方向と同じである。しかしながら、そちらにはスタッフが会議をするような場所はない。あるのは、橘乃が冬樹と食事をしているレストランとその厨房、それから10~20人程度の会食を想定した個室である。


「食べながらの会議ってことですか? こんな時に、そんな悠長なことをしていていいんですか?」

「『こんな時』って、どんな時ぃ?」

 ニヤニヤしながら貴子が要に問いかける。

「それは、その……」

「橘乃さんのこと、気になる?」

 要の反応に気を良くしたように貴子が微笑んだ。「じゃあ、これから何を見ても怒らないでね」

「怒るって、僕が? いったい何の会議なんですか?」

「会議の議題?」

 困惑しながらも後を追う要に、貴子が思わせぶりな笑顔を向けた。


「新しくなるホテルに設置する防犯カメラの比較検討会よ」

 ちなみに、会議の主催は茅蜩館ホテルではなく、ホテルの建て替えを担当する六条建設なのだそうだ。 

 呼びかけ人は、六条和臣。すなわち、橘乃の腹違いの兄である。

 

 

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