3人の偽物 6
橘乃によると、要が横浜の副事務長に捕まっていた頃、彼女は、彼女が本日宿泊する部屋の中で、ふたりの姉とお茶を楽しんでいたそうだ。
「いただいたお菓子が美味しくて、つい食べ過ぎちゃいました」
このまま夕食まで部屋に籠って話していたら、あっという間に太ってしまうかもしれない。だから、これから姉たちと外を歩いてくるつもりなのだと彼女は言った。
その姉たちはといえば、ロビーの中ほどで、スーツ姿の男たち数人と話し込んでいた。男たちのうちのひとりは、この近くに本社を構える大手企業の役員だ。このホテルの新館にあるバーの常連でもある。
「もう少しかかりそうですね」
姉たちを振り返りながら、橘乃が予想する。ふたりの話が終わるまで、彼女は、ここで待つつもりでいるようだった。仕事があるのなら遠慮なく自分を放っておいてくれるようにと彼女は要に言ってくれたのだが、そんな時に限って、彼に写真撮影を頼む客もいなければ重い荷物を運ぶのに難儀している足腰の弱った老人が通りすぎるようなこともなく、結果的に、彼は橘乃の傍に留まることになった。
橘乃の部屋に飾ってあった花がきれいで嬉しかったとか、ルームサービスの女性が親切だったとか、そんな話を続けた後、「それで……」と、それまで順調に言葉を紡いでいた橘乃の声が、ふつりと途切れた。
「橘乃さん?」
「あのね。 なにがなんだか、さっぱりだったんですよ」
彼女が、要に訴えた。いつでも機嫌が良さそうな彼女にしては珍しく、拗ねているようにも怒っているようにも見える。
「姉たちから聞きました。こちらの……」
橘乃が言葉を濁す。だが、それだけ聞かされれば、橘乃が茅蜩館の相続問題のことを話題に持ち出そうとしていることは、要にもわかる。
「聞いたんですけど、誰が前オーナーの本当の子供かとか、武里グループがどうのこうのとか、誰が誰派とか、とにかくややこしくて、途中で訳が分からなくなってしまったというか、覚えきれないというか……」
「そうですよね。 ややこしいですよね」
素直すぎる橘乃の感想に、要の目元が緩む。
しかしながら、無邪気に見えても、そこは六条源一郎の娘である。 『わからない』『覚えきれない』と、子供のように拗ねてみせながらも、「というよりも、覚える気にもなれませんでした。 だって、結局のところ、これは誰がどれだけ得するかという話でしかないですよね?」と、一足飛びに問題の本質を突いてきた。
「『前オーナーの本当の子供が、次のオーナーになるべきだ』 なあんて主張している人たちが、武里グループの誘惑に負けて浩平さんの派閥に鞍替えしたりしている。ということは、久志さんの子供かどうかなんて、本当はどうでもいいことだと思われているってことですよね? 多くの人にとって重要なのは、『自分の取り分がどれぐらいになるか』ということだけ。『正当な継承者に跡を継がせるべきだ』なんて主張したところで、それが方便でしかないことは見え見えです。こんな争いに小さな子供たちを巻き込んだ大人たちの気がしれません。梅宮さんも、いじめられ損じゃないですか。欲の皮の突っ張った人から、言われっぱなしのやられっぱなしになることないですよ。『やられたら倍にして返せ』 って、うちの父も常々言ってますもの!」
「……」
仕事中には珍しく、要は、笑顔を橘乃に向けたまま固まってしまった。防犯カメラもないのに要の動向をいつでも誰かが探っているらしいことが明らかになった今日この頃、この場で彼が橘乃に同意しようものなら、後でどんな苦情がくるかわかったものではない。だが、橘乃は、周囲のことなどお構いなしだ。 憤懣をぶちまけてスッキリすると、この上もなく優しい顔になって要を見上げた。
「このホテルに連れて来られたことを、後悔してないですか? 辛くなかったですか?」
「いいえ。まったく」
呪縛が解けたように要は即答し、気遣わしげな視線を向けている橘乃に微笑んだ。
「祖母や母――ここの今の総支配人で私の養母なんですけど――も良くしてくれましたし、スタッフにも小さい頃から可愛がってもらいました。私は、ここが好きです。ここに来たことを後悔したことは、一度もありません」
「そうですか。だったら、よかった」
橘乃の顔に、ホッとしたような笑みが浮かんだ。
「ありがとうございます」という言葉が、ごく自然に要の口からこぼれ出た。
「え?」
「その…… 怒ってくださっているみたいですから」
『私のために』という言葉は、照れくさくて言えなかった。
「だって、こういうの、とっても嫌なんです」
橘乃が口を尖らせる。
「うちの姉も、ひどいイジメにあったことがありますから」
「お姉さまというと?」
要は、彼女の姉たちに視線を移した。いじめられたのは、背の高いほう―― おっとりと優しげな次女の明子のほうだろうか? それとも……
「いいえ。 意外に思われるかもしれませんけど、一番上の紫乃のほうです」
才色兼備を地で行くような六条家の長女のほうだと、橘乃が教えてくれる。
「うちは、父親にいろいろと問題がありますから、それで」
橘乃は言葉をぼかしたが、要が察するに、姉へのイジメは、父親がハイエナ企業の社長だと世間から揶揄されていることや、彼女が妾の娘であることが原因だったのだろう。しかしながら、気の強い彼女の姉は、要のようにやられっぱなしにはならなかったそうた。
「2倍どころか5倍にして返したみたいですよ。おかげで、みんなが姉を怖がってしまって、私たち妹は、誰にもいじめられずにすみました」
橘乃が、大きく広げた掌を要に向かって突き出しながら笑う。
「頼もしいお姉さまですね」
姉を自慢する橘乃に、梅宮は苦笑を返した。それほど頼もしい姉と比較したら、要は、さぞや不甲斐なく見えるに違いない。
「ですから、梅宮さんのことも他人事とは思えなくて…… じゃなくて、私の場合は、茅蜩館のことを他人事だと思っていてはいけないんですよね? それで、あの……」
橘乃が、急に思いつめた表情を浮かべて、梅宮を見た。
「イジメは嫌いなんですけど、私がこれ以上問題をこじらせて、ホテルの人同士のいがみ合いが更にエスカレートすることになるのも、どうかと思うんです。本当に、私の好きな人を旦那さんに選んでしまっていいのでしょうか? ホテル内のパワーバランスとか、将来的なホテルの発展とか、そういうことまで考えないで、本当にいいのかしら?」
(それを、ここで僕に相談してしまいますか……)
できることなら、この手の相談は、実際にいがみ合っている他の誰かか、または要を敵視している人がいないところでしてほしいものだと、彼は思った。しかしながら、茅蜩館のトラブルに最も不本意な形で巻き込まれているのは橘乃である。巻き込んだ側に属する要が、助言を求めている彼女に邪険な態度をとるわけにもいかない。なにより、橘乃は、要のために怒ったり心配したりしてくれているのだ。そんな彼女を、どうして彼が邪険にできよう?
(後で誰になんて言われたって、もう気にするものか!)
彼は覚悟を決めると、「大丈夫ですよ」と、にこやかに微笑みながら橘乃に請け合った。
「先ほど祖母の居間でお話させていただきました時にも申しましたように、橘乃さんが誰を旦那さまに選んでも、私たちスタッフが全力でフォローいたします。だから、そんなご心配は無用です」
さりげなくこちらに注意を向けているだろう外野にも言って聞かせるように、意識的に声を大きくする。橘乃の頭越しに、近くを通りがかったスタッフが微笑みながら小さくうなずくのが見えて、彼は少しホッとした。
(大丈夫)
要に味方がいないわけではない。皆が皆、相続争いに夢中になっているわけではない。このホテルには、このホテルで過ごすお客さまのために、そして、このホテルをもっといい場所にするために毎日一生懸命働いているスタッフが大勢いる。橘乃のことは、自分と、そういった人々で守ってやろう。自分たちが、彼女の希望に沿うようにしてやろうと、要は心に決めた。
「じゃあ、遠慮なく、私の好きにさせてもらいますね。そうそう。梅宮さんも、遠慮していたらダメですよ。誰が何と言おうと梅宮さんだってホテルの人なのだし、お仕事だってしっかりなさっているし、なにより八重さんが育てたお孫さんのひとりなんですから。このホテルの将来を担うのに自分がふさわしいと思うなら、堂々と私に……」
「きっ、橘乃っ?!」
立ち話を終えて橘乃の背後に到達した六条家の次女が、顔を真っ赤にしながら、妹の言葉を遮った。
「なんて、はしたない! こんなに人目の多いところで、そんなに直接的に男の人を誘うなんて……」
「明子姉さまったら、私は、そういうつもりで言ったんじゃないわ!」「そうですよ。 誤解です!」
『ねえ?』と、ふたりは赤くなった顔を見合わせた。
「でも、息がピッタリよ。あなたたち、気が合うのではなくて?」
明子の後から追いついた六条家長女の紫乃がからかう。こちらは、明子ほど橘乃の行動を厳格に取り締まるつもりはないようだ。
「わたくしは、なかなかお似合いだと思うけど?」
「紫乃姉さままで!」
「冗談よ。そんなにムキにならないの。それに、わたくしは、誰が妹の旦那さまになるにせよ、梅宮さんがこの子の傍にいてくださるのならば、本当に心強いと思っていますの」
戦前の大財閥である中村家の本家に嫁いでから更に貫禄と美しさを増した紫乃は、妹をなだめると、梅宮に顔を向けた。「妹は、いささか軽率というか、お人好しなところがありますから。求婚してくださる男の方にチヤホヤされすぎて、調子に乗って羽目を外したりするのではないかと、わたくしたちは、とても心配していますの。ですから、もしも、この子が馬鹿なことをしようとしていたら、梅宮さんが遠慮なく叱ってやってくださいね」
「よろしくお願いします」
長姉紫乃の言葉に合わせて、次の姉の明子も、要に対して丁寧に頭を下げてくれる。
「いやあね。私は、姉さまたちが思っているほど軽くないわ」
無邪気な橘乃が、笑いながら姉に抗議する。一方の要は、身が引き締まるようなプレッシャーを感じていた。
さすが、妹たちにまで類が及ばないように、いじめっ子たちを5倍返しで制圧した《お姉さん》だけのことはある。紫乃は、お人好しの妹を心配し、要を頼りにするふりをしながら、「今回の件で、橘乃が傷つくようなことがあったら承知しない。だから、おまえがしっかり見張っていろ」と、暗に彼に命じているのだ。
「ご心配は、ごもっともです。こんなことに大切な妹さんを巻き込んでしまって、本当に申し訳ないと思っております」
要は神妙な顔で紫乃に詫びた。そして、誠意を込めて彼女に約束する。「橘乃さんの評判が傷ついたり、おかしな男性に引っかかって辛い目にあったりすることがないように、わたくしども茅蜩館の全スタッフが総力を挙げてお守りいたします」
しかしながら、彼の目の前にいるのは、揃いもそろって六条源一郎の娘たちだった。
「茅蜩館の全スタッフ?」
長女の紫乃だけでなく次女の明子までもが、ほんわかした笑顔のまま、すかさず責任の所在の曖昧さを追求してきた。
「私が、責任を持って対応させていただきます」
要は言い直した。どうせ始めからそのつもりだ。逃げる気はない。
「なんか、娘を嫁にやる父親の気分だわねえ」
「そうね。今の梅宮さんの台詞って、聞きようによっては結婚の許しを得ようとしている男の方も言いそうなことよね」
気張って宣言した要を見て少しは安心してくれたのか、紫乃たちが笑う。
「本当ね」と、橘乃までもが笑っているのが、要には憎らしく思えた。『そんなふうに能天気だから、君は姉さんたちに心配されるのだ』と、言ってやりたくなる。
だがしかし、彼女のお気楽さは筋金入りであったようだ。「じゃあ、これからは、梅宮さんを保護者だと思って頼りにさせてもらおうっと。『お父さま』って呼んじゃおうかしら」などと言って、はしゃいでいる。
「あら、うちのお父さまと一緒にしたら、梅宮さんに失礼よ」
「そうよ。梅宮さんは、お父さまとは違って良識だっておありにあるし、お若いのだから。せめて兄とか、そうでなければ、あなた好みに『護衛の騎士さま』とか、他にも呼びようがあると思うのよ」
「それもそうね。ねえ。梅宮さんは、どちらがいいですか?」
「え? どれがいいと言われましても……」
(騎士でも保護者でも、父でも兄でも、あなたがたの好きにしてください。あ、でも『父』だけは、六条さんが怒り狂いそうだから勘弁してほしいかも)と、女たちのかしましさに気圧された要が、なし崩し的に自分の役割を受け入れかけた時である。
「ということは、橘乃さんへのデートの申し込みは、そこの彼氏を通したほうがいいのかな?」
若い男の声が、要たちの会話に割り込んできた。
「橘乃さんっていうのは、君のこと?」
振り返った橘乃に問いかけながら、若い男が、こちらに歩いてくる。
その歩みが非常に力強く見えるのは、仕事で大きな成果を上げている自信からくるものでもあるだろうが、実際に体を鍛えているからでもあるのだろう。男は、かなり日に焼けていた。学生時代にはテニスやスキーの大会で優勝したことがあると聞いているから、いまでも、そういったスポーツに親しんでいるのかもしれない。あるいは、ゴルフだろうか? 彼の会社はゴルフ場の開発にも熱心なのだ。いずれにせよ、彼の浅黒い肌が彼の整った容姿に野性味と爽やかさを与えていることは疑いようがなかった。若き日の六条源一郎や彼の息子ほど整った容姿ではないが、彼の外見は、夢見がちな年頃の女の子が憧れる条件を十分に満たしていると思われたし、実際に、この男は女性に人気があった。
要の業界内では、彼の華やかな女性遍歴――つまり女癖の悪さは有名である。某有名女優やモデル、客室乗務員と…… 噂話を鵜呑みにするわけにはいかないが、要が彼に関する話を聞かされる度に交際している女性が違う。気まぐれで自信家のプレイボーイ。要の中でそんなイメージが定着していた彼ならば、親の言いなりになって伴侶を娶るような政略結婚に興味を示すわけがない。だから、安心していた。安心していたというよりも、彼のことなど思いつきもしなかった。それなのに……
(よりによって、この男が出てくるとは……)
内心で動揺している要の耳元で、『だから、ヤバイって言ったじゃないか~!!!』という横浜の副事務長の絶叫が聞こえた気がした。
「ええ、そうですけど」
『あなたは、どなたですか?』と男にたずねる代わりに、橘乃が当惑気味に要を振り返った。『こんなスカした男は、知りません』と要は答えたかった。だが、この道ウン十年の茅蜩館のベテランスタッフの下で接客を学んできた彼の職業意識がそれを許さなかった。
「竹里冬樹さん。武里リゾートの専務さんです」
「今は社長だよ。そして、将来的に武里グループが誇るホテル・セレスティアルを率いる者でもある」
竹里冬樹は自分から自信たっぷりに名乗ると、わずかに腰と屈め、橘乃の鼻先まで顔を近づけた。
「ふうん」
上から下まで無遠慮に橘乃を眺め回しながら、冬樹が鼻を鳴らす。
「ホテルを持参金につけなければ売れない女なんて、どんなヘチャムクレかと思って見にきてみましたが、こんなにお美しいお嬢さんだったとはね。嬉しい驚きだ」
橘乃に目を合わせて、嬉しそうに冬樹が笑顔を作る。
「それは……どうも、ありがとうございます」
白い歯を見せて笑う男に警戒感を露わにしながらも橘乃が頬を赤らめた。彼女の反応に気を良くした彼は、さらに大胆に彼女の耳元近くまで顔を寄せ、低い声でささやいた。
「僕も、君の求婚者のひとりに加えてもらってもいいかな? まずはお互いを知るために、これから海までドライブなんて、どう?」
「これから……っていうのは、ちょっと……」
「僕を拒むの? でも、『ホテル関係者なら、誰でも君にアプローチできる』んだろう? 自分で約束しておいて、実際に声をかけたら、僕という人間を知ろうともせずに、その場で門前払い……っていうのは、酷いんじゃない?」
「それもそうですね」
素直な橘乃は、あっけなく冬樹の屁理屈を飲み込んだ。
「でも……」
橘乃が、冬樹から距離を置くように身を引きつつ、相談するように要を振り返った。冬樹の言い分もわかるが、彼の提案にホイホイ乗るのはためらわれる。『どうしたらいい?』そんな顔をしている。
「今日は、お嫁にいかれたお姉さまたちと、久しぶりにお食事なさるそうです」
要は、冬樹に極めて慇懃に答えながら、胡散臭そうに冬樹を眺めている紫乃と明子に目を向けた。ついで、彼は橘乃に視線を戻すと、「いきなり男の方とのふたきりでのドライブでは、ご不安でしょう? まずは、お食事などなさってみてはいかがですか?」と提案した。
「場所は…… そうですね。本館のレストランではいかがでしょう?」
このホテルで、ロビー以上に人の出入りが多い場所である。
橘乃はホッとしたようにうなずくと、「それでも、よろしいかしら?」と冬樹にたずねた。
「お姫さまの仰せのままに。今日がダメなら、明日ならいいのかな?」
冬樹は肩をすくめると、「山辺、明日の僕の予定は?」と、背後の男性に問いかけた。呼びかけに応じて、冬樹や要と同程度の年齢に見える細身の青年が人差し指で銀縁メガネを押し上げながら、胸元から取り出した手帳を確認する。
「お昼は取引先と、夕刻は守屋さまとのご会食の予定になっております」
「守屋をキャンセルしろ」
冬樹が命じる。そして、「では、7時に予約を入れてくれ。眺めの良い席がいい」と、要に依頼した。
要は、橘乃が自分にうなずくのを確認したうえで、「かしこまりました。ご予約、ありがとうございます」と冬樹に頭を下げた。同時に、冬樹が橘乃に不埒なことができないよう、個室ではなく眺めも良いけれども人目も集まる場所に席を用意してやろうと心に決める。
「では、明日。楽しみにしているよ」
冬樹は、橘乃の手の甲に口づけると、か細い秘書を引き連れてホテルを出て行った。
冬樹がいなくなるのを待って、六条姉妹も出かけていった。
「だからヤバイって言ったのに…… 危機感がないから……」
姉妹を見送る要の後方から、恨めしげな声が聞こえた。要が振り返ると、すぐ近くにある太い柱の陰から横浜の副事務長と貴子がこちらを見ていた。
「ふたりして、そんなところで、なにをしているんですか?」
「なにって、梅宮が、ようやくその気になったらしい……って報告があったから」
『梅宮』という呼び方と笑顔だけを外向きに改めた貴子と副事務長が、近づいてくる。
「なんなの?! あの気障ったらしい態度は?! 昔、竹里秋彦が輝美をたらし込んだ時のやり口とそっくりじゃないの。ああ、やだやだ! 気持ち悪いっ! っていうか、あんたってば、なんで、あの女たらしの気障男くんとのデートをセッティングしてやってるのよ! 阻止しなさいよ、阻止!」
要の隣に並んだ貴子が、笑顔を顔に張り付けたまま、寒そうに二の腕を擦りながら、音にならないほどの小声で彼を罵った。
「『ホテル関係者なら誰でもいい』ってことになっているんだから、橘乃さんが拒否しない以上、あの場は、要も、ああする他なかっただろう。外に連れ出されなかっただけでも、お手柄だ」
やはり小声で副事務長が要を庇ってくれる。彼は、竹里冬樹が出て行った出入り口を物憂げに見やると、「だが、まさか、あの男が出てくるとはなあ」と言いながら、大きく息を吐いた。
「そうですね。 困ったことになりましたね」
要も憂鬱な気分になる。竹里冬樹は、武里グループ初代会長――つまり、最初にこのホテルに触手を伸ばした竹里剛毅の末子である。すべては橘乃の気持ち次第……とはいえ、彼が橘乃の夫となったら、このホテルは、副事務長の予言通りに武里グループに丸呑みにされてしまうことだろう。
(いや、丸呑みよりも始末が悪いか)
要は、あの男と武里リゾートの評判を知っている。あの男のことだ。彼が茅蜩館を手に入れたら、茅蜩館が培ってきた茅蜩館ならではの『よさ』などひとつも検討することなしに、他の場所で既にやってきたように、このホテルを自分好みの全く別のものに作り替えてしまうだろう。
(それより、あの男が橘乃さんを手に入れたら……)
そうなったら、彼女の良さも、あるいは欠点かもしれないところも、彼によって変えられてしまうのだろうか? そして、これまで彼と浮名を流してきた他の多くの女たちと同じように、彼が飽きたら捨ててしまうのだろうか。
「嫌だな」
ポツリと要は呟いた。
ホテルがあの男のものになるのが嫌なのか。
それとも橘乃があの男のものになるのが嫌なのか。
どちらの気持ちがこの言葉を言わせたのか、要自身も、まだわからなかったけれども……




