22◇ひとつだけお願いがあります
「……それは、どういうことですか?」
私の問いに、エレノアは眉を寄せて首を横に振ります。
「よくわからないの、あの子は何も教えてくれないし。でもねメイベル、あなたはここに居てはいけない気がする。変わってしまったの、この町も、あの子もみんな……」
何もわからない。ただ彼女が心底から困り切っていることと、私のことを案じてくれていることだけは、伝わってきた。
「ここはもうきっと、あなたの故郷じゃなくなってしまったの」
ずずず、とザックがなるべく音をたてないように汁をすする音だけが部屋に響く。
ふと立ち上がったエレノアが、戸棚の奥から何かを取り出した。いちど胸に抱いて目を閉じて、深く息を吐く。
「もしあなたが帰ってきたら渡してほしいって。安心してね、中身は読んでない」
差し出されたのは白い封筒だった。脳裏にサーリャとのやりとりが思い浮かぶ。きっと、レオンが託そうとした私への手紙なのでしょう。
コン、コン
それを受け取ったのと、ほぼ同時でした。玄関の扉を叩く音が響いたのは。
「はーい、どちらさま? こんな時間にお客様なんて、珍しいわね」
答えるエレノアの目は、玄関ではなく厨房のほうに向けられている。その先に裏口があることを私は知っています。彼女は声に出さず「いきなさい」と口の形で示すと、玄関のほうに向かいました。
「──こんばんわ、お母さま。わたしもヌルモが食べたいなあ」
扉の向こうから聞こえたのは、じとりと湿度をまとった女の声。
「いきましょう」
手紙をケープの内側にしまって、立ち上がる私。
汁を飲み切ってうなずくザックに、カバンくんも部屋の隅から足元に駆け寄ります。彼らを先導して厨房を抜け、裏口から外に出る。ヌルモで温まった頬を、冷たい夜風が撫でていく。
裏口の向こうには小さな畑がある。二十年前のままなら、そこから隣り合った民家の敷地にちょっとだけお邪魔して、町の入り口に繋がる中央通りに出られるはず。
「そこの突き当りを左に」
「はい! 足元が暗いのでお気を付けください」
満月の明りで青白く浮かぶのは記憶通りの風景でした。警戒しながら先を行くザックが、こちらを見ずに片手を差し出す。
「あの、よろしければ僕の手を」
「ええ、ありがとう」
私は迷わずそれを掴みます。伝わる肌の温もりと一瞬の逡巡のあとに、すぐ力強く握り返して、手を引いてくれました。カバンくんもしっかり足元についてきている。
そうして中央通りに出た私たちは、その先に見えている町の入り口に向けて駆け出す前に、足を止めることになります。
道の左右の家々の扉が開いて、住民たちが次々に姿を見せたから。その全員が、私たちに明らかな敵意の目を向けつつ道を塞いだから。
──この町は変わってしまった。
エレノアの言葉が浮かびます。旅のはじまりの町で私を取り囲んだのは、黒衣をまとった黒の使徒たちだった。でも、いま私たちの行く手を阻むのは、一見するとごく普通の住人たち。
その中で、若い男女二人組が軽く抱き合ってから、女性の方だけがこちらへ歩を進めます。黒い皮鎧に黒い細剣を帯びた女剣士。
親子連れの父親が、妻子をかばうように前に出る。黒い鎖外套の肩に黒い巨大な斧を担いだ重戦士。
そして黒いジャケットを着た少年が、不安げな表情を浮かべる老夫婦に「だいじょうぶ、行ってくる」と声をかけ、黒い錐槍を構える。
「メイベル様、あれはおそらく……」
黒い装備の三人を視界に、ザックが言い淀む。彼の言わんとすることは、月明りが照らす彼らの青白い額に浮かぶ、黒い蜘蛛の紋章を見るまでもなく理解できます。
「ええ。彼らも『勇者』ね」
黒女神の儀式で『異能』を得た者たち、それが三人も。
近隣に黒の使徒の大規模拠点が存在するという噂。空振りに終わった聖騎士団の調査。その答えがこれ──どうやら私の故郷はまるごと、黒の使徒の町に置き換わっていたようです。
そして後方から、がちゃり、がちゃりと響くのは、確かめるまでもなくもうひとりの『勇者』の足音でしょう。これで、四人。
「二十年ぶりのヌルモ煮汁、とっても美味しかったでしょう? お母さまの味付けは、大陸いちだもの」
背中にまとわりつく、湿度を帯びた声。私は大きく溜め息を吐いて、ゆっくり振り向く。
月下にたたずむのは、兜を外した黒騎士レオンと、修道服をまとう黒の聖女。
「見ない間に、ずいぶん大きくなったのね」
私の言葉に、黒聖女はそっとベールを外す。
こぼれ落ちる長く艶やかな黒髪、繊細に整った顔立ちに翠色の瞳、白い肌に際立つ紅い唇。あの日、ちょうどこの中央通りで王都に旅立つ私を泣きながら引き留めた小さなドロテアは、隣に立つ兄そっくりの美しい女性に育っていました。
「それはお互いさまでしょう、メイベル」
「確かにそうね、ドロテア」
名を呼び合う。視線が絡み合う。
「ずいぶん落ち着いているのね。さすが伝説の大聖女だわ」
「ハモンドが言っていました。私の心臓を黒女神に捧げ、信仰を絶望に裏返すって。あなたの目的もそれなの?」
「ハモンド……? ああ、あの白司祭がそんな名前だったわね。まあ、そう。ただし、たくさんの信徒の目の前で、黒聖女が白聖女の命を奪う、その意味はぜんぜん違うけれど」
一瞬だけハモンドに同情しつつ、念のために聞いておく。
「ちなみに私はもう聖女じゃないんだけど、やっぱりそれは関係ない?」
「当然よ。わたしも聖女になってからいろいろ見てきたけれど、大陸中どこに行ってもあなたに救われた人がいた。そこに繋がる親族や友人も含めたら、もう本当にあなたは『世界を癒した聖女』なの。いいかげん、自覚しなさい」
また自己肯定感が上がってしまうけど、それどころじゃない。四人の勇者たちはゆっくりと歩を進め、私たちの包囲の輪を縮めてきます。
それぞれに鋭い視線を向けつつ、ザックは腰の長剣の柄に手をかける。
幽騎士の愛刀は黒騎士との戦いで刃こぼれしてもう使い物にならない。商隊の商品でいちばん質の良いものを餞別にもらってきたけれど、おそらく黒の装備には太刀打ちできない。
四対一という圧倒的な数的不利の上に、彼は『勇者』としての力──煙化の異能も剥奪されています。
「褒めてくれて、ありがとう。よくわかりました」
最悪の想定をしておけば、たいていのことは「思ったほどじゃない」で済ませられる。
私にとっての最悪は、絶対的に勝ち目のないこの状況でも、まったく絶望することなく私を守ろうとしてくれる彼を──その命を、守れないことです。
「ひとつだけお願いがあります。私はどうなってもいいから、ザックのことだけは……」
「メイベル様、それは駄目だよ」
けれど私の願いは、当人の言葉で遮られていました。
「あなたは僕に言ったじゃないか。もし生きる意味が見つけられないのなら、私のために生きてと。──あなたは僕の生きる意味、僕の命だ」
視線は勇者たちに向けたまま、敬語でない言葉を、噛み締めるようにはっきりと口にする。心臓がどくんと脈打つ。覚悟が薄れる。
私だってもっと、彼と一緒に旅をしたい。出来るなら、ずっと、ずっと。
「──それに、諦めるのはまだ早そうです。ほら、聞こえませんか?」
ザックに言われて耳を澄ます。遠くから聞こえたのはここ半月すっかり聞きなれた、馬の蹄が大地を蹴り、車輪が回る音。
道を塞いでいた住民たちがざわつきながら左右に避ける。その向こう、月光に照らされて爆走してくるのは、私たちをこの町に送り届けたあの馬車。
「停めて」
ドロテアの短い言葉を受けて、三人の勇者の中央にいた鎖外套の重戦士が振り向くと、大斧を構えて馬車に突進してゆきます。
御者台のニコラスが必死に手綱を捌くけれど、あの速度で急には停まれない。
重戦士の大斧が馬を襲う寸前、車体側面の扉が開いて黒い何かが外に飛び出した。
「……貴様、何者だ……」
重戦士の低い声が問いかけます。絶対的な破壊力を乗せた大斧の刃を、白手袋をはめた片手でぴたりと受け止めた、黒い人影に対して。
「メイベル様への恩義と、ザック殿への友義により推参いたしました──シャンドラ家執事、エリックと申します」
斜めに停車した馬車を守るように立つ、執事服をまとった長身の青年は、斧を受け止めたままで恭しく一礼しました。
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