18◇黒騎士と幽騎士と
「逃げろ、サーリャ。時間稼ぎくらいはしてみせる」
怯える馬をなだめながら、御者の青年が静かに口にする。
「あんたも逃げな、ニコラス! カッコつけてんじゃないよ!」
サーリャの声に彼は応えず、懐から短剣を抜いて黒騎士に向かっていく。数年前に別の国で商隊に加わったという彼、ニコラスは、いつもは軽口ばかり叩いている陽気な青年でした。
対する黒騎士も黒い大剣の切っ先を地面から引き抜くと、身の丈と変わらぬ長さの刀身を引きずりながら、悠然と近付いて来ます。がしゃん、がしゃんと一歩毎に鎧を鳴らして。
「楽しかったぜ。俺なんかにも、家族が出来たみたいでさ」
ニコラスの声に重なって「ぶおん」と聞こえたのは、黒騎士が大剣を頭上に振りかぶる風音。
「ダメだやめろぉッ!」
サーリャの悲痛な叫びに「ぶおん」と重なるのは、大剣が彼の頭上に振り下ろされる風音。明らかに短剣では受けきれない斬撃が、一瞬後には地面にめり込んで、その周りにふわりと灰色の煙が舞う。
「──無茶をする」
咎めるように言ったのは、煙が集まって実体化した灰色のコート姿。
目深にかぶったフードから覗く銀仮面と片手に携えた抜き身の刀は、今や商隊の守護者と化した幽騎士です。
「ま、どうせあんたが来てくれると思ってさ」
彼の後方に尻もちをついて倒れこんだニコラスが、軽口で応じる。震える声はそれが確信ではなかったことを物語っています。
「おかげで、サーリャにいいとこ見せれたぜ。さすがに惚れられちまったかな」
「なら、ちゃんと守れ」
立ち上がるニコラスの軽口を背にかばいつつ、幽騎士は黒騎士に対峙する。ちなみに当のサーリャは私の隣で「あの野郎」と怒りの形相ですが、まあ内心まではわからない……ことにしておきます。
「あんたも気をつけろ」
言って離脱するニコラスと入れ替わるように、大剣を再び振り上げる黒騎士。煙化して消えた幽騎士が、その背後に実体化して一閃した刀はしかし、振り向きざまに横薙ぎの黒い大剣で弾き飛ばされていました。
「これは、噂に過ぎないけど」
馬車の傍らまで逃げてきたニコラスの耳を、ちぎれそうなくらい引っ張りながらも、戦いを見守るサーリャの口調は真剣です。
「黒騎士は、相手の動きを先読みするらしい」
先読み。それが黒女神の『勇者』の異能、ということでしょうか。
刀の弾き飛ばされた先で実体化し、柄を掴んで受け止める幽騎士。それさえ知っていたかのように突進してきた黒騎士の大剣が、その胸を貫くのを見て、私の心臓は跳ねあがる。
──ザック!?
同時に煙化した彼は、さらに離れた位置で実体化して、地面に膝をつく。胸の真ん中を押さえた指の隙間から、紅い色が滲んで見えます。ぎりぎり間に合わなかった? 傷の深さがわからないけれど、とにかく早く治癒を……!
「メイベル」
馬車の陰から飛び出そうとする私の腕を、サーリャが掴んで引き留めます。
傍らにニコラスの姿はない。おそらく、隊の皆を退避させに行ったのでしょう。
がしゃん、がしゃんと響くのは、幽騎士に背を向けこちらに歩み寄る黒騎士の鎧音。
──そうだ、落ち着きなさい私。
深呼吸。冷たく澄んだ大聖堂の空気を思い出すのは容易いこと。二十年間毎朝毎夕、私の肺を満たしてきたのだから。ざわめいていた胸が、穏やかに鎮まってゆく。
「……もう大丈夫、ありがとう。それから」
やって欲しいことをひとつ伝えて、私は彼女の手に自分の手を添えてそっとはがす。そして馬車の前に進み出る。大剣を引きずり近付く黒騎士を正面から見据えて、待ち受けます。
「──いと眩きは女神の慈愛」
近付くと、思った以上に背の高い鎧を目前に、両手を胸前に組み祈りを捧げる。私の全身が白い光に包まれ、銀をまとった髪がふわり広がります。
それを高い目線から見降ろすと、首を傾げつつも大剣を振り上げる黒騎士。
どこまで先が読めるのかわからないけれど、首を傾げたということはきっと、これが何のための、誰のための祈りか理解できていない。
「私を守るのでしょう、ザック!」
全力で呼ぶ。ほぼ一瞬の遅れもなく聞こえる「はい!」の声と、同時に目の前に煙が集まり実体化する片膝ついたコートの背中に、私は右手を押し付けさらに叫ぶ。
「聖癒!」
光が右手のひらに集まって、灰色の背中に移ってゆく。うん、大丈夫。傷は浅くなかったけれど、これで完治させました。余剰分で祝福も乗ったはず。
──さあ、行きなさい!
ゆらり立ち上がるコートは光の残滓まとう銀色で、その手から走る刀の聖なる一閃が、銀光の軌跡を描きながら、振り下ろされた黒い大剣の刃を高々と撥ね上げます。
踏み込む幽騎士。大剣にとっては近過ぎる間合い。全身鎧とて腕を動かすため脇に隙間がある。幽騎士の刀の切っ先は真っすぐそこに吸い込まれ──
「く!?」
──寸前で黒い装甲に覆われた手に掴まれ、止まる。切っ先は僅かに脇に食い込んだ。大剣を躊躇なく後方に投棄した黒騎士は、もう一方の手で幽騎士の顔面を鷲掴む。やはり、一対一では読まれてしまうのか。
でも、それなら。
たったったっ、と後方から聞き覚えのある足音が傍らを駆け抜けてゆきます。サーリャが荷台から解放してくれたカバンくんの加速の乗った跳躍は、煙化した幽騎士の体を通り抜け──黒騎士の顔面に回転角アタックを炸裂させました。
空中で一瞬だけ翼を羽ばたかせ、私のすぐ傍らに着地するカバンくんと、同時に地面に転がったのは黒騎士の頭部を覆っていた漆黒の兜。さすがに狙い通りとは言いませんが、これで彼の守備力は落ちるでしょう。
私の前に実体化した幽騎士の肩越し、軽くよろめいて首を振った黒騎士の顔を見る。
兜に収められていた長い黒髪が背に流れ、白い肌の額には、蜘蛛が足を広げたような黒い紋章が浮かんでいます。間違いない、黒女神の勇者の証たる刻印。でも私の視線は、その下にある彼の顔に釘付けになっていました。
美しかったから、と言えばその通りです。繊細に整った顔立ちに、凛々しい眉と穏やかな目元、浮かぶ瞳は翠色。先ほどまでの人間味を感じない戦いぶりとの落差が、あまりに大きかったのもあります。
──だけどたぶん、それだけじゃない。
理由もわからないまま。私の右の頬を、涙がひとすじ伝い落ちました。
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