王静(ワン・ジン)
一方サタジットは左足と左腕を前にして半身に構える。ウルミを持った右腕は後方に引いて姿勢は低くしている。日本の剣術では見た事のない構えだ。しかしトキネはそれに動じることなくサタジットに向かって言葉を発した。
「やはり刀はいいですね。心が落ち着きます。先にひとつ聞いておきたいんですが、貴方の事はここで殺してしまってもいいんでしょうか?」
サタジットは構えたまま答える。
「先ほども言ったようにこの世界で起きる現象は、関数が表に出てきているにすぎません。そうしてこの空間は世界からある存在によって切り離されています。ここで死んだという状態に移った時に、もしそれが確定してしまうならその時はその時です。この空間を成立させている存在の判断に委ねます。しかし彼が死を確定させることはないでしょう。それはあなたも同じことです。この空間においては生死の事はあまり気にしない方がいい」
「良くは分かりませんが、本気で行かせて頂きます。手加減は出来そうにない」
二人はお互いに構えたまま、じりじりと間合いを詰めていく。その距離がある一定のものとなった時、それを阿吽の呼吸とでもいうのだろうか?どちらからというわけでもなくお互いに同時に斬りかかった。
勝負は一瞬だった。サタジットの鞭状の刀、ウルミがしなりながらトキネに届く前に、踏み込んだトキネの刃先はサタジットの胴を上と下とに真っ二つに切断していた。あたり一面に血しぶきが舞う…。
しかしその次の瞬間には、トキネはサタジットと刀を構えて相対したところまで状況が遡っていた。間合いもあいている。トキネにはその時起こっていることが理解できなかった。先ほど確かにこの手で彼を二つに切断したはずなのに、サタジットは無傷で目の前に立っている。
「いいでしょう。何度でもお相手いたします」そう言ってトキネはニヤリと笑う。そうして前に出ようとしたその時、
「いや、もう十分!」サタジットの言葉にトキネは動きを止める。
「可能性の未来はもう実感したはずです。私は元々何もする気はなかった。しかし己の未熟さでしょうね。是非ともあなたと手合わせをしたくなってしまった。でもこれ以上は必要ないでしょう。充分分かりました。勝敗は関係ない。私は最初からあなたを認めていますから…。しかしこれは久々に楽しかった。どうもありがとう」そう言ってサタジットはその顔に満面の笑みを浮かべる。
頭では理解できなかったが、起きている現象も彼の心情も心では理解できた。トキネは一歩下がってサタジットに礼をした。
「人生は長い、またそのうちにお手合わせ願いましょう」サタジットがそう言った瞬間トキネの視界は暗転する。
暗闇はすぐに晴れた。先ほどと全く同じ風景がトキネの前には広がっていた。しかし前と違うのは眼前の人影がサタジットとは大きく違っていたことだ。その人物は体の大きさから言えばかなり小さかった。下手をするとトキネの体格よりも小さい。
「ミス小佐波、久しぶりだね」トキネの目の前の人物は親し気に話しかけてきた。
そう、この人物をトキネは良く知っている。
「王静…あなたもここの四賢者とかだったの?」そう、彼は香港のマフィア組織四合会の首領、ワン・ジン(王静)その人である。トキネは日清戦争の頃から彼とは浅からぬ縁があった。
「この間の披露宴ではどうも。あの余興はなかなか楽しませてもらったよ。まぁ君とは知らない仲でもないし、別に今更手合わせするまでも無くその実力は知っている。でも折角だから僕も本当のところを自己紹介させてもらっていいかな。同じ日本人だし」
「ああ、さっきからおかしいと思ってたけど、あなた日本語話せたんだ。というか、日本人だったんだ…で、何?今度は織田信長だとでも言うのかしら?」




