ユグドラシルー1
ミツキが連れ去られた病院には、嫌味なほど清々しい夏ならではのそよ風が吹き込む。
夜中から鳴り響いていた警報がようやく止むころには、多数の病院関係者や、天使殲滅策略本部の職員がミツキのいた病室の周りへ集まり、その現場にちりばめられたガラス片や、フラッシュグレネードの破片を回収していく。
日が昇り朝日が差し込む病室の中心では、夜通し泣いていたミユキが目の周りを赤くし、ミツキの寝ていたベッドで何かを抱えるように寝ていた。
「一体何があったんだ……」
目の前に広がる悲惨な状況に、つばを飲み込むことすらできずにいたトオルは、泣きつかれたミユキの肩を持つことにすら抵抗を感じ、伸ばした手を硬く握りこむ。
割れた窓ガラスから吹き込む風がトオルの頬を叩き、ガラス片が少し日焼けしたその顔の皮膚を切り裂きその目を覚まさせると、病室の扉が静かに開く。
「……お兄様……」、
トオルはガラス片で傷づいた頬ににじむ血を拭い、振り返るとそこには松葉杖をつくためにふさがった両手を起用に使い扉を開け、痛々しく頭に包帯を巻いたカオルが立っていた。
「カオル……目、覚ましたんだな」
「うん……それでお兄様、この状況は?」
今まで目を覚ましていなかったカオルはその刑法にすら気が付くことはなく、その目の前に広がる光景にその思考は及ばずに、しばらくの間その動きを止める。
無残にも割られた窓ガラスが風になびくカーテンを切り裂き、無理やり抜かれた点滴は針の先からポタポタと雫を落とし、ベッドには目を赤くして眠るミユキの姿。
目を覚まさなかった間のことを理解せずとも、その場にいないのが誰なのかは理解することができた。
「お兄様、ミツキはどこにいるんですか?」
目を覚ましたばかりで体に鞭を撃ち病室まで来たカオルの朦朧とする意識の中では、そこにいない人物が一人しか思いつかずにトオルに尋ねるも、トオルは答えることはなく、ただミユキの背中を眺めたまま動きを止めている。
「ミユキ……あいつならすべてを知っているはずだ」
辛うじて腕の怪我が軽い打ち身程度で済んだカオルは、松葉杖をその軋む手で握りしめると、軽快にミユキの眠るベッドまで歩み寄るも、目を覚ますことはなく、依然として眠り続けていた。
一向に目を覚ます様子の無いミユキの姿を見たカオルは、多少の申し訳なさを感じたがその肩をさすり、ミユキの眼を覚まさせると、ミユキは赤く充血した目をこすりながらも徐々にその脳を覚醒し始める。
「カオルさん……」
唯一現場で一部始終を目撃していたミユキは、窓から差し込む太陽光が目に入ると、その時の記憶がフラッシュバックし、ミツキを失った喪失感に駆られた。
「ミユキちゃん? どうしたの?」
「カオルさん……ミツキが、ミツキが!」
我を取り戻すように完全に目を覚ましたミユキは、冷静さを失いカオルの肩にしがみつくと、自分の不甲斐なさに再び泣き出してしまう。
「泣かないで……ね?」
ミユキの涙を受けたカオルは、しがみつかれたことによる痛みなど忘れ、何も言うことはなくそっとその頭を撫でていた。
「カオルさん…………」
その温かい手に触れたミユキは、自分自身という唯一無二の自我を取り戻し、袖で涙をぬぐうと、長時間座っていたことにより重くなった膝を持ち上げ立ち上がる。
多少の迷いの残る瞳をしているミユキだったが、過ぎた時間はもう戻らないことを容易に理解することはできていた。
「大丈夫なのか? ミユキ」
トオルは、立ち上がったミユキのおぼつかない足取りを手伝うように肩を貸すと、ミユキは自分よりも怪我をしているカオルに手を貸すよう促し、自分に手を伸ばさなかったことに対して膨れているカオルに手を伸ばす。
「立てるか?」
カオルはその手を掴み返すと、普段はトオルに見せないような汚物を見る目で睨んでいた。
「立てます!」
差し伸べた手を握られたトオルは、その表情を見ると額に冷や汗をにじませゆっくりと、その体を起こす。
軽蔑の視線を向けていたカオルだったが、トオルの大きな手に握り返された喜びから、思わず顔の表情筋が緩み切り、呆けた表情でトオルから視線をそらした。
「え……? 俺何かしたか⁉ な、なあミユキ!」
助けを求めたトオルがミユキの顔を、捨てられた子犬のような表情で見つめるが、当のミユキは助ける素振りなど一向に見せることはなく、あきれたように大きくため息をつく。
「はあ…………トオルさんといい、ミツキといい、なんでここの男性職員たちはこうも…………!」
ミユキは天使殲滅策略本部の男性職員の鈍感さに悲嘆にくれていると、ミツキが連れ去られた現状を思い出し、身振り手振りで表現しようとするが、肝心な言葉での説明が足りなく、その場にいた職員や病院関係者には伝わらずにただ疑問を残してしまう。
深い事情すら現状のミユキでは話すことができないと、察したカオルはトオルに支えてもらっていた肩から手を放すと、ミユキの肩に手をかけその緊張をほぐす。
「ま、まあ、落ち着いてミユキちゃん」
少し過呼吸気味になっていたミユキは、カオルが宥めたことにより少しずつではあるが冷静さを取り戻し、その呼吸を落ち着かせた。
「すいません、カオルさん。取り乱してしまって……」
「いいのいいの、それよりも、ミツキがどうしたの?」
その場の誰もが知らない夜の間の出来事を話せるほど落ち着いたミユキは、その呼吸を再び一度落ち着かせると、その口を少しずつ開く。
昨夜の出来事が今度は鮮明な映像として映し出されたミユキは、その現場を目の当たりにすると、その記憶が現実だと再び実感させられ、ただ短く一言で事の本質を話した。
「ミツキが何者かに誘拐されました」
その場にいた職員らにその一言は実感が湧かないどころか、日ごろからのミツキの無茶な行動で感覚が麻痺しているため、そのことに今一の実感が湧かない。
その中でもミシマ兄妹だけは事の本質を察し、その顔を青ざめさせる。
「おいおいミユキ、それ……本当なのか?」
事態の深刻さを受け止めつつも未だに信じ切ることができないトオルは、ミユキの肩を掴み尋ねるも、声を出すことはなくただ首を下へ動かすだけだった。
その様子を見たカオルも、本質は理解していたもののそれは軍としての本質であり、ミユキ本人が抱えている問題についての理解が及ばず、終始考え込むようにうつむいている。
「どうしたんだ? カオル」
トオルが心配そうにその顔を覗き込むも、その表情には迷いともとれる曇りが現れていた。
その様子を見つめていたものの、立ち呆けていたミユキは、カオルのうつむく姿を見つめるトオルが不安なっていることを察すると、悩みこむカオルにやさしく声をかける。
「カオルさん?」
「……いや、何でもない……」
「なんだよ、言ってみろよ」
泣いている子供をあやすようにトオルがカオルの肩に手を乗せると、少し安心したのか、カオルはその重たく閉じ切った口を開く。
「ミユキちゃんには最初に謝っておくね……」
「どうしたんですか?」
決意の目をしたカオルは、何かを振り払うようにミユキの顔を見つめると、ミユキはその迫力に圧倒されたかのか、静かに唾を飲み込んだ。
「……私は、ミツキを探すべきではないと思うの……」
苦汁を舐めるようにつらい表情を見せるカオルだったが、ミユキにとってその一言は、何よりも辛く苦しい一言だった。
「何を言ってるんですか……」
ミユキの口は思わずあんぐりと開いてしまう。
それもそのはず、思いを寄せることの覚悟を決めていたミユキは、ミツキがいなくなる現実を受け止めることは容易ではなく、すべてを投げ捨ててでもその救助に向かうつもりでいたため、その一言を聞くことになるとは思いもしなかった。
「いや、私たちは少しミツキに頼りすぎていたと思うのよ。結局〈天機〉を倒すのもミツキ、私たちをまとめるのもミツキ、何をするにも彼に頼りきりなのよ。それに、今のミツキがここにいても、ストレスが溜まって記憶も戻らないかもしれない。だから、その……」
思いの丈を話したカオルはその言葉がミユキに響いたか心配になり、その顔を見つめるとその目からは涙がこぼれ、声は上げずとも確実に泣いている。
覚えがないこともなかったミユキは、そのカオルの思いを理解はしたが、自身の気持ちがあふれてしまった。
「それでも、私はミツキを連れ戻したい! それが軍の総意に背いていたとしても、私にはそんなの関係ない!」
「ミユキ、ちょっとは大人になれよ……」
沈黙を守り続けていたトオルはその口を静かに開く。
カオルの意見に同意したトオルだったが、ミユキの気持ちを考えなかったわけでもなく、その顔はどこか浮かばず、その言葉を受けたミユキ本人ですら、そのことを受け止めていた。
「トオルさんまで……どうしてですか! 確かに私たちはミツキに頼りきりだったかもしれません。でもそうしないと、私たちはとっくに天使に負けていた。それに私は……」
二人に後れを取ることもなく思いの丈を話したミユキは、それからの言葉が出ずにいたが、覚悟を決めた人間の傲慢さは羞恥心すらも凌駕する。
「私は、ミツキのことが好きなんです! 誰にも渡したくはないし、このまま分かれるのも嫌です!」
身振り手振りで話すミユキの迫力に押され切ったミシマ兄妹は、互いにその目を合わせると、あきれたかのように大きくため息をついた。
「はあ……あのなミユキ、俺たちの話ちゃんと聞いてたか?」
「何がですか!」
「ミユキちゃん、私たちは決して探さないとは言ってないのよ?」
「え?」
怒りに身を任せていたミユキはその状況に理解が及ばず、その動きをぴたりと止める。
理解力が停止したミユキが困惑している様子を見たカオルは、体中を蝕む怪我の痛みに耐えながらもその体を立ち上がらせると、ミユキの肩を松葉杖で少し突く。
「だから、探さないとは追ってないんだって。私たちは日ごろからアイツにどれだけ迷惑かけられてると思ってるの? そんな私たちだけ迷惑かけられて不平等よ。この際だから私たちも、存分にミツキに迷惑かけてやろうじゃないの!」
「それって……」
「俺たちもミツキを取り戻しに行くのを手伝うってことだ!」
緊張の糸が切れたミユキは、その架けられたトオルの手の重圧も相まってかその場で腰を抜かしてしまう。
*
「で、だ。ミユキ、何か手掛かりはないのか?」
「暗くて何も……」
腰を抜かしたままのミユキは、その脳裏に焼き付いたフラッシュグレネードの明かりの記憶より前の記憶を思い出すと、何点か思い当たる節があった。
「あ……」
「どうした、何か思い出したか?」
「いえ、あんまり鮮明には覚えてないんですが、ミツキを攫っていった犯人の肩に木のようなマークがついていたんですよ」
「木のマークか……」
その場の誰もがそのマークに見覚えも聞き覚えもない中、病室の扉に一人の大柄な男が壁を伝いながら歩み寄る。
「そりゃあ、きっと〈ユグドラシル〉だな」
唐突に聞こえてきた声に驚いたミユキが扉を見ると、そこには傷だらけのモリタが立っていた。
「……〈ユグドラシル〉ですか……」
ミユキはその名前に聞き覚えがあった。




