第20章 通信
2062年。
破傷風ワクチンの完成から一年が経過した。
ジフテリアワクチンも完成し、現在は時間をかけながら、麻疹ワクチンの研究が続けられている。
人工授精によって「天の子」を妊娠中の空は、一時的にワクチン研究から外れていた。
大きくなったお腹を抱えながら、今は無理をせず過ごしている。
そんなある日。
ハルトが棚田で作業をしていると、てんとう虫通信からトアの声が聞こえてきた。
「お待たせしました。子犬が用意できましたので、これから連れて行きます。一時間後に結の郷の門まで来てください」
「ありがとう。迎えに行くよ」
満奇洞にいるメンバーにも連絡が入り、真生は待ちきれない様子で笑った。
「いよいよだね!」
ハルト、美琴、空、煌、真生が門の近くまで行くと、そこへ大きなロボットが静かにやってきた。
その腕には、眠っている子犬たちの入った箱と、凍結保存された遺伝子のケースが抱えられている。
(これ、いつも砂を掃除してるロボットだよな)
てんとう虫通信から、トアの声が響いた。
『メスが四匹、オスが四匹です。冬場にソリを引くことができる犬種を選んであります。こちらのケースには、将来の繁殖に使う遺伝子を保存しています』
子犬たちは、みんな気持ちよさそうに眠っていた。
「可愛いなぁ」
真生が犬の入った箱を受け取り、美琴は遺伝子のケースを受け取って中を確認する。
「大丈夫なようね」
『では』
トアがそう告げると、ロボットは静かに踵を返し、来た道を戻っていった。
子犬たちは、いったん全員、美琴の動物病院へ運ばれた。
健康状態を確認し、必要なワクチンを接種したあと、結の郷に四匹、満奇洞に四匹に分けて育てることになった。
どうやら、ハスキー系の雑種らしい。
それから満奇洞にいる真生は、毎日の畑仕事をしながら子犬たちの世話をするようになった。
結の郷の子犬たちは、美琴を中心に、皆で大切に育てていく。
数年後には、立派な番犬になっていることだろう。
繁殖についても計画が立てられた。
オスは適切な時期に去勢手術を行い、将来は凍結保存された遺伝子を利用して、近親交配を避けながら血統の多様性を維持していく。
ハルトは棚田に腰を下ろし、ヤギたちを眺めていた。
(あとは……何が足りないだろう?)
すると、クリスが慌てた様子で走ってきた。
「社長! ラファエラさんからワクチン製造について緊急の問い合わせが入っています!」
「ラファエラさんから? わかった、ワクチン専門のやり取りは陣内さんと光に行ってもらおう」
指示を出したハルトは、ふと空を見上げた。
(そうだ……通信だ!)
今はこうして当たり前にやり取りができているが、インフラが完全に停止すれば、てんとう虫通信も使えなくなる。
そうなれば、世界中の仲間たちと連絡を取ることもできなくなるのだ。
ハルトはクリスに向き直った。
「クリス、ラファエラさんたちとの対応が終わったら会議を開く。後藤、それから陸、海、煌、真生を呼んでおいてくれ」
「承知しました!」
陣内と光がラファエラとの技術協議を終えた数時間後、会議室にメンバーが集まった。
ハルトは全員を見渡して口を開いた。
「インフラが停止した後の通信手段を考えたいと思う。アマチュア無線、いわゆるハムの設備を自分たちの手で作って、国内外と通信するんだ。そして、緊急性のない情報や物資のやり取りには手紙……郵便を使う」
ハルトの顔には皺が刻まれているが、その心は、若い頃と何も変わっていない。瞳はキラキラと輝いていた。
「これなら世界の仲間たちの安否も分かるし、手紙や荷物も届けられる。できると思うか?」
その時、会議室のモニターにトアが現れた。
「良い思いつきです、ハルト。ただし、半世紀後には、このモニター類も使用できなくなります」
「だからこそ、人間の手で作り続けられるものが必要なんだ」
「その通りです」
トアのホログラムが静かに明滅すると、会議室のモニターに設計図が展開された。
「現代の電子機器をそのまま再現する必要はありません。重要なのは、電子回路と素材を、文明崩壊後も郷の資源だけで修理・再生できる仕組みにすることです」
トアは、郷の職人たちが扱える素材を中心に、具体的な設計案を示していった。
「基板には、エポキシ樹脂を使用しません」
トアの説明とともに、木製の基板が映し出される。
「要さんが漉いた備中和紙を何層にも重ね、天然漆で固めます。これなら絶縁性を確保しながら、プラスチックに依存せず製作できます」
筐体は真壁源たちが木材で作り、ダイヤルやノブには宮地の備前焼を使う。
「配線には銅線を使います。鈴木家が手紡ぎした絹糸を絶縁材として巻き、その上から天然漆で保護します」
竹筒や木製の胴にその銅線を巻きつければ、高周波コイルも製作できる。
「送信と受信には、職人の手で作るシンプルな真空管を使用します。また、電源すら使えない非常時の受信用として、鉱石検波器も備えておきます」
トアの画面には、職人が手作りした真空管と、鉱石に細い金属針を触れさせる検波器が映し出された。
「現代の集積回路を再現するのではなく、構造の単純な真空管技術を応用します。部品が壊れても、職人たちが作り直せる構造にするのです」
「電源については、既存のソーラーパネルと蓄電池を利用します。木炭電池は、非常時の補助電源として研究しておきましょう」
そして画面には、竹と木材で作られた高いアンテナ塔が映し出された。
「アンテナは、杉本一家が扱える木材や竹を利用し、必要な部分だけ銅線を使用します」
トアの説明を聞きながら、ハルトや若い陸、海、煌、真生たちは息を呑んだ。
「最先端の集積回路を作る必要はありません。この方式なら、部品が壊れても職人たちが修理できます」
トアは続けた。
「そして、短波を利用すれば、半世紀後も世界の仲間たちとモールス信号や音声で通信できる可能性があります」
会議室の空気が変わった。
失われていく文明を、ただ眺めるのではない。
自分たちの手で、次の時代の通信手段を作る。
その挑戦に、若い世代の目が輝いた。
「やろう」
ハルトが静かに言った。
「今のうちに作って、俺たちがいる間に、若い世代へ全部教えるんだ」
煌が頷いた。
「僕たちが受け継いで、その次の世代へ渡します」
真生も笑った。
「じゃあ、俺も覚える!」
こうして、結の郷では新たな挑戦が始まった。
世界中の仲間たちにも、トアから設計図だけが共有された。
「ところで、備中和紙とか世界に送らないとダメだよね?」
ハルトが尋ねる。
今回の通信実験では、各地でほぼ同じ時期に無線機を完成させる必要がある。
もし結の郷から材料そのものを世界中へ送るとなれば、時間も手間もかかってしまう。
すると、トアが静かに答えた。
「結の郷から備中和紙を全世界へ供給する必要はありません。必要なのは『和紙そのもの』ではなく、セルロース系の繊維を重ね、天然樹脂などで処理した絶縁基板です。各地域で入手できる植物繊維に置き換えられる設計にします」
「なら良かったよ」
ハルトは微笑んだ。
「それぞれの土地で作れるなら、世界中に技術を広げられる」
「その通りです」
トアが答えた。
◇
トアの設計図をもとに、職人たちは早速、必要な部品の製作に取りかかった。
小出が天然漆を使った和紙の絶縁基板作りに取りかかり、要は備中和紙を何層にも漉いていく。
山本はガラス工房で真空管の製作に挑み、真田と坂本親子は金属部品の加工に取りかかった。
源は木製筐体の設計を始め、陸と海はトアの指示を受けながら天然水晶の加工方法を研究する。
杉本一家は、アンテナに使う竹と木材の準備を始めた。
完成までには、まだ長い時間が必要だった。
それでも誰も焦らなかった。
これは、一日で完成させるためのものではない。
五十年後にも、その先にも、人間が自分たちの手で通信を続けるための技術なのだ。
その頃。
空は静かに、自分のお腹に手を添えていた。
「もうすぐだね……」
美琴が優しく笑う。
「ええ。無理をしないでね」
煌も空のそばに座り、母親になる彼女を静かに見守っていた。
結の郷では、無線機の製作が始まった。
そして同じ頃、新しい命もまた、誕生の時を迎えようとしていた。
(第21章へ続く)




