鮮やかな世界へ、もう一度
第10章:鮮やかな世界へ、もう一度
三月四日。二十九歳になって初めて迎える朝。 目が覚めたとき、部屋を包んでいたのは、かつての無機質な静寂ではなく、どこか春の予感を含んだ柔らかな光の粒子だった。
私はベッドの中で、自分の右手のひらをじっと見つめる。 昨夜、瀬尾さんの温もりに触れていた感覚。彼の低い声が、私の名前を呼んだ瞬間の耳の奥の熱。それらは決して夢ではなく、私の新しい人生の一部として、確かにここに刻まれていた。
起き上がり、窓を開ける。 冷たい空気の中に、微かに土の匂いと、どこかの家で朝食を作る香りが混じっている。 半年前、健吾と別れた直後の私は、この外の世界と繋がるのが怖くて、カーテンさえ開けられずにいた。自分の輪郭が他人の視線に触れるたび、そこから「好き」という感情が漏れ出してしまうのを恐れていたから。
けれど、今は違う。 私はキッチンへ向かい、お気に入りのマグカップにコーヒーを注ぐ。 湯気の中に、昨夜瀬尾さんが言った言葉が溶け出していく。 『壁の向こう側にいるあなたを、僕に守らせてくれませんか?』 その言葉は、私にとっての救いだった。完璧であろうとしなくていい。二十九歳という数字に怯えなくていい。ただ、ここにいる自分を、そのまま愛していい。
私は、ラベンダー色のカーディガンを羽織り、家を出た。 いつもの通勤路。いつもの地下鉄。 周囲を見渡せば、相変わらず人々は無表情で、都会の景色はどこか殺伐としている。 けれど、私の目には、そのすべてが「色の標本」のように美しく映っていた。 ベンチに座る老夫婦が纏う穏やかなグレー。走り去るバスの鮮やかなイエロー。そして、オフィスのエントランスに飾られた、まだ固い蕾を抱いた桜の枝。 色のない生活、なんて嘘だ。 世界には最初からこれほどの色彩が溢れていたのに、私が勝手にグレーの眼鏡をかけていただけなのだ。
オフィスに着くと、デスクの上には昨日と変わらない書類の山があった。 けれど、キーボードを叩く指先は軽い。 「おはようございます、松原さん」 隣の席に座った先輩に、私は迷いのない笑顔で声をかけた。 「……あれ、加奈ちゃん。今日、なんだかすごく……発光してる?」 松原さんが目を丸くして笑う。 「幸せのお裾分け、いつか詳しく聞かせなさいよ。三十路手前でそんなに綺麗になれるなら、私も希望が持てるわ」 「ふふ、また今度、ゆっくり」
午前中、商品開発部との定例ミーティングがあった。 会議室に入ると、そこには資料を広げる瀬尾さんの姿があった。 公の場。私たちは、ただの同僚として振る舞う。けれど、彼が私に視線を向け、微かに頷いたその瞬間、私の中にだけ小さな火花が散った。
彼と目が合うたび、心の中にあった「透明な壁」の残骸が、きらきらと光る砂になって消えていく。 瀬尾さんは、私の「再生」を静かに見守ってくれている。 お昼休み、私たちは偶然を装って給湯室で二人きりになった。 「……昨日は、眠れましたか?」 瀬尾さんが、コーヒーを淹れながら小声で尋ねる。 「ええ。驚くほどぐっすりと。二十九歳の初夢は、すごく明るい色の夢でした」 「それは良かった。……これ、僕からのささやかなお礼です」 彼が手渡してきたのは、一枚の小さな付箋だった。 そこには、彼の几帳面な字で、一軒のレストランの名前と電話番号、そして一言だけ添えられていた。 『次の週末、また色の続きを見に行きましょう。』 私はその付箋を、大切な宝物のようにポケットに仕舞った。 特別なご馳走や、高価なプレゼントが欲しいわけじゃない。 ただ、こうして明日や来週の約束があること。誰かと「未来」を共有できること。 その平凡で、けれど何よりも贅沢な幸せが、今の私を支えている。
退社時間。 私は、駅ビルの惣菜売り場で立ち止まった。 三割引のシールが貼られたひじきの煮物。以前の私なら、迷わずそれを手に取って、一人寂しく食べる夕食の糧にしていた。 けれど、今の私は、少しだけ奮発して、色鮮やかな季節の野菜がたっぷり入ったデリを選んだ。 自分のために、美味しいものを選ぶ。 自分のために、花を一輪買って帰る。 誰かに愛されることで、私はようやく、自分自身を愛することを思い出したのかもしれない。 帰宅し、部屋の明かりをつける。 シーリングライトの光が、新しく飾ったチューリップの花びらを照らしている。 かつては健吾との思い出に支配されていたこの部屋も、今は、新しい私と、瀬尾さんとの未来を予感させる空間へと変わりつつあった。
ふと、スマホが震えた。 健吾からだった。半年間、一度も連絡がなかった彼からの、短すぎるメッセージ。 『誕生日おめでとう。元気でやってるか。』 その文字を見た瞬間、私の胸に去来したのは、痛みでも未練でもなかった。 ただ、純粋な「感謝」だった。 彼と過ごした三年間があったからこそ、私は「好きの気持ちが置き去りになる」という寂しさを知った。そしてその寂しさを知っていたからこそ、今、瀬尾さんの手のひらの温もりがこれほどまでに深く染み渡るのだ。 『ありがとう。私は、とても元気です。』 私はそれだけ返信し、彼のトーク画面を閉じた。 もう、後ろを振り返る必要はない。 夜、バルコニーに出て、都会の夜景を眺める。 昨夜、瀬尾さんと見たあの輝き。 一つ一つの光の向こうに、誰かの人生があり、誰かの恋があり、誰かの「透明な壁」があるのだろう。 かつての私と同じように、モノクロームの標本箱の中で息を潜めている女性たちへ、私は心の中で伝えたい。 壁は、壊そうとしなくても、誰かがそっと触れてくれるだけで崩れることがある。
二十代が終わることは、喪失ではない。 本当の自分、本当の色に出会うための、美しい準備期間だったのだと。 私は、二十九歳の夜空に向かって、深く呼吸をした。 明日の朝も、コーヒーはきっと熱くて、美味しいだろう。 明日のオフィスも、瀬尾さんの視線が、私を鮮やかにしてくれるだろう。 色のない生活は、もう終わり。 私は今、人生で一番美しい色彩の中に、もう一度、足を踏み出す。 透明な壁の壊しかた。 それは、隣にいる誰かの体温を、ただ信じること。 さようなら、二十八歳の私。 はじめまして、鮮やかな世界で生きる、私。 三月の風に乗って、私は春の扉を、力強く押し開けた。




