期末テスト
期末試験が始まった。
教室には、いつもとは違う緊張感が漂っている。
最後の最後まで教科書を確認する者。友人同士で問題を出し合う者。すでに諦めたのか、机に突っ伏している者。
そんな中、ひときわ異彩を放つ生徒が一人いた。
かぐやである。
シャッ、シャッ、シャッ。
静かな教室に、規則正しい音が響いていた。
かぐやは机の上に硯を置き、慣れた手つきで墨をすっている。
もはや見慣れた光景だった。
転校してきた当初こそ奇異の目で見られていたが、今では誰も気に留めない。
いや、気にしないようにしている、と言った方が正しいかもしれない。
「ねえ、かぐや」
「なんじゃ?」
「もしかして、テストも筆で書くつもり?」
かぐやは手を止め、不思議そうに月を見た。
「当たり前じゃ。ほかに何で書くというのじゃ?」
「……シャーペンとか」
「そのようなものでは、わしの字が乱れるではないか」
「そ、そう……」
月はそれ以上、何も言わなかった。
かぐやの書く文字が美しいことは知っている。
ただし、その文字を現代人が読めるかどうかは、また別の問題だった。
(……大丈夫なのかな)
一抹の不安が胸をよぎる。
だが、今は人の心配をしている場合ではない。
月には目標があった。
東京の国立大学に進学すること。
そのために、普段から勉強には力を入れている。授業の予習復習も欠かさないし、試験前には計画を立てて準備してきた。
今回の期末試験も、もちろん手を抜くつもりはない。
(よし、集中、集中!)
月は小さく息を吐き、机の上の筆記用具を確認した。
その隣では、かぐやが満足そうに墨の濃さを確かめている。
「うむ。よい墨じゃ」
(……本当に大丈夫かな)
結局、もう一度だけ心配になった月だった。
◇ ◇ ◇
教室の扉が開き、試験監督の教師が入ってきた。
月たちの学年では見かけない、少し厳格そうな男性教師だった。
「それでは、教科書をしまってください。机の上には筆記用具だけを残すように」
生徒たちが慌ただしく準備を始める。
教師は教室を見回しながら、ゆっくりと机の間を歩いていた。
そして、かぐやの席で足を止めた。
「……君、何をしている?」
「墨をすっておる」
「それは見ればわかる。そうではなく、なぜ墨をすっているんだ?」
「字を書くためじゃが?」
教師の眉間にしわが寄った。
「ペンは持っていないのか?」
「持っておらぬ」
「鉛筆は?」
「ないのう」
「……君は試験をふざけているのか?」
かぐやはきょとんとした顔で教師を見上げた。
「なぜじゃ?」
「なぜじゃ、ではない。これは大事な試験なんだぞ。普通の筆記用具を使いなさい」
「これも筆記具じゃが?」
「そういうことを言っているんじゃない!」
教室のあちこちから、小さな笑い声が漏れた。
月は額に手を当てた。
(ああ、やっぱりこうなった……)
教師は咳払いをすると、少し声を低くした。
「君ね、これ以上ふざけた態度を続けるなら、試験を受けさせるわけにはいかなくなるぞ」
「ふむ。では、わしが何の規則に違反しておるのか教えてくれぬか?」
「何?」
「試験で筆を使ってはならぬという決まりがあるのか、と聞いておる」
「そんなことは常識だろう!」
「常識と規則は別物じゃ」
かぐやは涼しい顔で続けた。
「この竹田鳥山学園は、今年で創立百年を迎えるそうじゃな」
「それがどうした?」
「学園の校則には、試験に使用する筆記具について、こう記されておる」
かぐやは胸を張った。
「『試験に用いる筆記具は、鉛筆または筆とする』」
「…………」
教師が黙り込んだ。
「つまり、わしは校則に従っておる。何か問題でもあるのかえ?」
「いや、そんな古い校則が……」
「あるぞ。入学時に配られた冊子に書いてあったではないか」
教師は困惑した顔を浮かべた。
どうやら、そんな規則があることなど知らなかったらしい。
そのときだった。
「……え?」
月が小さく声を漏らした。
(ちょっと待って。鉛筆、または筆……?)
月は自分の手元を見た。
そこには、いつも愛用しているシャープペンシルがあった。
(……シャーペンは?)
かぐやが、ふと月の方を見る。
「ところで月よ」
「な、何?」
「そなたが持っておる、その先から細い芯が出る道具じゃが……」
「シャーペンだけど?」
「それは鉛筆なのかえ?」
「……え?」
「校則には鉛筆か筆とある。ならば、そなたの方こそ校則違反ではないのか?」
「…………」
月は固まった。
教師も固まった。
教室中の生徒たちが、自分のシャープペンシルを見つめた。
そして、誰かがぽつりとつぶやいた。
「……俺たち、全員アウトじゃね?」
教室が笑いに包まれた。
「静かに!」
教師が声を張り上げる。
しかし、その教師の手にも、シャープペンシルが握られていた。
かぐやがそれを指さした。
「先生もじゃな」
「…………」
再び、教室が爆笑した。
月は机に突っ伏したくなった。
(お願いだから、もう試験を始めて……!)
結局、学年主任に確認することになり、試験開始は少し遅れた。
そして、筆もシャープペンシルも使用を認められることになった。
「……それでは、試験を始めます」
ようやく教室に静寂が訪れた。
カリカリ、カリカリ。
生徒たちが一斉に答案用紙へ向かう。
その中で、ひときわ優雅な動きを見せている者がいた。
かぐやである。
筆先が紙の上を滑るように動き、流麗な文字が次々と書き込まれていく。
月はちらりと隣を見た。
(……なんか、書道の授業みたい)
しかし、すぐに自分の答案へ視線を戻す。
今は人の心配をしている場合ではない。
◇ ◇ ◇
一つ目の試験が終了した。
「はあ……」
月は大きく息を吐いた。
隣では、かぐやが満足そうに筆を片付けている。
「ねえ、かぐや」
「なんじゃ?」
「お願いだから、変なことして周りの人のペースを乱さないでよね」
「知らぬ。わしはいつも通りにしておるだけじゃ」
「それが問題なんだけど……」
「妙なことを言うのう」
まるで取り合う気配がない。
月はそれ以上の説得を諦めた。
その後も試験は続き、何とか初日の日程が終了した。
「終わったぁ……!」
月が机に突っ伏した、そのときだった。
「かぐや先輩!」
「かぐやさん!」
教室の入口から、聞き覚えのある声が響いた。
星羅と委員長である。
二人は真っすぐ、かぐやの席へ駆け寄ってきた。
「かぐや先輩! 本日の試験はいかがでしたの?」
「難しい問題はありませんでしたか?」
月が顔を上げる。
「いやあ、結構難しかったよね。特に最後の問題なんか……」
「月先輩には聞いてませんことよ」
「…………」
(このガキ……!)
月はこめかみをぴくりと動かした。
しかし、ここで怒っては大人げない。
「……そうでございますか」
精いっぱい上品な笑顔を作って答えた。
星羅は満足そうにうなずくと、再びかぐやへ向き直った。
「それで、かぐや先輩はいかがでしたの?」
「ふむ。取り立てて問題はなかったぞ」
「まあ! さすがかぐや先輩ですわ!」
「やはり、かぐやさんには簡単すぎたのでしょうね」
「この学園の試験など、かぐや先輩にとっては朝飯前ですもの!」
「まったくです。きっと素晴らしい成績でしょう」
始まった。
月は無言で筆箱を鞄にしまった。
(はいはい。今日も絶好調ね……)
「かぐや、帰ろう」
「うむ」
月が立ち上がると、星羅と委員長が同時にこちらを振り向いた。
キッ!
二人の視線が突き刺さる。
(……怖っ)
だが、こんなことは日常茶飯事だった。
月は気にせず、かぐやの荷物をまとめる。
すると、委員長が何かを思い出したように口を開いた。
「そういえば、かぐやさん」
「なんじゃ?」
「かぐやさんは、将来どちらの大学へ進学されるおつもりですか?」
突然の質問に、月は手を止めた。
かぐやは少しも迷わず答える。
「月と一緒じゃ」
「……え?」
月が思わず声を漏らす。
しかし、委員長の反応は違った。
「そうですか! それなら僕と一緒ですね!」
ぱっと顔を輝かせる。
「僕も東京の国立大学を志望しているんです。医学部ですが」
そう言って、ちらりと星羅を見た。
ふふん。
声には出さなかったが、明らかに勝ち誇った顔だった。
星羅の眉がぴくりと動く。
「……そうですの」
しかし、すぐに優雅な笑顔を浮かべた。
「わたくしも、かぐや先輩の後輩になれるよう、精いっぱい頑張りますわ!」
「後輩?」
「ええ! かぐや先輩と同じ大学へ進学できるなら、これほど光栄なことはございませんもの!」
「なるほどのう」
かぐやは感心したようにうなずいた。
一方、月は二人の顔を交互に見つめていた。
(……ちょっと待って)
かぐやは確かに、自分と一緒の大学へ行くと言った。
だが、そもそもかぐやが大学へ進学する必要があるのだろうか。
そして何より。
(私、まだ合格してないんだけど!?)
月は思わず叫びそうになった。
◇ ◇ ◇
帰り道。
月とかぐやの周囲には、いつもの顔ぶれが揃っていた。
星羅と委員長である。
二人はかぐやの左右を固め、まるで要人警護でもしているかのように歩いていた。
「かぐや先輩、お荷物は重くありませんこと?」
「うむ。大したことはないぞ」
「もし重ければ、そこのむさい男子に持たせますわ」
「む、むさい男子!?」
委員長がショックを受けたように声を上げる。
「男子がお嫌でしたら、月先輩に持たせましょう」
「ちょっと星羅! あんた私を何だと思ってるの!?」
「……何か問題でも?」
「問題しかないわよ!」
星羅は不思議そうに首をかしげた。
「月先輩は、かぐや先輩のお世話係ではありませんの?」
「違うわよ!」
「まあ。では、普段は何をなさっているんですの?」
「普通に友達やってるわよ!」
「……そうでしたの」
星羅は少し考え込んだ。
「それなら、なおさらお荷物くらい持って差し上げるべきでは?」
「なんでそうなるのよ!」
「ふふふ。月は人気者じゃのう」
「誰のせいだと思ってるの!」
かぐやは楽しそうに笑っていた。
マンションが見えてきても、二人の護衛は帰ろうとしなかった。
「ねえ、二人とも。もうここまででいいから」
「何をおっしゃいますの、月先輩。かぐや先輩を最後までお送りするのは当然のことですわ」
「そうですよ。途中で何かあってはいけませんから」
「何かって何よ。ここ、うちのマンションなんだけど」
「万が一ということもありますわ」
「ないわよ!」
結局、マンションの入口まで見送られることになった。
「かぐや先輩! 明日も頑張ってくださいまし!」
「かぐやさん、また明日!」
「うむ。そなたらも励むがよい」
二人は満足そうに帰っていった。
月はその後ろ姿を見送り、大きくため息をついた。
「……毎日よく飽きないわね、あの二人」
「よい者たちではないか」
「まあ、悪い子たちじゃないけどさ」
月は少し笑った。
「特に星羅。あの子、私にだけ当たり強くない?」
「仲がよい証拠ではないかえ?」
「絶対違うと思う」
二人はマンションへ入り、エレベーターに乗った。
扉が閉まり、静かな機械音とともに上昇を始める。
「ねえ、かぐや」
「なんじゃ?」
「あんた、私と同じ大学を希望してるの?」
「うむ」
「いつ決めたのよ。そんな話、したことなかったじゃん」
「月が行くのであろう?」
「そうだけど……」
月は少し困った顔をした。
「大学って、そんな簡単に入れるものじゃないんだからね。私だって頑張って勉強してるんだし」
「そうじゃな」
「それに、東京に行くってことは、今の生活ともいろいろ変わるんだから」
「……うむ」
かぐやは小さくうなずいた。
そして、ぽつりとつぶやいた。
「……そこまで居れればな」
「え?」
月には、よく聞き取れなかった。
「何か言った?」
かぐやは一瞬だけ月を見つめた。
それから、いつものように笑った。
「わしは月とずっと一緒じゃ」
「……なっ!」
月の頬が、ほんのり赤くなる。
「な、何よ急に! 恥ずかしいこと言わないでよ!」
「本当のことを言ったまでじゃが?」
「もう! そういうこと、さらっと言わないでよね!」
「では、改まって言えばよいのか?」
「そういう意味じゃない!」
かぐやは声を立てて笑った。
月も、つられて笑ってしまう。
「……ほんと、あんたにはかなわないわ」
「ふふっ。そうかえ?」
エレベーターの到着を知らせる音が鳴る。
扉が開き、二人は並んで歩き出した。
◇ ◇ ◇
それから数日。
期末試験は、いよいよ最終日を迎えた。
初日の筆騒動は、いつの間にか学園中に広まっていた。
試験監督の教師が交代するたびに、かぐやの机を二度見する。
しかし、誰も何も言わなくなった。
どうやら、職員室でも話が通っているらしい。
かぐやは相変わらず、毎朝せっせと墨をすっている。
月も、もう何も言わなかった。
ただ、試験が続くにつれて、月の口数は少なくなっていた。
朝は教科書を読み返し、休み時間もノートを確認する。
家に帰ってからも、翌日の科目に備えて机に向かう。
東京の国立大学を目指す以上、定期試験だからといって気を抜くつもりはなかった。
そして、最後の科目。
「始めてください」
教師の声が響いた。
月は問題用紙をめくり、シャープペンシルを走らせた。
今まで勉強してきたことを、一つずつ答案用紙へ書き込んでいく。
時計の針が進む。
最後の問題を解き終え、月は答案を見直した。
もう一度、計算を確認する。
誤字がないか確かめる。
残り五分。
(……よし)
もう一度、答案を確認する。
残り一分。
(大丈夫。やれることは全部やった)
そして。
キーンコーンカーンコーン。
「そこまで。筆記用具を置いてください」
月はシャープペンシルを置いた。
終わった。
ついに、期末試験のすべてが終了した。
「…………」
月はしばらく答案用紙を見つめていた。
教師が答案を回収していく。
教室のあちこちから、安堵のため息が漏れた。
「はい、これで全科目終了です。皆さん、お疲れさまでした」
教師が教室を出ていった。
「…………」
月はまだ動かなかった。
「……終わった」
ぽつりとつぶやく。
「月よ?」
「……終わった?」
「うむ。終わったぞ」
月はゆっくりと顔を上げた。
そして。
「終わったあああああっ!!」
突然、両手を突き上げた。
「やった! 終わった! 終わったわよ、かぐや!」
「う、うむ。聞こえておる」
「自由よ! 自由! もう試験勉強しなくていいのよ!」
「いや、月よ。受験勉強は……」
「今は言わないで!」
かぐやが口をつぐんだ。
月は勢いよく立ち上がる。
「遊ぶわよ! ガンガン遊ぶわよ!」
「月よ、少し落ち着かぬか」
「落ち着いてられるかああ!」
近くの生徒が驚いて振り向いた。
だが、月は止まらない。
「旅行に行って! 美味しいもの食べて! お祭りにも行って!」
「うむ」
「海にも行きたいし! 買い物もしたいし! あ、カラオケも!」
「ずいぶん忙しそうじゃのう」
「それから恋をして!」
そこで月は、ぴたりと動きを止めた。
「……いや、恋はできるかわかんないけど」
「なんじゃ、それは」
「いいの! そこは今後の努力目標!」
「ふむ。努力でどうにかなるものなのかえ?」
「知らないわよ!」
月は自分で言って、自分で笑った。
なんだかもう、何もかもが楽しかった。
試験のことも、受験のことも、今だけは全部忘れていたい。
月は両手を腰に当て、鼻息荒く宣言した。
「とにかく! この休み、絶対に無駄にしないんだから!」
そして、かぐやにびしっと指を突きつける。
「いいわね、かぐや! あんたも付き合うのよ!」
かぐやは一瞬きょとんとした後、柔らかく笑った。
「ふふっ。承知したぞ、月」
「よーしっ! 遊ぶわよおおお!」
教室中の視線が月に集まった。
だが、今の月にはそんなことなど、どうでもよかった。




