第一章7話『あの日見た双眸は』
「……ん」
短く鳴らした喉を合図に、水底に沈んだ意識が微睡みの中、浮上し始める。瞼が重く、朦朧とした意識のまま水に濡れた眼を擦り、溺れたままの脳の覚醒を促す。が、その試みは不要だった。何故なら――、
「起きましたか、イリス」
存在しないはずの第三者の存在に、寝ぼけた思考は急速に鋭敏になっていった。
こちらの顔を優しい笑顔で覗き込んでいる白髪の老人と目が合う。彼はこの教会の神父様で、イリスの祖父の友人であり、治癒魔法の師匠でもある。この、人の寝顔を眺める事が生き甲斐という悪癖を持つお爺さんは、今回もイリスの寝顔を鑑賞していたらしい。
そんな彼に、まだ眠気の残った声音で名前を呼ぶ。
「️ニムレットさん……」
「おはようございます、聖女殿。容態はどうですか?」
それを聞いた瞬間、眠気が全身から吹き飛んだ。と同時に、寝込む以前の記憶が一気に蘇る。
「いえ、特に異常は。それより、あの戦いはどうなりましたか? 私は何故ここに?」
糸目の老人――ニムレットにそう問いかけつつ、イリスは辺りをキョロキョロと見回す。
白一色――とまではいかないが、それでも白が目立つ部屋だ。所々ピンクや水色の家具があるが、それも様々な白を際立たせるのに一役買っていた。
まぁ実際はその強調効果は偶然の産物で、この部屋の持ち主が単純にピンクや水色といった淡く優しい色が好みだから、というのが事の真相だ。つまりは、イリスの自室である。
「いえ、それより――」
――と、そこまで現状把握してふと、一つの疑問が浮かび上がる。浮上した疑問は不可解に、不可解は不信感に、不信感は憤慨へと変わっていった。
「――毎回の事ですけど、何であなたは私の部屋に無断で入ってくるんですか!」
「ほほ、何を言い出すかと思えば。私はこの教会の神父ですよ? なれば、その教会の一室であるここも私の部屋ということになりましょう」
「なりません! 何度言えば分かるんです!? 入るなら! 私の許可を! 得てくださいっ!」
「ほう、許可を得れば良いのですね? では等価交換といきましょう。あなたが眠っている間の事を教える代わりに、私に自由な入室の許可を」
――分かっている。これは、ニムレットなりの優しさだ。イリスの心労を少しでも軽減しようと、あえて身も蓋もない話題を続けている。そのくらい、ちゃんとイリスも分かっている。
気持ちは嬉しい。だが、今はイリスの心情よりも優先するべきことがある。
「――お戯れはそこまでにしてください。今はあなたの冗談に付き合っている余裕が無いんです」
「ほほ、失敬失敬。では、お話しましょうか――あなたが眠っていた三日間の事を」
「み、三日!?」
優しい笑顔を崩さないニムレットの衝撃発言に思わず声を大きくしてしまう。そのことを恥じ、イリスは咄嗟に口を覆う。
「ええ、何でも発見当時、血の海でうつ伏せに寝ていたようで。因みに、少しでも発見が遅れていたら窒息死もあったそうですよ? ――魔力の使い過ぎです。以前も忠告しましたが、それ以上酷使すれば意識を永遠に手放す事になりかねません」
「……はい、心に留めておきます」
「よろしい。では、続けますね」
それからニムレットは、イリスの知り得ない数々を教えてくれた。
シスターはイリスを除いて皆殉職したこと。
あの五日間にも及ぶ戦闘が帝国軍の大敗で終わったこと。
それを受けて過激派がかねてより王都に忍ばせていたスパイに、『侵色』の命を狙った大規模な暴動を勝手に起こさせたこと。
王国はそれを帝国の不正な侵略行為とみなし、すぐにでも国土を血の海に変えると宣戦布告していること。
帝国内部でも責任の所在で上層部の意見が真っ二つに分かれていること。
南の商業大国が仲裁の申し出を両国に送っていること。
――そして、今日帝国に『侵色』が密入国したこと。
「――すみません、冒頭から情報量が多すぎて処理できそうにないです。えっと、あの殺し合いの後に王国内で帝国の過激派が独断で殺戮行為を働いたと?」
「えぇ、違いありません」
「それを王国は帝国の侵略だと主張し、今にも我が国土に踏み入ろうとしていると?」
「えぇ、そう聞きました」
「そして今まさに、帝国が大敗を喫した直接的な原因が帝都内を歩き回っていると?」
「えぇ、そのようです」
「ふざけているんですか?」
「えぇ。と私も言いたい限りなのですが。至って真面目ですよ」
「――――」
糸目の神父が語る内容に彼の正気を疑いたくなるが、残念ながらイリスの目を見て真剣に語るニムレットの顔に嘘は無い。そもそもニムレットは人を不安にさせる冗談を言わない。その彼がこう話している以上、少なくともニムレットの知り得る情報に嘘偽りはない。
「被害は――」
「ご心配なく。まだ被害者は出ていません。それに、彼女には不思議と誰かを害する意思がないようです。兵士の話では『城を探している』などと譫言を呟きながら、ふらふら歩いていると。道行く人には一瞥するに留め、帝都内を不規則に徘徊中と伝え聞いています」
「もっとも、無害なように見せかけ機を見計らい本性を表す、といった線も考えられますがね」と付け加えられたものの、心の底から安堵の息が漏れた。
寝ている間に死者でも出ようものなら、イリスの胸は無念と哀傷で埋め尽くされる。それに、それではイリスの「復讐」が果たせなくなってしまう。
どういう意図かは想像すらできないが、あの侵入者は少なくとも今は、民間人や兵士に手を出すつもりはないらしい。
――『侵色』が、帝都にいる。戦友も、面識は無くとも顔は知っている兵士も、共に平和を語らった『癒し手』の皆も、後方支援で安全だからとイリスと共に帝国軍から召集されたシスター達も、あの少女一人に命を踏み躙られた。
大切な人達を奪った仇敵、憎悪の感情がイリスの心中を支配する。が、それと同時に、彼女が別れ際に見せた不意の涙が脳裏をちらついてしまう。右足から漏れ出る血があまりにも痛々しくて、反射で治癒魔法をかけてしまったあの時――少女が零した透明な雫が、消えてくれない。
「――して、イリス。これからどうするおつもりですか?」
タイミングを見計らったように、イリスの思考が纏まった瞬間にニムレットが声をかけてきた。その両目を、決意を灯した眼で見つめ、力強く答える。
「……『侵色』を、探します」
「それは、『純白の聖女』としてですか?」
「いえ――イリス・ミリネスとして、です」
「――そうですか」
親愛なる同僚を一挙に失った哀しみは癒えない。事実、全てが突然の事すぎてまだ現実を受け入れられていない自分を、イリスは自覚している。
しかし、ここで立ち止まっては殉死した彼女達に悪い気がした。憎しみの炎に身を任せるか、涙の理由を問い質すか。どちらの目的が優位になるか、イリス自身にもいざ対面してからでないと想像もつかない。それぐらい、現在のイリスは自分の感情を持て余している。
だが間違いなく言えるのは、どちらに転ぶにしてもそれはイリス・ミリネスとしての決断であり、『純白の聖女』としての対応ではないということだ。
てっきり聖女としての職務を果たしなさい、などと念を押されると予想していたが、その予想に反してニムレットは目尻を下げ、ただただイリスに笑いかけるのみだった。
「現在、帝国兵の大半は城の警備に当てられています。旅人の観察任務に割り振られる者もそう多くは無いでしょう。――行ってらっしゃい、イリス。あなたの道に幸あらん事を」
「……行ってきます、ニムレットさん――ありがとう、ございました」
感謝の想いを胸いっぱいに詰め込み、深々と頭を下げる。
あの糸目は、この短いやりとりの中でどこまで見通したのだろうか。きっとこの決断も、その過程で自分の心を深くえぐったことも、何もかも筒抜けなのだろうなと、根拠は無いがそう思った。
「――ところで、私を着替えさせてくれたのは誰ですか?」
「――――――シスターですよ」
イリス以外のシスターは先程の戦闘で命を落としていた。
□■□ □■□
「あぁ、もう! 何なんですか、あの人は!」
そんな幕引きだったから、当然イリスは教会を出た後も烈火の如く憤っていた。
「正直に謝ってさえくれれば私だって対応を考えたというのに、よりにもよってあんな見え透いた嘘でやり過ごそうとするなんて!」
これが、イリスに悟らせまいと工夫が凝らされた詭弁であればまだ良かった。それだったらイリスも、ニムレットの優しさに素直に甘えることができた。
しかし、考えるまでもなく嘘だと分かる虚言を放つだなんて、不器用にも程がある。暴きたくなくてもひとりでに剥がれていく類の言い訳で、否が応にも事実を直視させられる。
「勿論、教会の皆さんが亡くなってしまった今、ニムレットさんしか私のお世話ができないのは理解できます。血塗れのままでは不衛生だからと慮ってくれた結果の行為だということも、ちゃんと分かっているつもりです。感謝もしています」
ニムレットの思いやりは素直に嬉しいし、そのお陰で今綺麗な服装と体で街中を歩けていることも、分かっている。
ニムレットの尽力無しに、イリスの女の子らしさは保たれていなかった。何度指摘しても改善されない普段の奇行に目を瞑れば、ニムレットはイリスの知る中で最も人として完成された存在だ。
今回の事も純粋に我が子同然のイリスを想っての事だったに違いない。
「それぐらい私でも分かります。分かっています。ですが――」
そもそも、幼少期には一緒にお風呂にも入っていたのだ。物心ついたあたりで教会に預けられたイリスにとって、ニムレットは肉親のような存在だった。それを考えれば、今回のことも何ら恥ずかしいものでは無い。
ニムレットの行いは正しい。何も間違っていない。理屈では納得している。だから、今イリスを悶々とさせている原因は理屈以外の所にあり、即ち――、
「それはそれとして、このふつふつと湧き上がる行き場のない感情はどうすればいいのでしょう……!」
「い、イリス様!? わ、私に聞かれても……」
「ひぇあ!? ぇ、あ、い、いぇ……お、お気になさらず……すみませんでしたっ!!」
突然の予期せぬ返答に仰天し、しどろもどろになりつつそう言葉を返し、一目散に飛び去った。
どうやら、イリスが心からの叫びを発した場所は偶然にも露店の目の前だったらしい。
あの店主には悪い事をしたと思うと同時に、遅れてやってきた羞恥心でどうにかなってしまいそうだった。
□ ■ □
ともあれ、なんとか犯行現場から遠ざかり、一息つく。
これは街中を歩いていて気付いたことだが、どうやら『侵色』の侵入は、一般人には知らされていないようだ。商店街はいつも通り賑わっているし、子供のはしゃぐ声も聞こえる。
ニムレットに情報提供した兵士曰く、『侵色』に無差別殺人の意図はないようなので、それが彼女の演技でなければむしろ不要な刺激をしない現状が一番安全であると考えられる。
とはいえ『侵色』が危険因子であることに変わりは無い。私服帝国兵が何名か、監視に当たっているのは確実だ。
また、城が目的であると判明しているので、ニムレットの言葉通り皇城の守備も固めていよう。
そう考えると、少なくとも『侵色』が変な気を起こさない限りは、街中で血が流れることはないと見ていい。精神衛生上、ひとまずそう断定しておく。
「……」
現在の帝都について考察を深めることにより、直前の失態から無理やり意識をそらすことができた。
そうして頭を初期状態に戻した時に脳裏に過ぎったのは、あの漆黒の双眸から流れる透き通った涙だった。
「あの人は、どうして」
帝国の聖女という立場上、敵――それも️ランゴルマージ帝国に甚大な被害を及ぼし続けている、数え切れない命を奪ってきたあの『侵色』にこう考えてはいけないことは分かっている。
冷酷な仇敵の手で、イリスの大切な人達の人生が――数多くの帝国兵が彼女の手にかけられたことも、目の前で瞬く間にシスターの面々の体が断たれたことも、分かっている。
そんな、イリスの人生最大の侵犯者を相手に、こんな事を感じてはならないことも、分かっている。
だが、それでも️イリスは哀しかった。哀しさを感じずにはいられなかった。無感情にみえて、ただ感情に蓋をしているあの助けを求める目が、どうしても忘れられない。だから――、
「――ぁ」
街路で彼女を見かけた時、反射で身体が動いていた。
「あの……!」
「――ぇ」
『純白の聖女』としては、お尋ね者かつ帝国の宿敵である少女を捕縛するか通報するべきだ。帝国に仇なす王国兵に容赦はいらない。そもそも王国側が一方的に仕掛けた戦争だ。正当防衛ですり減る一方の帝国側に、責はない。
それに一人の少女としても、『侵色』は多くの戦友や友人の仇。職務関係なくともこの手で引導を渡すか、通報し捕え極刑の沙汰を待つべきだ。
しかし、イリスはそうしなかった。覚束無い足取りで街路を歩く仇敵に駆け寄り、声をかける。そして、黒色のフードの向こう、こちらを見上げる顔を見る。
その目からは、光が消えていた。




