#32
まさか、という考えとともに心臓が止まりそうになる。聖剣の出来栄えに浮かれている場合などではなかったのだ。
慌てて探そうとするアレスの耳に、小刻みに乱れた足音が聞こえてくる。視線を向けると、こちらに向かって全力疾走してくるレイチェルの姿があった。息も絶え絶え、今にも転びそうな足取りだったが、それでも何とか必死に倒れずに進んでくる。
その背後から、別の人影が迫ってくる。こちらは別に走っているわけではなく普通に歩いているのだが、それでもレイチェルが足を止めたら即座に追いつきそうな迫力を感じた。
やがてアレスの元に辿り着いたレイチェルは、ついに力尽きてその場に転がるようにして倒れ、そして酸欠状態と戦いながらなんとかアレスに言葉を伝える。
「ぜはっ、ぜはっ、あの、ルティアに、連れられて、襲われ、わたくし、けほっ! けほっ!」
「あれが……ルティア?」
レイチェルを追って現れた人影に目を向けると、その顔は確かにルティアのものであった。だがその全身は何やら青白い金属のようなものでできた鎧に覆われ、右手には彼女の身長ほどの長さの柄と、彼女の頭ほどの大きさの先端のついた巨大なハンマーが握られている。
「それはまさか霊剣……いや、霊鎚とでも呼ぶべきか? 一体どこにそんなものを隠し持っていたんだ?」
「元は鍛冶用のハンマーですから、どこにでも隠し持てます。普段は工房に置きっぱなしですが――そんなことよりアレスさん、そこをどいて下さい」
そう告げるルティアの目は、間違っても冗談で言っているようには見えなかった。
「……レイチェルを、どうするつもりなんだ?」
「村で決まったことです。悪魔の血をあれだけ強く発現させるような人間を、生きて逃がすわけにはいきません。まさか街中でやるわけには行かないので、ここまで来てもらいました」
「だったら何故、わざわざ俺に聖剣を渡した?」
「聖剣を渡して代金をもらわないことには、到底借金が返せそうにないからです。先に渡した理由は三つ――一つ目は、レイチェルさんを殺してからだと受け取ってくれそうにないから。二つ目は、対話のタイミングでレイチェルさんを殺せると思ったから……まさか取り逃がすなんて思いませんでしたが。そして三つ目は……そもそも聖剣は、悪魔の血を引く者を守るために力を貸してくれるものなのでしょうか?」
ルティアの言葉に、アレスは前の聖剣が力を貸してくれず、融合状態になることができなかったために、結局あの魔剣士に聖剣を折られてしまった時のことを思い出していた。
「開放状態までなら、使い手の判断で自在に移行できますが、融合状態から先は剣に宿る天使の承諾が要る――書物にはそう記されていました。しかし剣に宿る天使も、上位天使の定めた掟には逆らえぬ存在であるとも記されていました」
「……聖剣の力が使えようが使えまいが、レイチェルをやらせるわけには行かない」
「いくら聖剣とはいえ、所詮は開放状態止まりでは、融合状態の霊剣とは天と地ほどの力の差があります。それに――この霊剣ガンドリック・ハンマーに宿る精霊ガンドラは、かつてはこの地域の守り神として崇められていたほどの存在です。その力は壱次元天使に匹敵するでしょう」
そう言いながら、ルティアはハンマーを両手で握りしめ、アレスに向かって構えた。
「もう一度だけ言います。いくら腕の差があっても、そちらに勝ち目はありません。そこをどいて下さい――アレスさんまで殺したくありません」
「断る」
それだけ告げると、アレスは背中から聖剣フィロソフィアを抜き放った。そして強く念じると、間もなく刀身が光を帯び始める。新たな主を得て待機状態となっていた聖剣が、聖剣としての最低限の力を発揮できる開放状態に移行した証である。そこから放たれる力はレイチェルを苦しめることになるかもしれないが、さすがに待機状態の聖剣で対抗できるほど、あの霊剣が生み出す装甲が生易しい物であるとはとても思えない。
「では仕方ありません……しばらく眠っていて下さい!」
そう告げると、ルティアはアレスに向かって真正面から打ちかかってきた。
実に素直で読みやすい攻撃だったが、だからといって避けやすいかと思ったら大間違いである。霊剣の力で加速された動きは、明らかに人間の肉体の限度を超えた速度を実現していた。
かろうじて回避はしたものの、地面が激しく抉られ、撒き散らされた土砂によって視界が遮られる。そして、ルティアはこれまた人間の限度を超えた力で得物を振りかぶり直すと、今度は横薙ぎに振り回してきた。
生身の人間がこのような戦い方をしていれば、あっという間に体力を使い果たしてしまうだろう。ルティアの戦い方は明らかに対人戦闘経験に乏しいそれだったが、しかしそれ故に普通ではやらないようなとんでもない動きを生み出し、本来なら現実的でないそれを霊剣の力によるアシストで実現してしまうため、アレスから見ると実に動きが読みにくくて仕方がない。
そして恐るべきは、おそらくその事実をルティア本人が自覚していて、ある程度意識的にやってきているという点だった。何故こんな人物が片田舎の農村で小さな工房に籠ってちまちまと働いているのか――こんな時だというのに、アレスはそんな場違いなことを考えていた。
が、アレスとてこれでも剣聖と呼ばれて恥ずかしくない程度には腕に自信があるつもりだ。おまけに、使っている剣の性能に至っては、かつて想像したことすらないレベルの代物である。
何とか攻撃を凌ぎ続けて行くうちに、ようやく動きの癖などが読めてきた。本来圧倒的に不利な状況ながらも、ようやく反撃を試みる段階にまで立て直した。
しかし、いくら反撃ができるからといって、できればルティアを傷つけるような真似などしたくない。アレスは懸命に説得のための言葉をひねり出す。
「ルティア……君がレイチェルを殺そうとするのは村の決定だからか? それとも君自身の意志なのか?」
「もちろん両方です。アレスさんも見ましたよね? 悪魔の血の力は人から倫理観を失わせ、いずれ花でも摘むかのように人を殺すようになるのです。そんな連中に村の人たちも、そして私の父も殺されました。これ以上犠牲者を増やさないようにしなくてはなりません」
「レイチェルは、君を助けるためにあの力を使ったんだぞ!」
「それがどうしたんですか?」
全く平然とした調子で返され、アレスはそれ以上言う言葉が見つからなくなる。
それからは無言での剣とハンマーの応酬が続くが、ルティアは隙あらばアレスを無視してレイチェルを狙おうとするため、アレスは一瞬たりとも隙を見せることができない。
しかもルティアの操るハンマーは、レイチェルは言うに及ばず、アレスに直撃したとしても一撃で確実に死に至るほどの威力を秘めてる。一方で、アレスは先程から何度もルティアの身体に斬撃を叩き込んでいるのだが、それはルティアの鎧に完璧に阻まれ、衝撃によるダメージが内部に伝わっているのかどうかさえ不明である。
このまま続ければ続けるほど、ほんの一瞬の隙でルティアがレイチェルを、もしくはアレス自身を叩き潰してしまう確率が上がるだろう。打開策があればたった二つ。
一つは、渾身の一撃によりルティアの首を一撃で刎ね飛ばしてしまうこと。例えば心臓などを貫いたところで、実質的なダメージは霊剣が受けることになるため、開放状態止まりの聖剣では一撃で戦闘不能に追い込むことはできないが、身体の部位が斬り落とされた場合はその限りではない。腕を斬り落とせば使えなくなるし、首を斬り落とせば死ぬ。とはいえ、実際に斬り落とすことが可能なのは、比較的装甲の薄い首の部分だけだろう。
もう一つは、ルティアと同じく融合状態にまで進むことだ。武装で上回ることさえできれば、そもそもの技量に圧倒的な差がある以上、あとは一方的に圧倒できるはずだ。しかし融合の瞬間は動きが止まるため、その隙にレイチェルがやられないようにするためには、最初から身を挺して庇う格好で融合を行わなければならない。前の聖剣の時のように融合を拒否された場合、そのまま二人まとめてルティアのハンマーに叩き潰されることになる。
あまり長々と悩むことは許されない。レイチェルの命を守ることを最優先にするならば、ルティアの首を一撃で斬り落とすしかない――が、成功率は高く見積もってせいぜい八割程度、しかも渾身の一撃を繰り出す必要があるので、失敗したら思いきり隙を晒すことになる。
しかし、仮にそれで成功してしまったとしたら、それを目の前で見たレイチェルは一体どうなってしまうのか。そこまで考えが及んだ瞬間、アレスは一つ目の案を丸めてゴミ箱に捨てざるを得なかった。
そうと決まれば、二つ目の案を実行に移すしかない。こちらは成功率は全くの未知数だが、失敗した場合の結果ははっきりしている――二人で仲良くあの世行き、だ。実にシンプルである。
「……頼むぞ」
アレスは聖剣に呼びかける。ルティアに殺されそうになっているのに、ルティアの作った聖剣に全てを託すというのも妙な話だが、ここはやるしかない。