番外編 ルドルフの一日 1
初めてベルトラン侯爵家に足を踏み入れたのは八歳の時。今年で勤続二十七年目のルドルフの一日は、意外にも騒がしい朝のドタバタから始まる。
盛大な泣き声が重なり、居間の真ん中では長男のスタンと次男のガルベンが取っ組み合いの喧嘩をしている。その二人を無理やり引き離していると、三番目の長女がズボンの端を思い切り掴んで泣いていた。
「ロズ? どうしました? ここは危ないから取り敢えず……」
「しっこ。おしっこぉ」
そう言うとぐっと体に力を入れている。
「わぁ――! 待って待って待って下さい! それはおしっこじゃありませんよ!」
急いで抱き上げトイレに駆け込んでいると、居間の方からは激しさを増す声が聞こえてきていた。トイレから飛び出すと居間に駆け込む。すると揉み合うように絨毯の上を転がっていた二人は、勢い余って体のやや小さいガルベンの頭が机の端にぶつかりそうになり、ルドルフは滑り込むようにガルベンの頭と机の間に手を滑り込ませた。
「グアッ」
暫く動かない父親の姿を見て二人は顔を見合わせると、「グアッだって!」と何が面白いのか延々と真似し始める。そしていつの間にか勝手に戦いの幕は引かれていた。
「どうしてお前達は毎日毎日飽きもせずに全く! 怪我でもしたらどうするんですか!」
しかし当の二人は全く聞く耳を持っていないのか、今度はパンに塗るジャムの取り合いをしている。手を思い切り伸ばしたスタンは、年下のガルベンが持っていた杏のジャムを容赦なく奪い取るとたっぷり自分勝手にパンに乗せ、空っぽにしてしまった。みるみるうちにガルベンの目に涙が溜まっていく。ルドルフはすかさず新しい杏のジャムを棚から取ると、ガルベンのパンの上にこれでもかという程たっぷりと乗せた。
「これで完璧です」
「……違う。これじゃないよ」
「これですよ、ほら! スタンが食べているのはこのジャムじゃないですか」
「違うよ。最初にチーズを塗っているから違うもん」
とっさに見るとスタンは自分のパンにだけチーズを塗っていたらしい。黄色いジャムの下にうっすら白いクリームが見え隠れしていた。
「それなら上に塗ってあげますから」
「それだと味が違うの! 僕もスタンと同じ物がいい!」
「真似っ子ガルベン! 真似っ子真似っ子!」
口の端にジャムを付けながらふざけ出すスタンに泣き出すガルベン。その横では静かにモッモッとパンを咀嚼しているロズの姿があった。
次の瞬間、隣りの部屋で一際大きな泣き声が聞こえた。
「ディアナ――、どうしたんですか?」
まだカーテンを開けていない薄暗い部屋の中、ベッドにこんもりとある膨らみには触れないようにし、ルドルフはそっと子供用ベッドに近付いた。
「おむつですか? それともご飯ですか? それとももう眠くないですか?」
明らかに父親似のディアナは間もなく二歳。顔が薄く乏しい表情からはまだ何を望んでいるのかは読み取りにくい。取り敢えず手慣れた手付きでおむつを変えると、やはり手慣れた手付きで抱き上げて戦場のような居間へと場所を移した。もはや喧嘩の理由を探しているようにしか思えない男子達は放おっておいて、ルドルフはディアナを膝の上に乗せた。
「さあ何を食べますか? あなた用のご飯もちゃんと用意してありますよ。このパンはクリームスープに浸して食べましょうね。フワフワの卵もありますし林檎も磨ってありますよ。先に果物がいいですか? ほう、それからとは中々通ですね」
ディアナは食卓にあったバナナを持って振り回している。まだそのまま食べさせる訳にはいかないが、食べ物というよりはおもちゃとして認識したのだろう。バシバシと顔に当たってもお構いなしのルドルフは、勢いのよいバナナに眼鏡をずらされてもめげずにディアナの小さな口に擦り潰した林檎を運んでいた。
「あれ、ロズはもうお終いですか? 後から欲しいと言ってもお父さんはもう出ますよ?」
ロズはまだ眠いのか目を擦りながらコクコクと揺れ出す。取り敢えずおとなしいロズを横目に、隙きさえ見つければ取っ組み合いの喧嘩をしていたスタンとガルベンは飽きてしまったのか、今度は二人で着替え始めていた。
「いつもそうやってくれれば助かるんですけどね」
「それはスタンがいっつも僕に意地悪するからいけないんだよ」
「違うだろ! ガルベンがいっつもお母さんを独り占めするからいけないんだ!」
独り占めという言葉にとっさに振り向くと、スタンは気まずそうにテキパキと着替えを済まし玄関に放り投げられていたリュックを掴んだ。その頬はやや赤くなっているように見える。
「置いてくからな! 5、4、3、2……」
ガルベンは置いて行かれるのは嫌みたいで、シャツの釦も半分にスタンの後を追った。
「二人とも気を付けて行くんですよ! 知らない人には付いていかないように! 喧嘩はいけませんからね!」
最後の方は扉が閉まっており全く聞いていないと思う。二歳しか違わない為、普段から何かと競い合っている二人に溜め息を吐きながら、食卓で束の間の静寂を噛み締めた。




