第15話 妻がいた痕跡
カトリーヌは書き物を終えると部屋の中を見渡した。持って出る荷物は最低限の小さな鞄一つだった。
「奥様、馬車の準備が整いました」
「フェリックスは眠っている?」
「ぐっすりと。しかし目覚めた時の事を思うといささかお可哀そうな気も致します」
ルドルフに言われなくてもそんな事は分かりきっている。
アルベルトから帰還を知らせる手紙が届いた日から何度も自問してきた。フェリックスの為には一番何が良いのか。離婚すると言われても、母として離婚を回避するべきではないか。せめて大人の言う事が理解出来るようになるまで育てさせてもらえるよう交渉するべきではないか。でも我儘を言ってモンフォール領への支援を打ち切られてしまったら、まだ復興していない領地で暮らす領民達が路頭に迷う事になってしまう。人質のように置いて行かなければならない我が子を思うと、胸が切り刻まれるように傷んだ。
「フェリックスには一応話しておいたの。エルザとお留守番をしているようにとね」
「納得されておられましたか?」
「どうかしら。その時は頷いていたけれど、実際に私がいないと分かったら……どうかしらね」
「せめてアルベルト様がお帰りになられてからにされてはいかがでしょうか?」
「離婚をこんなに待って頂いたのだからそれは無理よ。せめて私の顔を見なくて済むようにして差し上げないと」
カトリーヌは最後に一度フェリックスが眠っている部屋の窓を見つめた。
「頼むわねエルザ」
無理やり視線を引き離すと、馬車へ乗り込んだ。
玄関に入ると待っていたのは母親一人だった。ひょっとしたら家族と使用人達が勢揃いしているかもと構えていたが、きっと配慮してくれたのだろう。一気に胸が熱くなる。言葉が喉の奥で閊えてしまった途端、母親に抱き締められていた。
「……お母様?」
すっぽりと母親の腕の中に収まり背中を擦られる。その温かさに不意に涙が出てしまい、何も言葉が出てこなかった。
「あなたは何も悪くない。フェリックスもいつか分かってくれるわ」
カトリーヌは母親の背中をぎっちり掴むと声を上げて泣いた。フェリックスの事を思えばこんな風に母親の温もりを感じてはいけない。でも一度堰を切った涙が止まる事はなかった。
「もうあなたがこの家をお継ぎなさい! お父様はほとんど帰って来ないし、ルイスは騎士団の仕事ばかりで次期当主としての自覚がないの。だからあなたがモンフォール家の当主におなりなさい!」
そう言い切った後に頬をするりと両手で包まれて気がついた。
「本当は私も離婚しようとしていたのよ」
「お母様今なんて?」
「ずっと考えていた事なのよ。私達の間に愛なんてなかったのだから」
そんなはずがない。子供から見ても両親は愛し合っているように見えていた。
「もしかして原因はこれかい?」
ハッとして扉の方を振り見ると、そこには久し振りに帰ってきた父親が立っていた。扉にもたれかかるようにして立つその手には鈍く光る物を持っていた。
「あなたそれは……」
「少し前にモンフォール領にある酒場の女性が身に付けているのを見つけてね。平民が持つには高価なものだから話を聞いてみたら、とあるご婦人から譲り受けた物だと言ったんだよ。今は罰を与えるつもりで今は捕らえている」
「罰ですって?」
「盗みを働いたなら当然罰するべきだろう? 君は私に盗まれたと言えなかっただけだろう?」
「お父様何かの間違いじゃ……」
「お前は黙っていなさい」
「申し訳ありません」
「セリーヌ、場所を変えて話そうか」
「ここで結構ですわ。傷ついた娘を一人には出来ないもの」
「それじゃあここで理由を説明してもらおうか。どちらにしても君と酒場の女性との接点が見つからないのだけれどね」
「接点ならあります。あなたですわ」
母親は意を決したのか真っ直ぐに父親を睨みつけた。
「意味が分からないな。どうして接点が私になるんだ」
「それを私の口から言わせるおつもり?」
「分からないから聞いているんじゃないか!」
怒ったところなど見た事ない父親の声にびくりと身体が跳ねた。
「災害の後、あなたが家に帰らないから様子を見に街へ行ったのよ」
「まさかあの光景を見たのか?」
「ええ見ましたとも。そしてあなたが我が家のようにしていたあの酒場に辿り着いたの。娼館まがいの行為まで許していたそうね」
「……あの時は仕方がなかったんだ。家も財産も家族も失った者達で溢れていた。望む者にはそういう仕事も許可したよ。私を軽蔑するかい?」
すると母親はゆっくりと首を振った。
「理解は出来るわ。でもあなたがそこに入り浸っていたという事実が私は許せないの」
「あの時は捜索活動を朝早くからしていたからあそこで休んだ方が合理的だったんだ」
「そして心身共に癒やされていたと言う訳なのね」
「何か勘違いをしているようだが、私はあの酒場で君を裏切った事は一度もないよ」
母親は小さく喉を鳴らして話し始めた。
「酒場の情報を得る為にその女性が欲しがる物を渡したのよ」
一瞬にして父親の表情が険しくなったのが分かった。母親の手を離すと毛布を肩に掛けた。
「私は部屋に戻っています。でもどうか仲直りしてね」
少しして母親の泣き声が聞こえてきた。そしてそれを慰める父親の声も。
「良かったわね、お母様」
暗い部屋の中でぽつりと呟く。
「フェリックスごめんなさい。こんなお母様でごめんなさい」
その涙を拭うでもなく、いつの間にか眠りについた。
「お帰りなさいませ。大変お疲れ様でございました」
ルドルフは深夜に帰宅した主を出迎えると、周囲を気にしているアルベルトをじっと見つめた。
「どうかなさいましたか?」
「……もう眠っているのか?」
「フェリックス様ならこの時間はもうぐっすりですよ。その分朝がお早くていらっしゃるのでご覚悟下さいね」
「そうなのか。それではあれも大変だな」
「あれとは?」
「あれはあれだ。……妻の事だ」
「奥様の事をあれなどと言うよう教育したつもりはないんですがね」
するとアルベルトは驚いた様子でルドルフを見た。
「なんです? お先にご入浴なさって下さい。その間に軽食をご準備致します」
ルドルフの後を追うようにして、アルベルトは久しぶりの屋敷の中を歩いた。
「妻と息子は一緒に眠っているのか?」
「フェリックス様にはエルザという侍女が一緒に寝ております」
「世話係か?」
「はい。基本的にフェリックス様のお世話は奥様がされていましたが、奥様は本日出て行かれました」
「……は? 出て行った?」
胸元から封筒を取り出したルドルフはアルベルトへと渡した。手早く封筒を開けて中身を確認すると、しばらくして口元を覆った。
「俺が帰るまで留めて置かなかったのか?」
「離婚の期限を伸ばしてくれたアルベルト様の為にも約束通り出て行くと仰っておりました」
「そしてこの手紙を残したという訳か」
この国では双方の同意と両家、そして国王の承認があれば離婚は成立する。そして今手元にはカトリーヌ直筆で離婚に同意する旨と、実家から近日中に同意書を送るというものだった。
「あなたはお優しい奥様を追い出してしまったのですよ」
「俺がいない間に随分とモンフォール家に絆されたようだな」
「アルベルト様が奥様を避けられていただけです」
「別に避けていた訳じゃない。でもこれで互いに晴れて自由の身と言う訳か」
浴室へ向かうその背中を見ながら、ルドルフは深い溜息を吐いた。
「全く素直じゃないんですから」
アルベルトが眠りについたのは夜明け前だった。カーテンの隙間からは眩しい光が差し込んでいる。着替えをし部屋を出ると、控えていた侍女達が驚いたように慌て出した。
「旦那様!? お目覚めに気が付かず申し訳ございませんでした!」
「気にするな。こうした方が早かっただけだ」
元々身の回りの事は出来るし、戦場にいたせいでむしろ自分で終わらせた方が楽だと思うようになっていた。
廊下を曲がった所で女性の小さな悲鳴が上がる。見下ろすと見覚えのある侍女が立っていた。
「申し訳ございません!」
深く頭を下げる侍女の後ろでひょっこりと頭を出している姿に釘付けになる。
「フェリックス様、お父様ですよ」
「おとうさま?」
じっと見てくるのは薄青い宝石のような瞳。そして我が子だと疑う事が出来ない程に、自分と同じ髪色をしていた。急に行く手を塞がれてしまったフェリックスは、見上げ過ぎて後ろにコテンと座り込んでしまう。そして火がついたように泣き出してしまった。
「あらあら。驚いたんですね」
「エルザぁ!」
フェリックスは両手を広げながらエルザにしがみつくと、グリグリと顔を胸に押し付けていた。
「旦那様申し訳ございません、改めてご挨拶にお伺い致します」
エルザはフェリックスを抱えながら足早にその場を立ち去ってしまった。
「あれが俺の子なのか?」
アルベルトは今だ自分に子供がいるという実感が湧かず、その場に立ち尽くした。
「やはり泣かれましたか」
ルドルフは楽しそうに廊下の先から現れると、放心していたアルベルトを楽しそうに見つめた。
「どうですか? お初めてお会いになったお子のご感想は」
「感想も何も一瞬過ぎて何も分からなかった。普通あれだけ泣くか? 俺は父親だぞ」
「フェリックス様から見たらただの見知らぬ男性ですからね。これから親子の時間を取り戻せば宜しいのです。フェリックス様はとても愛情表現に長けていらっしゃいますよ」
「ベルトラン家の子が愛情表現に長けているもんか。絶対に無愛想のはずだ」
「ですがお育てになられたのはモンフォール家の皆様です。もちろんこの屋敷の者達も慈しんで参りました」
アルベルトは不意に辺りを見渡し、三年前まではなかったそれに触れた。廊下には等間隔に台が置かれ、花瓶に花が生けられている。見慣れたはずの殺風景だった廊下がどこか温かく見えた。
「アルベルト様が奥様に花を送られたのが始まりでございます。奥様が一人で愛でるのはもったいないからと廊下やお部屋に飾られたのです。そこから花を飾るのが習慣となりましたが、宜しければ他のお部屋もご覧になられてはいかがですか?」
「必要ない。それよりも今から登城するから準備してくれ」
「かしこまりました」
アルベルトが家を出ようとした所で、エルザに抱き抱えられたままのフェリックスがひょっこりと顔を出した。
「旦那様、少しだけフェリックス様にお時間を頂けないでしょうか?」
エルザはアルベルトに近づくと、胸に顔を埋めたままのフェリックスをトントンと揺らした。
「フェリックス様、お父様ですよ」
「おとうさま?」
「そうですよ。あのクマさんのお父様です」
「クマのとうさま!」
ぱっと顔を上げると、視界が近くなったせいか、それともエルザに抱っこされているからだろうか、フェリックスは今度は泣かずにじっと顔を見てくる。
「とうさま?」
「……そうだ」
「アルベルト様、もっと笑顔で」
小声でルドルフが囁いてくる。頬を引き攣らせながらにこりと笑った。しかしフェリックスは再びエルザにぎゅっと抱きついてしまう。アルベルトは溜息を吐くと、背中を向けた。
「今はもう時間がないから話は帰って来てからにしてくれ」
「フェリックス様、お母様は何と仰っておられましたか?」
アルベルトは“お母様”という言葉にとっさに振り返っていた。
「“おねがいはおぼえていますか?”」
フェリックスの拙く可愛らしい声で紡がれた言葉にアルベルトは息を止めた。間違ったのかと不安そうにエルザを見上げたフェリックスは、頭を撫でられてホッとしたようだった。
「……承諾した覚えはないが、覚えていると伝えておいてくれ」
そう言うとアルベルトは足早に玄関を出ていった。
エルザはアルベルトの背中を見送るなりその場に座り込んでしまった。驚いたフェリックスがエルザの頬を叩く。
「エルザどうしました?」
「すみません緊張してしまって。でも奥様のご伝言を無事に伝えられてよかったです。フェリックス様、頑張りましたね!」
「ぼくいいこだね。おかあさまかえってくる?」
「きっとすぐに会えますよ。それまで私とお留守番です。今日もクマちゃんと一緒に寝ましょうね」
フェリックスは返事をせずにエルザに擦り寄った。




