009:秘密の恋
アルノー伯爵ナイジェルが王都へ戻って数日後、サラ・ロビンが館の方から怒りながら帰って来た。
メイベルがどうしたのだろうか? と心配していると、サラ・ロビンは「公爵閣下があたしにまだ夫を愛しているのか? 忘れられないか? なんて馬鹿なことを聞いてきたのさ!」とまくしたてた。それから、ゆっくりとメイベルに説明し直すと、もう一度、憤慨する。「何を考えているだろう! 性懲りもなくまたどこからか再婚の話が持ち込まれたんじゃないだろうね! そんなのまっぴらご免だよ」
次の朝、厩にやって来たフェリックスをサラ・ロビンは不機嫌に迎えた。
「一体、サラ・ロビンはどうしたんだ?」
おざなりな挨拶をした後、さっさと”宵闇”の元へ向かったサラ・ロビンの背中を見ながら、フェリックスがメイベルに尋ねる。「喧嘩でもしたのか?」
”公爵閣下がサラ・ロビンにまだ夫への愛情があるのか知りたがったせいです。
再婚させられるんじゃないか、愛人の誘いなんじゃないか……と。
だから不安で苛立っているのです”
愛人の部分はメイベルが勝手に付け足した。
サラ・ロビンはフェリックスが”うちの雑用係”に惚れていることを感づいているので、自分がそちらの対象にならないことを承知していた。なので、再婚話と早合点して、憤慨のあまり包み隠さずメイベルに話したのだ。
けれども、事情を知らない人間からすれば、どちらかと言えば、チェレグド公爵がサラ・ロビンを愛人にすべく、その意思を確かめた、と捉えてしまうような問いかけでもあった。
メイベルも動揺した。そんなことは信じたくはないが、公爵は未亡人が好きだと街の人が言っていたのを思い出す。
(サラ・ロビンは公爵閣下を信用しているから、再婚話だと思っているけど、そうであっても、そうでなくても酷い話だわ)
”心から愛した人を、そう簡単には忘れられません”
不信感と失望でいっぱいのメイベルの前で、フェリックスは唖然とした様子で立っている。動かないし話さない。また拳を、指の関節が白くなるまで握りしめている。
メイベルは自分も公爵に対して反抗的な態度を取ったと自覚していたので、罰を受ける覚悟はしていた。しかし、やはり、拳はメイベルに向かって振るわれることはない。
厩からやって来た”宵闇”がフェリックスの顔に鼻面を寄せると、彼はようやく我に返った。ぎこちない手つきで鬣を撫で、それから、メイベルに向かって、慎重な様子で口を開いた。
「ひどい誤解がある。出来れば説明させて欲しい。
まずは君に……聞いてもらってから……私がサラ・ロビンに後ろ暗い気持ちはないことを、まずは君に聞いて欲しい。
……私が一人で話に行っても、あの様子ではまともに聞いてくれそうにない」
「だからだ」とフェリックスはメイベルに頼んだ。本当に何か齟齬があって憤っているようなのに、口調は努めて穏やかに振る舞っている。
きちんと言葉で納得させてくれると言う。その誠意を、突き放す理由はなかった。頷いて同意を表すと、彼女はあっという間に馬上の人間となっていた。
「少し借りるぞ!」
「え、ちょっと! 待っ……」
風のように攫われていくメイベルをサラ・ロビンが慌て追いかけたが、”宵闇”の足は速く、あっという間に見えなくなってしまった。
「なんてこったい……」
サラ・ロビンはその時点で、自分が何か勘違いをして、その結果、メイベルがとばっちりを食ったことを悟った。その後、すぐにマイラ夫人がやはりあの娘は恋人に売られたらしい、けれども本人はその恋人が迎えに来るのを待っていて、それでフェリックスがあんなおかしな質問をサラ・ロビンにしてしまったのだと教えに来てくれた。
「あの娘も可哀想に」
「可哀想なのは坊ちゃまですよ」
マイラ夫人もオルタンシア公爵のやり口は気に入らないが、やはり身分と言うものがある。”花麗国”のオルタンシア公爵家に相応しくないのならば、エンブレア王国の筆頭公爵家にだってそうだ。娘だって苦労する。そうしたらフェリックスだって幸せにはなれないだろう。どちらに転んでも不幸しか待っていない恋をすることになるなんて、「なんてお可哀想な坊ちゃま」。
***
メイベルはあの夜のようにフェリックスと”宵闇”に乗っていた。最初は驚いたものの”宵闇”の蹄の音と、公爵の心音が重なって聞こえて、不思議と心地よい気分になる。メイベルがフェリックスに気づかれないように、さらにそっと身を寄せると、近づいた分、公爵の心音が大きくなったように聞こえた。
馬から降ろされたのは、崖の上の草地だった。天気は良く、空気が澄んでいて、海の向こうに対岸が見える。それが”花麗国”のオルタンシア公爵領であることを、メイベルは知らない。
ただ、寄せては返す波を見ていると、あの日の嵐の海を思い出すのか、眩暈がしてきた。
「帰りたいか? あの船の遭難者は全て、事情を聞きとった後は帰りたい場所、行きたい所へ届けた。
君もそうすればいい」
メイベルは海に背を向ける。
”公爵閣下さえよろしければ、ここで働かせて下さい”
「私は構わないが、家に帰りたくないのか?」
”家にはもう戻れない身です。皆を裏切ってしまったから”
「裏切った? ……そうか」
”宵闇”がのんびりと草を食んでいる。日差しは暖かく、気持ちの良い風が吹く。
二人の人間だけが、荒れ狂う感情の中に立っていた。
メイベルはフェリックスが説明するのを辛抱強く待つ。彼女は、女や使用人が公爵に対し、聞かれたことには答え、聞かれていないことには口を挟まず、こちらから何も聞いてはいけないと育てられてきた。
だが、フェリックスは押し黙ったままだ。
だから、試しに聞いてみることにした。
”なぜサラ・ロビンにあのようなことをお聞きになられたのですか?”
フェリックスの視線がメイベルの書いた文字を何度か読んだ後、ゆっくりと重い口を開く。
「これは友人の話なのだが……」
得てしてその手の話は自分のことを指すという。
フェリックスはそこまで言うと、また黙って、近くの石に腰を掛け、片手で額を覆った。
「誰とは聞かないで欲しい。彼の名誉にかかわることだから。
その友人には妹がいる」
語り口調は慎重そのもの。言葉を選びながらだったので、メイベルも聞き逃す不安はなかった。
隣に座るように促されたので、メイベルはつい彼の体温が感じられるほど近くに座りそうになったが、寸前で気が付き、出来るだけ離れたところに座った。
「その妹は将来を誓い合った恋人がいるのだが、どうやらそう思っているのは友人の妹だけで、相手の方は全くそんな気がなかったらしい」
フェリックスの手が、また強く握られて、悔しそうに石の上を叩く。「……っ! すまない」
慌てて謝罪された。
メイベルは首を振った。痛いのは彼女ではなく、彼の手であり、心だ。
見れば血が出ているではないか。
咄嗟に、手を取ってしまったが、「えっ……」と言うフェリックスの驚いた顔と声に気づいて、慌てて離す。
けれどもその時のメイベルは無礼とかそんな礼儀の前よりも、とにかく傷の手当をしなければという気持ちの方が強かった。
(薬! そうだわ、この薬が効くかも)
いつも持ち歩いている塗り薬を袋から出そうとするが、手が震えてしまって上手くいかない。ようやく塗り薬を取り出したメイベルの目に入ったのは、手を口元に持っていき、傷を舐めているフェリックスの姿だった。そのまま、視線を向けられる。
思わず、傷薬を取り落としてしまうが、拾い上げることも忘れて、見入ってしまう。
「ありがとう。
これは君が使うといい……だが、あまり効いていないようだね」
フェリックスがメイベルに塗り薬を戻しながら、心配そうな顔をした。メイベルの手の荒れは良くはなっていないが、悪化もしてない。毎日、手を酷使しているのを考えれば、効き目がないとは思えないのだが。
「……そう言えば、マイラ夫人がよい薬を知っていたはずだ。後で聞いておこう。
塗り薬ではなく、煎じ薬で、とても酸っぱいが、よく効く」
「本当に酸っぱいんだが」と重ねて言った上に、眉間の皺の深さを見ると、かなりの味なのだろう。
けれどもメイベルの胸の中は甘い気持ちでいっぱいになった。塗り薬を握りしめる。
フェリックスは自分の手の傷の状態を確認すると、反対の手で大事そうにそっと抑えた。口元にうっすら笑みが浮かんでいる。
それからようやく、本題に戻った。
「男は、仕事で遠くに行くといったきり、音信を絶ってしまった。
それでも友人の妹はずっと恋人を待っている。それどころか、恋人のいる遠方の地へ行くのだと家を抜け出すのだ。友人は頭を悩ませている。
本当のことを話して諦めさせたいが、知れば悲しむ。その姿を見るのは辛い。
もし、時間が経つことで、妹の恋心が落ち着き、薄れていくのならば、それを待ちたいと言うのだが……」
フェリックスは海の向こうに目やりながら、メイベルに聞いた。
「”心から愛した人を、そう簡単には忘れられません”と言ったな。
そういうものだろうか?」
メイベルには分からなかった。彼女はこれまでそんな身を焦がすような恋愛とは無縁の生活を送っている。けれども愛ならば知っている。オルタンシア公爵夫人はマティアスのことをずっと諦めずに愛し続けてきた。同じことだと思った。
”私はそう思います。公爵閣下は違うのですか?”
「私は……そうだな……」
問い掛けにフェリックスは長く考え込んだ。「私も諦められないと思う。こんなにも誰かを愛したことがなかったから」
(ああ、公爵閣下は苦しい恋をしているのだわ)
話を聞いたメイベルはそう解釈した。
(令嬢たちには見向きもしないのは、そのせいなのね。
未亡人が好きなのではなくて、彼女たちに確かめたいのだわ。
サラ・ロビンのように亡くなった夫のことを愛し続けることが出来るのか……。
けれども一体、公爵閣下が一途に想いを寄せる女性はどんな方なのかしら)
羨ましいわ……。
メイベルは口を手で押さえた。
公爵閣下がこんなに悩んでいるのに、なんて浅ましい気持ちを抱いてしまったのか。
涙がこぼれてくるのを知られないように、立ち上がって風に顔を乾かす。ついでに”宵闇”を連れてきた。
これ以上、二人でいるのは無理だ。
「サラ・ロビンは許してくれるだろうか? 私が愚かだった。
彼女の愛を疑った訳ではないのだ……勿論、再婚や愛人の話でもない」
”宵闇”の手綱をメイベルから受け取りながら、フェリックスは彼女に確認した。
手がふさがっていたので、メイベルは頷くことで同意を示すと、「では一緒に謝ってくれ」と言う声と共に、再び馬上の人間となっていた。




