番外:罪悪の味
【閲覧注意】
こちらは本編の最終話ではありません。
「030:二組の愛」の後書きで告知した小話です。
エリザかオリガか分からない方が余韻があってよい、どちらかは自分が決める、どっちでも構わないという方は、避けてください。
また、直接的な表現は避けていますが、気分が良い話ではありません。苦手な方はお気を付けください。
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オルタンシア公爵の館の中庭にある無花果の木は、ちょっと見たことがないほど、良く実をつけ、また味も素晴らしいことで有名だった。
もっともオルタンシア公爵夫人の好物でもあり、そのほとんどを彼女が食するので、実際に口に出来た者は少ない。夫人は生で食べ切れないものは、甘く煮たり、乾燥させたりして、年中、その実を独占していた。
今年も、無花果はたわわに実り、籠に盛られてオルタンシア公爵夫人の元へ届けられた。
白い指がそれを摘まみ、赤い唇が食む。果汁がしたたり落ちるのも厭わず、彼女はその瑞々しい甘さを堪能する。
「あやしい奴が来たんだって?」
公爵家に相応しくない粗野な男が、ずかずかと押し入って来た。
それに対し、優雅なる貴婦人は動揺を見せることはない。
「クラポー、いらっしゃい。無花果はいかが? 今年もよく実ったわ」
「いいや、結構だ」
滅多なことでは決して勧められない公爵夫人の貴重な無花果を、蛙と呼ばれた男はさも嫌そうな顔をして断った。
「それで、俺に何の用だ? まさかこの薄気味悪い無花果を食べさせるために呼んだ訳じゃないだろうな?」
「メイベルが見つかったわ」
オルタンシア公爵夫人は、突然、手についた甘い汁が不快になったような顔になる。
「あのお嬢さん、生きていたのか! そりゃあ、いい知らせだ。
あの老資産家にはもう無理だろうが、あれだけの上玉だ。多少、傷物になっていたとしても、値はそこそこ付くはずだ。
もうこの無花果の実を売りたいくらいに、金がねぇんだ。さっさと引き取って、売っぱらちまおう」
クラポーの言葉に、オルタンシア公爵夫人は手を拭いた布を、無造作に投げ置いた。
「――チェレグド公爵に保護されているそうよ」
「チェレグド公爵だって!? あのエンブレアの?」
「そうよ」
クラポーは自分の額に手を当てて、嘆いた。
「ひでぇ話だ。それじゃあ、一文にもなりはしねぇ。
だが、あんたにはやっぱりいい知らせじゃねぇのか?
あの娘を自分と同じ目に合わせたいんだろう?」
敵国の若く美しい娘を拾ったら、男としてやることは一つしかない。
しかし、それはクラポーの世界での常識でしかない。彼は海賊だった。女は奪い、男は殺す。
「私の話を聞いているかしら?
メイベルはチェレグド公爵に”保護”されているの。
とても大切に客人として遇されているみたいだったわ」
「なんとまぁ、”血と女に飢えた野獣”と言われた公爵さまが、何にもナシとはね。
同じ男として情けない」
オルタンシア公爵夫人は目の前の男を睨んだ。彼こそ、そうやって彼女を辱めた男だ。彼だけでなく、彼の仲間たちが、彼女の身体と尊厳、そして息子を奪った。
「あなただってメイベルには手を出さなかったわ。
私がいいと言ったのに。老資産家に売るからと海に出してみれば行方不明。そしてその結果がこれ?」
「仕方がないだろう。フィスが高く売るためには清らかにしておけって言うからさ」
「フィスが?」
「そうさ。俺の息子。いいや、オルタンシア公爵家の嫡子のご命令だ。
あいつの言うことは、いちいちごもっともだ。
メイベルのことだって、その通りにしたら、法外な金額をふっかけたって言うのに、喜んで払うばかりか、さらに上乗せまで申し出たんだぞ。
さすが賢いし、見てくれもいい。
俺も一目置くほどさ」
オルタンシア公爵夫人の手に力が入り、無花果の汁がしたたり落ちた。
あくまでも静かに、彼女は言葉を紡ぐ。
「オルタンシア公爵家の嫡子はマティアスよ。
あんたの愛人が産んだ息子じゃない。
あんたの愛人は確かにオルタンシア公爵の息子を産んだかもしれない。でも、それは所詮、公爵が結婚する前の話。
自分が男の子を得ることが出来ると、試したかっただけ。
フィスはその証明にすぎないわ。愛人どころか、行きずりの酒場女から産まれた分際で、嫡子の身分を要求するなんて、図々しい」
「そうかい、そうかい。
だが、メイベルはもういない。そろそろマティアスにも死んでもらおう。
バレヌの野郎も、チェレグド公爵領への奇襲に失敗しておっちんだ。もう誰も俺に意見出来る奴はいねぇ。
オルタンシア公爵家はフィスがいただく。当然の権利だ」
「何を言うの。ロイがいるわ。あの子は私とオルタンシア公爵との子よ。
マティアス亡き後は、あの子がオルタンシア公爵家の嫡子じゃない。
フィスなんて、付け入る隙はないの。今も、昔も。産まれた時からずっと――そもそも、あの子は酒場女とあんたの息子じゃないの?」
「それはどうかな?
ロイこそ、俺の子なんだろう? オルタンシア公爵がお前との同衾を嫌がったから、俺が代わりに――」
最後まで言わせず、オルタンシア公爵夫人はクラポーの頬を打った。
殴られたクラポーも黙っていない。夫人の細い首を締め上げる。
「あんまり調子に乗るなよ、公爵夫人。
お前を助けてやったのはこの俺だぞ」
「ロイは……オルタンシア公爵の子よ……お前の血など、一滴……も……ない……」
「俺の子じゃなければ、殺すと言ってもか?」
残酷な質問に、オルタンシア公爵夫人は咽ているふりをして答えなかった。
この男に、命を助けられたくなかった。息子もそう思う日が来るだろう。
フィスの母親は自分を騙して捨てたオルタンシア公爵に復讐するために、海賊だったクラポーを誘惑し、その力を借りることにした。
オルタンシア公爵が正妻の双子の妹・オリガに手を出したことを知って、呆れ、同情したが、そのオリガが男の子を産んだ。一転、彼女はオリガを憎んだ。オリガの立場ならば、子どもを嫡子にすることが可能だったからだ。
と、同時に、オルタンシア公爵夫人エリザもまた、自分と同じくオリガを排除しようと動いたことを察知した。
フィスの母親はその企みを利用し、オリガを攫って自身と同じく海賊の愛人にすることで、一つ、溜飲を下げた。男の赤ん坊は海に捨てさせた。フィスとよく似ていたので、目の前で殺すことが出来なかったのだ。
それからさらに二年後、生かしておいたオリガをエリザと入れ替えることにも成功した。
妹もまた、姉に対しての復讐を遂げたのだ。
それから――?
彼女は自分が姉ではないと知られるのを恐れ、同時に心の奥底で、それを望むようになっていった。
けれども、周囲は薄々感づいているくせに、見て見ぬふりを続ける。
どっちだっていいのだ。
そこにオルタンシア公爵夫人という形があれば、エリザだろうがオリガだろうが関係ない。
いっそ、完全にエリザとして扱われたら、皆を騙している自分を誇れただろう。
あなたはエリザではないと指摘されたら、そうだ、自分は姉とは違うと誇りを取り戻せただろう。
そのどちらでもない。姉も自分もどちらでも変わらぬ存在だと、毎日、突き付けられる。毎日、自分ではない名前で呼ばれる。
海賊とオルタンシア公爵だけが、自分の正体を知っていたが、救いになどならなかった。前者にとっては脅しの種で、後者にとっては恐怖の対象となったからだ。
一人目の息子は行方不明で、なんとか作ったもう一人の息子とも引き離された。
手元に残ったのは“可愛い“姉の娘だけ。
そう、だから“幸せ“にしてあげる。
”可愛い”メイベルにも、自分と同じような“幸せ“な運命を用意したはずだったのに。
クラポーの後姿に、オルタンシア公爵夫人は無花果の実を投げつけた。
冷たい石の床に、熟した実が空しく転がった。
***
フェリックスがトレバーと共に、逃げたオルタンシア公爵を追って寝室に押し入った時、彼はすでにこと切れていた。
血だまりの中に、もう一人、海賊が倒れている。
仰向けにして確認してみると、自刃したようだ。
「閣下、この海賊がオルタンシア公爵を殺し、自ら命を絶ったようですね」
「ああ……しかし、なぜ」
疑問はもう一つあった。
フェリックスは死んだ若者の顔立ちに、既視感を覚えたのだ。瞳が見えればもっとはっきりとしたことが分かっただろうが、生憎、彼の目は二度と開かないだろう。
無理に瞼を開ける前に、トレバーを見ると、彼も同じよう感想を抱いているようだ。だが、トレバーはフェリックスに忠告した。
「僭越ながら年長者として言わせて下さい。
この件に関しては、これ以上、気にしない方がよいでしょう」
オルタンシア公爵家の闇はあまりに深い。覗いていては引きずり込まれるだけだ。「坊ちゃんがいなくて良かった」
フェリックスは周囲を見回す。
大きな天蓋付きの寝台の奥に、豪華な壁掛けが下がっていた。
ふと、メイベルとの一件を思い出し、口元が緩みかけて、引き締まる。
あの裏には秘密の通路がある。
大股で歩み寄って壁掛けを捲ってみれば、そこに金髪の少年が蹲っていた。
「君は誰だ?」
誰何すれば、小さな身が震える。
良い身なりをしている。場所的にもオルタンシア公爵家の縁の者だろう。
「私はエンブレア王国のチェレグド公爵フェリックス・シャルル・ルラローザ。
もう一度聞く、君は何者だ?」
フェリックスの名乗りにも、少年は動かなかった。
「瞳は緑色か? あの若い海賊と同じ」
トレバーは肩をすくめた。彼が忠告したにもかかわらず、闇に踏み込むつもりなのが分かったからだ。
どうせ後で「メイベルになんと伝えればいいのだろうか」とメソメソするくせに、懲りない御仁だ。
しかし、その問いかけに少年は反応を示す。
はっとして顔を上げ、フェリックスを見返す瞳は――緑色だった。
その瞳から一気に涙が溢れ出る。
「フィスが死んだ。
僕をここに隠して、父を殺してから、自分も死んだ。
マティアスが助けに来るから、ここにいろって――」
「フィスとは……あの若者か?」
なるべく少年を刺激しないように、フェリックスは身を屈め、精一杯、優しく、彼の背中を撫でながら聞くと、わずかに心を開いたようで、ポツポツと話しはじめた。
「そう。フィスは僕のお兄さんなんだ。
僕と同じ緑色の瞳をしていて、顔立ちもよく似ているから、はじめて会った時、今日から俺とお前は兄と弟だって。
海賊たちは僕に汚い言葉や悪いことを教えようとしたけど、フィスは俺の弟にはそんなことは必要ないって、いつも庇ってくれた。
僕がフィスの真似をしようとしたら、うんと叱られた。
だけど、お母さまやマティアスみたいに、僕を捨てたりしなかった。ずっと側にいてくれたのに……僕はまた一人ぼっちになってしまった」
「マティアスは君を見捨ててなんかいない。君を迎えに来たんだ。だから君は一人じゃない」
そう言うと、少年は信じられないような顔で、フェリックスを見た。
「あなたは僕を殺しに来たのではないのですか?
どうか僕をフィスの所へ連れて行って下さい」
その言葉に、トレバーが反応した。
「馬鹿言っちゃあいけない。
海賊が死んだら行く場所に、坊ちゃんはたどり着けないんですよ。
その海賊……フィスは、坊ちゃんに自分と同じ道を歩ませたくなかったから、真似しないように、うんと叱ったんです。
もう二度と会えません。それでいいんですよ。もし会うことがあったら、フィスを心底、がっかりさせますよ」
トレバーが突如、親身になったのは、少年がテオに似ているからだ。メイベルほどではないが、面影は十分過ぎるほどあった。彼は少年にかけた言葉で、自身が傷ついたように見えた。
どんな大義名分があっても、綺麗ごとで飾っても海賊は海賊だ。自分はテオを道連れにしている。
海賊は、海賊――。
もう一度、絶命した若い海賊に視線を向ける。
彼の真意はもう分からない。
フェリックスはマティアスが来るまで動かないという少年を説得して、寝室から連れ出すことにした。
二人の遺体の脇を通り過ぎる時、少年は呟いた。
「フィスは、自分が一番に父に復讐する権利があると言っていた。
メイベルでもマティアスでもなく、自分が父の最初の子だから――と」
――フィスは本当に僕のお兄さんだったんだ。
少年は思った通り、オルタンシア公爵家の次男であるロイだった。
父のオルタンシア公爵は、赤ん坊を入れ替えられたことから、ロイが生まれるとすぐに、彼を母親の手から引き離し、かといって、自分で面倒を見る訳でもなく、家臣たちに育てさせた。長じては海賊たちの手の内にあった。
孤独で、周囲の環境に恵まれなかったにもかかわらず、ロイが真っ当な人間に育ったことを、多くの者が感謝することになる。
結果的にフィスの存在が大きかったことは、トレバーも認めるしかない。
事の次第を知ったテオは「じゃあ、俺があっちで会ったらロイの代わりに礼を言っておくよ」と笑ってみせた。
***
クラポーもオルタンシア公爵もいない。
マティアスとロイも戻って来た。彼らは母親に敬意を払い、慕ってくれている。
オルタンシア公爵夫人は二十年ぶりの平穏を噛み締めていた。
なんて“幸せ“なのかしら。
ふと、あのトレバーの存在や、自分の娘と認めさせられたメイベルのことが頭に過るが、それに対して感情を持つことすら億劫になっていく、
“幸せ“だからだわ。
いつものように無花果の実をほおばると、胃が傷んだ。
医者はあまり無花果を食べ過ぎないように、と診察していった。
それでもオルタンシア公爵夫人は彼女の木になる無花果の実を好んで食べ続けるのを止められない。
そんな無花果の木が、見る見るうちに弱っていった。
「もう中がスカスカでした。切り倒すしかありませんね。このままでは倒れて思わぬ怪我人が出るやもしれません」
無花果の木について、”マティアス”がオルタンシア公爵夫人に説明する。
彼女は「大事な木なのよ」と抵抗したが、今やこの公爵家で彼の言葉に逆らうものなどいない。労りと優しさの籠もった口調で、無情な決定を告げられた。「寿命がきたのでしょう。この木は他の木よりもよく実をつけましたね。そのせいで、命が尽きるのが早いのかもしれません。新しい無花果の木を植えて差し上げますよ」
いつもそうだ。息子というのはそういうものなのだろうか。
そうだ――私の息子が私の為を思って言ってくれているのだ。それが正しいのだろう。
考える気力を失ったオルタンシア公爵夫人は、ぼんやりと思った。
***
テオは無花果の木の下から出てきたものに対し、庭師に口止めの金を払った。「母は何も知らずに食べていた。こんなことを知ったら卒倒してしまう。ただでさえ、最近、心身が弱っている。心労をかけたくない。分かってくれ」
庭師は頷き、そそくさとその場を去った。
埋まっていた骨はまだ若い女性のようで、衣類など、身元が分かるものはつけていなかった。何か所か骨折しているが、致命傷となったのは、頸部のものだ。
「首を絞められていますな」とトレバーが検死した。それから、付け加える。「出産経験があるようです」
さらにもう一体。
「こちらも若い女で、経産婦ですね。骨からはこれ以上、死因も何も分かりませんね」
「土の様子から、先ほどのものよりは後から埋められたようです」
「坊ちゃん……大丈夫ですか?」
彼女たちを丁寧に埋葬しなおした後、新しい無花果の木が植えられた。前ほどよく実はつかないが、それでもう構わなかった。
無花果の実を好んで食べた人間はもういない。
彼女の無花果の木に生った実が尽きると共に、オルタンシア公爵夫人の命の灯も消えた。
直に、新しいオルタンシア公爵夫人がやってくるだろう。
ロイはすっかり一人前になって、一人になることを恐れなくなった。だから二人になることを決めた。彼は自分の妻に、庭にある無花果は食べないようにお願いした。その子にも、その子にも――またその子にも。
今日も、オルタンシア公爵家縁の家々の食卓には、無花果は決して上らない。




