032:潮騒の宴
翌朝、テオはオルタンシア公爵領から乗って来た帆船から、小舟に乗り換えて人魚の浜まで漕いだ。オルタンシア公爵家のものは、全て捨ててくるとの意思表示であった。
それはまた、エンブレア王家と“花麗国“王家との取り決めでもある。
両国の友好は、すでにフェリックスとメイベルの婚姻によって盤石となっていた。さらに縁を重ねるよりも、女王には、他に有利な結婚を選択すべきとの声がエンブレア国内では大きかったのだ。他国の王と強大な同盟を結んでもいい、もしくは、国政に口を出さない血筋だけは良い男の方が、なにかとやりやすい。
加えて、姉と弟を通じて”花麗国”の影響力が強まる懸念も捨てきれない。
”花麗国”側も事情は同じで、自国の一部を成すオルタンシア公爵がエンブレア王国に近づきすぎるもは好ましい事態ではないと考えられたのだ。
ある日のこと、女王の遠縁であるネイサンがふらっと王宮にやって来て言った。
「うちの陛下じゃ、気に入らない相手を押し付けたところで、あの気性の激しさだ。他国の王ならば新たな火種になるだけでしょうよ。かと言って、凡庸な男など、女王の寝台で役に立つかどうか。
……選ぶべきは、”賢い”男です。私のようなね」
すでに変わり始めていた潮目はそれで決まった。
様々な交渉を経て、テオは弟にオルタンシア公爵位と”マティアス”と言う嫡子の名を譲ることになった。無論、彼に異論はない。やるべきことは果たした。もともと未練は無い地位だった。
そして、女王グウェンダリンより、王配として、新たにニミル公爵位とセオドアという名前を授かった。
***
一人、同乗を許されたトレバーは、テオを助けた時のことを思い出さずにはいられない。白い絹の産着にくるまれた赤ん坊は、白い絹の晴着を着た花婿になって、自分の代わりに小舟を漕いでいる。
「トレバー、俺を助けて、育ててくれてありがとう。
今日の幸せは、トレバーのおかげだ」
テオの言葉に、トレバーの視界が霞んだ。
「お幸せに、坊ちゃん」
「坊ちゃんは止めてくれ。俺、もう結婚するんだ。一人前の大人になっただろう?」
「ええ、坊ちゃん」
周りに誰もいないことをいいことに、トレバーは男泣きをした。
テオも空を仰ぐ。よい天気だった。
小舟は感傷に浸って、進みを止める。
すると、しびれを切らしたグウェンダリンが波に向かって突っ込んだ。「テオ! まさか私との結婚に臆した訳じゃないわよね!」
「うわぁああ、グウェン! そんな訳ないよ! 今、行くから!」
「女王陛下!」
テオも慌てて小舟から海に飛び込み、トレバーは櫂を持った。
海岸からもフェリックスをはじめとした護衛が追う。
***
城館で待っていたメイベルは、ずぶ濡れの一向に目を丸くした後、マイラ夫人以下に、火を熾し、湯を沸かして、乾いた衣服を集めるように指示をした。その姿は堂々として立派で、メイベルを教育しなければと腕まくりしていたマイラ夫人は、その必要がないことを知った。
花嫁はマイラ夫人に、花婿はトレバーに任せ、メイベルはフェリックスを彼の部屋に入れ、着替えを手伝う。
「何があったんですか? お怪我はありませんか?
夏で良かったですね。少なくとも凍えることはありませんもの」
あの嵐の夜は、本当に寒かったですね――と、メイベルは思い出したように震えた。
しかし、フェリックスが海岸であったことを手短に説明すると、すぐに強張った顔が緩んだ。
「幸せな話だわ。グウェンダリンさまはずっとテオを待っていたし、テオはグウェンダリンさまを愛し続けて来たんですもの。
海が怖くなければ、一緒に行けたのに」
「いいや、君がここで待っていてくれて良かったよ」
「……そう?」
海に面した領主の妻として、いつまでも甘えていてはいけないのではないかと、メイベルは心配してしまう。
けれども、厨房の近くを歩いている時、偶然、乾燥した豆を入れ替える音を耳にしただけで、海を連想してしまい、その場に立っていられなくなったのも事実だった。
「でもフェリックスがいれば、きっと怖くないと思うの」
不意に、フェリックスの中に幸せと不安が沸き起こってきて、メイベルが濡れるのを構わず抱きしめた。「海が君を私の元へと連れてきてくれた。海には感謝している。けれども、もう返したくないんだ」
海の香りがするフェリックスの腕の中で、メイベルは「海には帰らないわ。ずっとあなたといたいから」と誓った。
***
王配ニミル公爵セオドアがオルタンシア公爵マティアスだった時代は僅か五年という短さだったが、その評判は高く、エンブレア王国の旧臣たちは警戒したが、彼は政治的な介入は一切せず、エンブレア王国の海軍に編入された”海の未亡人たち”からなる艦隊を指揮し、国の防衛に尽くした。また、女王・グウェンダリンの精神的な支えとして、重責を担う彼女を守り通す。それに関しては、オルタンシア公爵時代の経験が非常によく生きたと評価される。
女王グウェンダリンの政治的な補佐は、チェレグド公爵が担った。経済面ではドレイク商会の功績も大きい。
エンブレア王国は女王の治世の下、栄華を誇った。
その女王の時代を語る上で欠かせない女性とされるのが、チェレグド公爵夫人メイベルである。
彼女は女王の親友として、また、子どもたちの乳母として、さらには王宮の女官長として、奥向きを仕切った。また、馬の繁殖家としても有名で、同じく著名なミランダと呼ばれる女性と共に、チェレグド公爵領を名馬の産地にしたことが知られている。
彼女の手綱さばきは見事で、馬だけでなく、扱いにくいとされる女王グウェンダリンも、彼女の言葉は素直に受け入れるほどだった。
その為、かつては、夫と弟と組して、あるいは単独で、女王を陰で操った毒婦だった、との見方をする者もいた。
それに関しては、特筆すべき逸話がないことから、後世では否定的な意見が多い。
少し前まで敵国だった”花麗国”の出身であったこと、選り好みしない弟とは異なり、”花麗国”風の味付けの料理を好んだこと、あの時代の女性としては自らの意思をはっきりと表明する性格であったことが、その悪評を産むことになったのだろうと考えられている。
ただ、王宮やチェレグド公爵家の本領にばかり滞在し、海に面する新領には足を運ばなかったことに対する不満は、確かにあったと言われる。
それに関して、チェレグド公爵夫人には、不思議な話が残されている。
実は彼女は嵐の夜に海からやってきた”足のある人魚姫”で、チェレグド公爵は夫人が海風の香りや波の音に誘われて、海の底へ帰ってしまうのではないかと恐れるあまり、海辺の領地へ連れて行かなかったと言うのだ。
チェレグド公爵夫人メイベルが、王配ニミル公爵セオドアの双子の姉であることは既知の通りだが、エンブレア王国に来るまでの記録は全くなく、その半生は謎に包まれていることが、そんな噂を生み出したのかもしれない。
真偽のほどはともあれ、そんな話が残るほど、チェレグド公爵が深く、妻を愛していたことは間違いのないようだ。そして、公爵夫人もまた、海に戻ることはなかった。
【完】




