六五 母と子
義虎は五悪玉の刑に処された。
思考を奪われ、呼吸を奪われ、右腕を奪われ、左腕を奪われ、人体で心臓のある位置を凍らされ、今まさに死へ瀕していた。
__《猛虎》大将軍、そなたは……。
四神《白虎》崇黒虎は離れた陣前にあり、ただ動かずに見詰めていた。
「このまま終わるあるか」
四神《朱雀》火霊が左へ並び、尋ねてきた。
「終わらないと思うです」
四神《青龍》竜吉が右へ来て、割り込んだ。
「白虎どのもそう思うか」
四神《玄武》蘇護に左から問われ、黒虎は義虎を見詰めながら頷いた。
「猛虎どのは強い。戦ってみて確信しました」
竜吉に、火霊に、蘇護に注視されている。
「覇術とその適応値にさえ目をつむれば、武力を取りても、智力を取りても、あの方は群雄割拠す戦国時代にあってすでに最高峰を捉えておると言うても過言ではありますまい、しかし……真に恐ろしきはそこではない」
かっと、黒虎は眼を見開く。
「心力です」
かっと、義虎は眼を見開く。
あの悪名高き猛虎もついに最期を迎えるかと、鄧九公と姜桓楚が話している。と、鄂崇禹が勘付いた。
「待て、猛虎はまだ……」
ごっと、無茶苦茶に転げ回るように、義虎は飛び出していた。
意識は絶え絶え、一刻を争う重傷にあえぎ苦しみ、血は滴り息もできない。
「馬鹿な! あの状態でなぜ動けるか⁉」
「動くだけなら構わぬ、五悪玉は健在だ」
「再び捕らえ……いや何かを狙っておる」
崇侯虎が叫び、鄧九公が身構え、姜桓楚が凝視する。
義虎は五悪陣を廻っていく。
身を挺し、一つずつ、東西南北中央に渦巻く害悪の嵐へ突っ込んでは突き抜けていく。ただでさえ悶絶すべき苦痛に蝕まれながら、自らさらなる地獄へ跳び込んでいく。
止まった。
燥気の渦中へ来ていた。談徳らに呆然と見上げられ、姫昌をわなわなと震わせながら、真っ赤に爛れた眼を光らせ、笑った。
ばっと、急上昇し湿気へ突っ込み、喉を湿らせ息を吹き返していく。
「本能だ」
鄂崇禹が戦慄する。
「なんという化物か……血流を絶たれ脳は機能せぬ、にも関わらず窮状を打開する術を探らんと動いたのだ。もはや人間の理屈ではない……我々の想像を絶する修羅の経験に裏打ちされ条件反射の域へと昇華させた、戦人の本能へ身を委ねておる」
「まずは頭を乾かし思考を戻し、次いで喉を潤し呼吸を戻した、と」
そう唸る鄧九公を遮るように、姫昌が歯を噛み鳴らす。
「まともではないのう。本能だけで理屈通りに動くなど、いやそれ以上に、紙一重の差で生死が分かれる戦のさなか、何も考えず本能のまま動くなど……およそ人の成せる所業ではないぞ!」
「この義虎は人にはあらず」
ぞっと、聞く者全てを怖じらせん声が響く。
「虎にござる」
談徳が、哪吒が硬直する。五行侯が発汗する。姜以式が眼を閉じる。
ごっと、義虎は満身創痍で、五悪陣を押しのけんばかりに覇力を噴き上げる。
「髄醒顕現『鉄刃空紅戦人』」
竜鬚虎が降らせる石の驟雨に思わず目を閉じた麗亜は、不意に持ち上げられ目を開けた。妖美が自分と碧を両脇へ抱え、凄まじい速さを出して逃げていた。
「面目ないね、鎧仗さえ使えれば武器と甲冑とで受け流すのだけど」
「ううん、ありがと。あっ、ボクは走れるよ、もう下ろして大丈夫」
「ん、やめとけば?」
碧に言われ振り向けば、一寸後ろを石が穿ってきた。
妖美は竜鬚虎が的を定められぬよう、右へ左へ不規則に跳び、木や岩へ隠れ時には止まりながら、あくまで速く走っている。
山忠は懸命にそれを追い、サボテンフクロウのざボ点、カラフトフクロウの樺太郎はその先を飛び、韓毒竜や薛悪虎、鄧嬋玉がどう動くかを警戒している。
__下りても足手まといだ、下りる暇ないし、それに……。
「妖美ちゃん待った、絶壁へ向かってるよ! えっと左へ行くよ」
ざボ点が叫び、妖美がしゃがみ石をかわし、山忠を導いていく。
依然として竜虎の罠の術中にいる。
薛悪虎はこちらの動作や行き先、一つ一つへ不運を強いてくる。走る、曲がる、跳んで着地する、そのたびに足をひねり滑らせかねない。一度でもしくじれば即、石の餌食となる。
__しかも人二人担いで、両手も塞がってるのに。妖美くん、ほんとにすごい。でもほんとに申し訳ない……打つ手を考えないと!
「ん、岩も来とるよ」
「さすがに参るね、しっかり掴まっていたまえ」
黄、青、白、黒の岩が滑空し、前方四面から向かってくるや妖美が高く跳躍し、覇力甲を固め黄を蹴り砕き、破片を飛ばし青を逸らし、蹴った反動を利用し進路をずらし、白黒を掻いくぐっていく。
__妖美くんも覇力使って体辛いはず。どうしたら……もおっ、思い付いてよ打開策、考える余裕あるのはボクしかいないんだよ⁉
けたたましく連続し破裂するように、岩も石も追い付いてくる。
__考えろ! 急げ! ねえ! なんで……頭回ってよおっ!
「ん、なんか来る!」
鳳が飛び出した。
天も地も人も神の舞わせる風へ呑み込み、ただ飛び去るだけにして、巨鳥は岩も石もことごとく薙ぎ払う。そして天空へ弧を描いて舞い戻り、太陽を背へ纏うように降り立ってくる。
敵も味方も唖然としている。
__お、大きい。脚三本ある? カラス? え召喚獣? 敵? 味方?
「ここにいる誰もが知らないなら、高句麗軍では」
「おぉー、じゃあ味方⁉」
呟く妖美に下ろされながら、麗亜は胸へのしかかっていた霧が晴れ渡っていくのを感じていた。
「三足烏……」
と、声を震わせながら、よろめきながら、碧が巨鳥へと踏み出していく。
ゆっくりと、巨鳥もこちらを向いてくる。じっと、静かに見詰めてくる。
__ううん、碧ちゃんだけを見てる。
麗亜も皆も確信していた。誰もが一様にして動きを止め、碧と鳳を見守った。
「三足烏……」
碧は息をすることも忘れていた。
__違う、違う、違う、違う違う違う違う違う、違う人だから!
だが頭は勝手に唸り、違わない可能性を探ろうとする。
落ち着いた佇まい、そして注ぐ視線に宿る温かさから、三足烏は召喚獣ではない気がする。三〇メートルへ及ぶだろう体高、一〇〇メートルへ達するだろう翼開長から、火霊が超魂覇術で召喚した朱雀と同規模であると思われる。それで召喚獣ではないならば、巨鳥と化す強化種か、あるいは覇術行使により人外と化した姿か、いずれにせよ髄醒覇術によるものだろう。韓毒竜の覇術領域内にあって、術者は想像を絶する苦痛を被っているはずである。
三足烏にそんな気配はない。
どんな覇術であれば韓毒竜の覇術を打ち消せるか。
__天地人なら……。
すっと、三足烏が涙をこぼす。
はっと、懸命に首を横へ振る。
__違う違う違う、あの人じゃない! だって……死んだじゃん。
どれだけ欲したか。
独りぼっちで辛かった時。ひもじかった時。盗んで追われ取り上げられ嬲り倒され悶絶した時。なんでわーを残して死んだんだと、お願いだから助けてと、会いたいと、喉が張り裂けるまで慟哭した。
会いに来てはくれなかった。
三足烏がよじれていく。泣いている。
__おらんもん。欲しても虚しいだけ、だから考えんようにしてきた、ずっと、ずっと、ずっと……違う人だから。おるはずないんだよ、ないんに……。
どっと、碧は泣き崩れる。
__欲してしまうじゃんっ!
「おっかああっ!」
叫んでしまった。
「碧いっ!」
三足烏も叫んだ。
誰もが完全に停止していた。巨大な三足烏が黄華将らを見下ろした。
「立ち去りなさい。私はもと将軍です。それでも戦うというなら」
かっと、三足烏が眼を見開く。
「娘を傷付けた者へ手加減はできません」
ごっと、天を震わせ、地を沈め、人を這わせんばかりの覇力が拡散する。
〈覇力威〉である。
次元の違う力をもつ者がその覇気を魅せ、力の足りぬ者らに抗う気力を失わせ、無血をもって道を開けさせる至上たる威嚇である。黄華将のみならず、麗亜やフクロウたちも膝を付いていく。
碧には温かかった。
__わーを護る覇力威なんだ……。
神々しく、光り輝いて見えるようだった。
__おっかあなんだ!
黄華将が去り、危機も去った。
三足烏が覇術を解く。澄み渡り舞い上がるような荘厳たる深碧へ光り輝き、人へと戻り降り立っていく。三つ編みにした髪を首の後ろで丸けてまとめるチョンモリに、碧色で揃えるチマチョゴリの大きな裳をなびかす様には、民族の伝統を堅実に護り受け継がんという固い意志が表れている。
__カッコいいし、強いし……。
碧は傷んで疲れきった体を引きずっていく。
__あったかいし。
目が熱い。欲する姿が揺らめいていく。しゃくり上げる。
皆に恥ずかしいところを見られているとか、ここが敵地のど真ん中であるとか、死にそうな時も助けてくれず今までどこにいて何をやっていたのかとか、どうでもいい。
討ち取られたと聞いた。大和朝廷の罠だったと知った。どうでもいい。
嬉しいのか恨めしいのかも分からない。どうでもいい。
__とにかく欲しい。
碧は立っていた。
「おっかあ」
揺らめき、まともに見えないが、間違いなく、欲する人の目の前にいる。
「おっかあ、でしょ、わー碧だよ」
うわずり、まともに喋れないが、とにかく、欲する人かを確かめたたい。
「わーのおっかあ、なんだよね」
よろめき、まともに進めないが、力強く、欲する人へと飛び込んでいく。
「おっかああっ!」
「碧いっ!」
抱き止めてくれた。全身でしがみ付く。
「おっかあです。碧のおっかあですよ」
__おっかああっ!
「嗚呼、よくぞ生きていてくれました。さぞかし辛かったでしょう……こんなにも傷付いて……全ては不甲斐ないおっかあのせいです、本当に、ごめんなさい」
__ごめんくない!
そう言いたいが、泣き声しか出てくれない。
「今さら許してくれなどとは言えません。ですがせめて、これからはあなたを護らせて下さい。陰ながらで構いません、どうか……この傷も癒させて下さい」
深碧の柔らかな光に包まれる。温かい。
〈万能治癒〉という覇能である。
体中の痛みが薄れていく。擦りむき斬られた傷も、ひねり打ち付けた傷も、まとめて治療されていく。
__ん、懐かしい感じ……。
幼い頃、穏やかな村の小さな家。
ぶつかったり転んだり、風邪をひいたりすると、いつも母に治してもらった。抱っこしたり、膝枕したりしながら、優しく頭を撫で続けてくれた。安心できた。幸せだった。
__おんなじだ……。
涙を拭い、顔を上げて微笑んだ。
「陰ながらじゃやだ。堂々護って」
母は泣いていた。酷く思い詰めている。一蹴してやりたい。
悲しい時、悔しい時、寂しい時、何度も何度も母の顔を想い出しては自らを励ましてきた。それと微塵も違わぬ母を見詰めながら、碧は声を弾ませた。
「母と子に許すも許されるもないし。わーのおっかあ、めぇ一人なんだから」