六一 碧タタカウ
暗い青紫、紫紺。
暗い赤紫、紫檀。
二色の霧が重々しく混ざり合い、ぬかるんだ山道へ立ちこめていく。
頭が痛む。関節が疼く。悪寒が辛い。汗が止まらない。焦点が定まらない。
__うっさい、集中しろ……。
碧は歯を食いしばる。
宝剣を引っさげ、紫紺に染めた衣をひらめかせる仙女のような女将が、稲妻さながら駆け入ってくる。馬蹄に蹴られ震える地面が、撒き散らされる塵芥が、こだましてくる風音が、不気味なほどにまざまざと感じられる。
__時々だけど刹那、焦点が合う。次に合ったら……。
鍛えに鍛え、体へ沁み込ませた鎖さばきを信じ、鎌を構える。
__まだ、まだ、まだ……。
女将は速い。もう来る。その間合いに入ってしまう。
__合った!
「今だべ!」
「おうっ!」
鋭く、放る。一瞬だけ遅れた。ぶれた焦点に軌道をずらされ、女将に受け流しながら鎖を絡め取る余裕を与えてしまった。
__まずい!
強く引っ張られ、鎖を手放す間もなく岩から転げ出され、体勢も何もあったものではないところを強襲され、きつく、目を閉じた。
「させねえべ!」
ごっと、山忠が体ごと、疾走する馬へぶつかった。
衝突した衝撃で剣ものけぞり、碧は受け身を取って顔を上げる。二騎目が来る。
__ん、さすがはマッチョ。よし一騎目は任せて……。
汗だくだが、山忠はびくともしていない。万丈の気を吐き、柄の両端を棘だらけの鉄塊で固める大杵を振り上げ、剣を跳ね飛ばした。
__わーは二騎目を討つ!
「超魂顕げ……ぐぁっ」
頭が爆発したかと思った。
「碧どん、ぬわっ、こいつ少林拳だべか」
超魂覇術を発動せんと覇力を気張ったとたん、病魔に意識を蹂躙された。さらに運悪く、膝を付いた所に尖った石があり、刺さって怯み体勢を崩した。そこへ二騎目が宝剣を奔らす。かろうじて掲げんとした鎖鎌も、運悪く先ほどぬかるみに落ちたらしく持ち上がらない。
山忠は一騎目の鋭い徒手空拳に阻まれ、助けに来られない。
__負けるかあっ!
がっと、碧はどうにか鎖を盾にするも砕かれ、肩を斬り裂かれ突き飛ばされる。
そして運悪く飛ばされた先に頑強な岩があり、逆の肩を打ち付け気が遠くなる。
__いた、痛すぎて……くそっ、くそおっ、くそおおおっ!
悶絶することしかできない。指一本すら動かせない。目も開けられない。
「碧どん! かわすべよ、諦めんじゃねえべよおっ!」
二騎目が下馬し紫檀に染めた衣をひらめかせ、碧へ剣を振り下ろした。
紫紺が韓毒竜、紫檀が薛悪虎である。二人は碧らが名乗ったのを聞いて、捕らえれば使えると察し本陣へ報告していた。
「貴殿の愛する部下と弟子が、黄華の罠に落ちたそうじゃ。どうじゃ」
そうして義虎は唸らされた。
「取引せぬか」
「うぃー、落ちたは具体的に誰にござろう」
即答された。世界第一位たる超大国において大軍師と畏れられる姜子牙に、まだ無名である教え子を名指しされた。
__うぃー、義虎を脅すため身辺を調べ上げおっただけか……。
談徳や哪吒も、姜以式と黄飛虎も、五行侯も手を止め、こちらを注視している。姜子牙は泰然自若として微笑んでいる。
__それとも誠に二人を捕らえたか。あるいは単に交戦しとるのを罠にかけたなどと誇張しとるにすぎぬのか……いずれにせよ義虎に救いに離脱してほしいんでしょう、さすれば高句麗軍は頭数足らず押し切られる。少なくとも、わざわざ姜以式大将軍や談徳太子まで無謀に討って出てまで稼ぎたいであろう時を、しかと稼がせてやらねばだよね?
義虎はどう喋るかを練り込んでいく。
「両人は大和本軍におるはずでござるが」
「生死不明であった貴殿を探さんと、動いてきたとみえる」
「されば、それがしが身を隠して二日が経ち申す。二人を捕らえし場所がいずこかによっては、この話を信じましょう」
姜子牙が悠々と頷いてきた。
「危厳道、大和側から見て三分の二ばかり進んだ地点とのこと」
(危厳道、大和側から見て三分の二ばかり進んだ地点にござる)
にっと、義虎は眼を煌めかせた。
念話通信に熟達した者に登録してもらう場合、会いに行かずとも、その者と念話を繋ぐ既存の登録者と覇玉を近付け間接的に登録することができる。義虎はそうして念話する手段を得て行動している。
「取引なぞ必要ござらぬ。助けぬ故」
ぐっと、姜以式が眼を閉じた。談徳が念話を繋いできた。
(なぜ行かれぬのです、大切な仲間ではないのですか)
(いかにも。さればこそ、勝ってくれると信じられる)
姜子牙が進み出てきた。
「いま一度よう考えるがよい。両人が落ちたは〈竜虎の罠〉という。二五もの武官を討ち、将軍すら討ち、投降せし者を除けば逃れ出た者は皆無である。じき無残な姿となり引っ立てられてこよう、首へ刃を突き付けられるを見てから悔やんでも遅いのだぞ」
「我が同胞は竜虎の輝かしき戦績へ初めて泥を塗るという栄誉を勝ち取りまする」
かっと、義虎は眼を見開いた。
「仮に共倒れとなろうと、そは偉大なる盟友を援け参らせる気高き戦、そして自ら望みて志す生き方へ殉じたまで。何を悔やむことがござろう。その志を踏みにじり、無用な横槍を入れにここでの大事な役目を放棄したとあっては、それこそ両人へ顔向けできぬ」
言いきった。
じっと、談徳がうつむいている。
恍魅や牟頭婁らが火中へ駆け入り、談徳を守って哪吒へ対した。
姜以式が深く頷いた。姜子牙や黄飛虎が笑った。おもむろに、奥へ仁王立ちする聞仲が腕を組んだ。
「ならば大軍師、やはり我らに戦わせて下され」
「こんな若造ごときにあれを使ってやるは不本意だが、見せしめは必要だからな」
姫昌、崇侯虎ら五行侯が武器を構え、五〇メートルに達する麒麟たちを踏み出させる。姜子牙が重ねて笑った。
「よかろうて。潰せ」
__うぃー、潰されるかよ、されど自分より……。
大見得をきったが、本当は心配でたまらない。今すぐにでも飛んでいきたい。
__みど……。
まだ十四歳の、か細い少女である。
幾たび重ねた死線で背を預け続けた、山忠が付いている。そして、念話し巨大な一手を打ってある。何より、背を見せ稽古を付けて戦の真髄を叩き込んである、風神雷神の縁をあまねく天下へ轟かそうと約束してある。よって無問題だと自分へ言い聞かせる。
__がんばれ。みど、できるよ、がんばれ……。
__がんばる。トラ、信じてね、がんばるから!
どっと、碧は我武者羅に身を転げ出し、剣をかわした。
山忠が歓喜に叫び、女将たちはまだ動けるのかと驚愕する。
碧は泥溜まりへ突っ込んだ。
__痛い痛い痛い、痛いんだって、痛いんだよおっ!
泣きわめきたい。
裂けた傷へ泥が混じり込み、目にも、口にも鼻にも飛び込んでくる。地面へぶつかる衝撃が電撃を奔らせ、頭や肩が絶叫する。汚いとか暑いとか、苦しいとかもう分からない、何もかもを激しく痛く感じてしまう。
薛悪虎が斬りかかってくる。
__でもトラはいっつも、こんなん耐え凌いで、歯向かって……。
泥水を蹴り付け跳ね上げ、足止めする。
__だから、わーも!
どっと、体を跳ばし、鎖を叩き込む。
がっと、打ち落とされ、胸を蹴り抜かれる。
ぶっと、熱く不味いものを吐き出し、転げ出され、心臓が止まる。
「碧どん! 起きるべ、頼むべよおっ!」
__ん、無問題、心臓なんか気合でえっ!
涙なのか汗なのか、もう視界など洪水に呑まれあったものではない。頭は喰い込む万力に拷問され怒鳴り散らすばかり、もはや理性など働かない。どこがどう痛むのか、まだ武器を握っているのか、生きているのかすら分からない。
__どうでもいい!
噴火する士魂に呼応したか、強く、心臓が動き出す。
__戦え! 勝て! 狂え! 討て! 闘え!
碧は鎖鎌を構え立ち上がる。
義虎と積んだ修行を想う。限界まで追い込まれた感覚が残っている。
大将軍《猛虎》の打ち込みはとんでもなかった。速く、鋭く、重く、一撃受けただけで腕も肩も持っていかれんばかりの、何度も何度も限界をかなぐり捨て死地を打破し続けた強さが宿っていた。
__わーも、ほしい。
薛悪虎が斬り込んでくる。鎌を振りかぶり、真正面から叩き付ける。
__こんな奴、猛虎に比べたら屁でもない!
眼から黒を失いかけながら、赤々と充血させながら、満身をもって押しのける。
「なにっ、おのれ!」
横へ回られ、脇腹を蹴り付けられ、硬い地面へ打ち据えられる。
悶絶する。潰れた肩をさらに潰した。
__だから、どうした。まだ、戦える、戦え、たたかえ……。
義虎へ尋ねた。何が、その細腕から強い威力を引き出すのか。
『結局は心力かな、単純な筋力にはあらず』
死闘につぐ死闘、気の遠くなる熾烈な研鑽を積み重ね、心身いかなる状態であろうと必ず同じ打ち込みができるまでに昇華すれば、その刃は一切の無駄をなくす。すなわち極限まで集中した無心にあって、沸騰する士魂を余さずそのまま宿し打ち込むことができる。
『腕まえで負けるは恥ずかしくない、気もちで負けるは恥ずかしすぎる。だから戦え、そして闘え』
__たたかエ、たタかエ、タタカエ……。
どっと、碧は踏み出し、体ごと突っ込む。
足もとに重い石があり、蹴つまずいて顔から滑り込む。そこを薛悪虎が斬り付けてくる。転がってかわし、転がり戻って鎖で刀身を抑え込み、手へ噛み付いて武器を奪う。
ごっと、頬を殴り付けられる。
吹き飛ばされ、剣も返してしまう。大岩に頭をぶつけ、鋭いのか鈍いのか分からぬ痛みともども、朱黒く熱い液体が滴ってきて視界を失う。
もとより手首を痛めている。足首をひねっている。膝に石が刺さっている。肩を斬り裂かれている。肩を叩き潰されている。胸や脇腹を打ち抜かれている。悪寒にさいなまれ、関節痛にむしばまれ、汗と泥に揉みしだかれ、、それ一つに殺されんばかりの頭痛にいたぶられ続けている。
もう何も感じない。
__タタカエ、タタカエタタカエ、タタカエタタカエタタカエタタカ……。
何も考えない。黒を失い赤々と傷む眼を半開きに、碧は突っ込んだ。