118 幕のおわりに※
なかなか鳴り止まぬ拍手の中、オーケストラを指揮していたアルムは前列に佇む主従の元に歩み寄り、にこっと笑った。
「二人とも、おつかれ。…よくよく考えたら、私はこのあとも指揮をしないといけないんだった。
レイン、エルゥを控えの間までエスコートしてあげて。オーケストラでも一曲する。ダンスや晩餐会の演奏もあるから、それまでには戻るように」
「はい、アルム様」
従者の礼で応えるレインに、今は指揮者となった歌長は鷹揚に頷く。ふと姿勢を正すと娘を見遣り、「エルゥ」と呼びかけた。
「はい?お父様」
こいこい、と手招きされたので、姫君は見目よい父に歩み寄る。すると……
ふわっと抱擁された。会場内が、演奏とはちがう意味で一段と「ドッ…!」と盛り上がる。
アルムはゆっくりと身体を離すと、濃い緑の双眸をふっと和ませた。得も言われぬ、包み込むようなやさしい笑顔――愛娘を前にしたときだけの、とっておきの表情だ。
「とても、すてきな声だった……素晴らしい歌い手になったね。私の姫君――かわいいひと」
そのまま、未だ紅潮おさまらぬ娘の頬に、口づける。
「!」
会場が一層どよめいた。なぜかご婦人の悲鳴まで方々から聞こえる。
娘はそれらの声を一切遮断し、嬉しげに答えた。
「ありがとうございます、お父様……!では、今度こそ一緒に歌ってくださるんですね?」
わくわくと、輝くような青い瞳にアルムは相好を崩しっぱなし。
答えはもちろん、是。
* * *
「やっぱり、僕の最大の敵はアルム様ですか…!」
ぱたん、と控えの間の扉を閉めたとたん、栗色の髪の従者は素に戻った。エウルナリアはくすくすと笑い、結っていた髪をほどきにかかる。
…が、なかなか手強い。
「まだ言ってるの?それ。懐かしいね」
「懐かしくなんかありません。今も進行中の、最大懸案事項です…」
レインは主の苦心を見兼ねてか、話しながらも彼女を導いて手近な椅子に座らせた。そのまま、後ろから結い髪をほどくのを手伝う。
長い指が少女の黒髪をやさしく梳くたび、編み込まれた波の跡が残る、柔らかな髪が少しずつ、肩と背に流れ落ちてゆく。
「………はい、終わりましたよエルゥ様」
「ありがとう」
椅子から立ち上がり、振り返ると、温かな光を宿す灰色の瞳と視線が絡んだ。
――…ほどけない。
姫君は、気持ちを抑えきれなかった。僅かに小首を傾げて小さく「レイン?」と呼ぶ。
すかさず「はい?」と答える声。
次の瞬間―――エウルナリアは、大好きな、大好きな従者の少年の胸にみずから飛び込んだ。ふわ……っと、青い衣装の裾と白銀の紗が空気をはらみ、宙で彼女を追いかける。
レインは束の間、目をみひらいて……ほぼ反射で両腕を差し出し、抱きとめた。
少女は居心地を確かめるように、すり、と目の前の首筋に額をあてる。背に回された、かれの腕の温かさにとてつもない安堵を感じながら。
「好きだよ、レイン」
「………もう一回」
「大好き」
「まだまだ」
「…よくばりだね」
「どれだけ、待ったと思ってるんです…!」
憤慨したような物言いには、確かに理不尽さが滲んでおり――もう、我慢できないとばかりに少女は震えだした。「ふ、……ふふふっ…あはははっ!」と、衝動のままに笑っている。
レインも、言葉ほど怒ってはいない。むしろ――
ぴた、と笑いを納めた少女は従者の少年の顔を見あげた。ぎゅ、と抱きしめる腕に力が込められている。
「レイン……?」
「足りません。ぜんぜん、足らない」
すっと、背から右腕が外された。ピアノに似合う長い指がエウルナリアの頬を、耳を、頤をやさしく撫でる。
……ふと、親指が珊瑚色の下唇に触れたとき。少年は、主に訊ねた。
「もう、“エルゥ”って呼んでもいいですか?」
「いいよ、二人のときなら」
幸せそうに笑み綻ぶ、大切な少女に。
レインはそっと、唇をかさねた。
――呼吸も、時間も止まる思いで。
「………、ですよ、エルゥ」
ありったけの熱を込めて、赤くなった耳元でささやいた言葉はほとんど吐息。
腕の中の温度が高い。くすりと微笑うと、ちいさく身じろぎする気配がしたので少し、力をゆるめた。
……愛らしい、青い瞳がまっすぐにレインを映している。
エウルナリアの白く小さな手。その指が、従者の少年の頬に触れる。引き寄せられるまま、彼女の口許に耳をあてると「…私もよ」と、恥ずかしそうに告げられた。
今、幸せそうな二人が、二人っきりで居られるのはあと少し――オーケストラの曲が鳴りやむまでの間だけ。それでもいい、と少女は思う。
そうして再びはじまる、くり返される音楽の時間。
―――大好きなひとのピアノと一緒に。
姫君は、歌わずにいられない。
fin.
読んでいただいた皆さまへ
長いことお付き合いくださり、ありがとうございました。本篇はこれでお終いなのですが、完結後、関連作品をたくさん書いてしまいました。
◆過去篇『湖の精と歌長』(R15)
◆続篇『楽士伯の姫君は、心のままに歌う』(R15、残酷描写あり)
◆外伝『ロゼルの孵化』(年齢制限なし)
◆主に学院でのエピソードを綴った短話集(年齢制限なし)
過去篇と外伝は低評価ですが、完結しています。
R15の続篇はただひたすら、突っ走りました……もうすぐ完結です(2020/11/5現在)
作者名→マイページの作品、または作品一覧へ。
或いはタイトル上部の青字シリーズ名「とある大陸奇譚」をクリックされても繋がります。
R15作品は、本篇では書けなかった色々を書かせていただきました。些末ですが、ご案内まで。
──これからも皆さまに、よりよい読書の時間が訪れますように。
(続篇のエルゥとレイン、完結のイメージイラスト)
ありがとうございました!