117 歌姫とソリスト
時は戻る。
大ホールに、音の輪と波が充満している。石造りの高い天井、磨きあげられた大理石の床。聴客らの衣服などで多少は吸い込まれるが、補って余りあるほどの反響が、ここにはある。
しっとりと旋律を奏でる第一ヴァイオリン、ハーモニーで深みを与える第二ヴァイオリンとビオラ。低くたゆたうチェロに、基となる流れを築くコントラバス。
それら弦楽器の静かな曲調を礎に、まずはフルートの女性独奏者がすぅ、と息を吸い、吹き込めて……主題を歌い始めた。
空間に、光が舞うような音だ。やさしく響き、誰の耳もやんわりと捕らえて、放さない。
うっとりと聴き惚れる人びとの頭上に――やがて、月の光のような声が一条、届く。
……切ないほどに、うつくしい女声。
歌い上げる旋律は先ほどのフルートの主題と同じ。しかし、ひとの声が、こんなにも心を揺さぶるのかと。
ある者は驚嘆に目をみひらき、ある者は酩酊したように、すぅっと瞼を閉じた――痺れるような音の波に身を投じる場合、後者のほうが正しい。
彼女の外見から、もっと、細く可憐な声を連想していた人びとは今、驚きと予想だにしなかった恍惚のさなかにある。
―――胸をあまく締めつける、叙情的な響きに酔いながら。
つよく、一筋の芯をとおした声音。
pppだろうとffだろうとそれは揺るがず、伸ばした音のヴィブラートすら滑らかに、背に受けたオーケストラの旋律に君臨する。
少女は、月光の女王にも見えた。
今は指揮者であるアルムが、視線と表情、右手の指揮棒でオーケストラを制御しているが……向かって左のグランドピアノにふと目線を遣り、左の人差し指を振った。――――すると。
今までフルートが担っていた少女の対旋律を、今度はレインが奏で始めた。
即興だ。
本番でリハーサルも無しに、この荒業をやってのけるかれに、エウルナリアは心を躍らせる。
(すごい)
歌いながら聴き惚れるなど、なかなか出来ることではない。でも、惹き付けられる。
実に楽しそうな歌姫と、ピアノの独奏者に――アルムは、微苦笑をこぼした。
完璧な制御と調和の音の海のうえで、主従の声と音が響き、かさなり、弾けるように輝いている。
聴くもの達の表情も軽やかに、微笑みに彩られる。なんというか―――口許が、勝手に笑んでしまう。それくらい音が豊かで、幸せでしょうがない。
けれど、どの曲にも終わりは訪れる。
螺旋階段を降りるように、少しずつせつない韻を踏みながら、下降する音階。
ひそめるように鳴りをおさめてゆく、音量。
そして、最後の一音。
ァーーーーーーー~~……
バァンッ………―――――――――
上質な、織りたての白絹のようになめらかに響く、柔らかく澄んだ歌声とピアノの余韻に彩られて。
エウルナリアとレインと、生え抜きの皇国楽士達による音の共演は、終わりを告げた。
「―――…」
「…………」
「…―――っ…」
しん、と静まるホールに。
パチ… パチ パチ ……
あちこちで拍手が鳴りはじめる。そして…
「「ドオォッ…………―――!!!」」
――と。
地響きにも似た歓声、鳴りやまぬ拍手、飛び交う賞賛に悲鳴のような熱狂で、たちまち飽和状態となった。
それらを受けて。
満ち足りた笑顔の歌姫は、見事なピアノを聴かせてくれた独奏者とともに、うつくしい一礼を人びとに返す。
―――嬉しそうに見つめあう二人に、にぎやかな口笛とやさしい雨の音のような拍手が、いつまでも降り注いでいた。