115 皇国楽士(表)
ざわめいている。
湖の小皇国レガートの西に位置する、アルトナの王サガンは姿勢を変えず、目視だけでゆるりと会場内を見渡した。
入り口に近い端で腕を組み、壁に寄り掛かっている。ホールの大扉は開け放たれており、いまだ人の出入りは顕著だが、主要な国家の面々は揃っているようだ。
主要国――大陸中央の五国、則ち湖のレガート、最北の白夜、草原の都オルトリハス、翠海のセフュラ、そして穀倉のアルトナ。
《善良国》と二つ名を戴くものの、それは結果論に過ぎない。アルトナの建国は遡ればおよそ三百年前。西の大国ウィズルから周辺諸国の介入あって独立を果たした、独自の大地母神を信奉する農耕の国だ。
なだらかで平地に富み、河川に恵まれ、セフュラとの国境にあたる黒峯岳の周辺は特に豊かな穀倉地帯。その他多くの野菜栽培や、白雪山脈の端近くで営まれる畜産業など、わが国民の慎ましい実直さと勤勉性は、誠に諸国に誇るにふさわしい。いっそ、《大陸の食糧庫》と改名してほしいくらいである。
とは言え、ここ十年ほどはよろしくない。
ちら、と向けた視線をホールの中央、人だかりの只中――レガート皇王マルセルと歓談中らしい砂色の髪の青年に、それとなく定める。
昨年、長く続いた内乱を収めて東西統一を果たした、新ウィズルの王ディレイ。
かれのお陰で、とりあえずの難民対策や国境警備への負担は減額傾向にあるが……どうも、腑に落ちない。
「杞憂なら、いいんだがな…」
淡々と呟いたサガン王の耳に、やがて大扉の向こうから粛々と近づく大勢の足音が届いた。
雑多ではない。むしろ気配は最小限に抑えられ、規律正しくすらある。
(来たか)
殺伐とした場で、実はこれだけが楽しみだった。二年前、セフュラのジュード王から持ち掛けられた此度の《大陸連盟会議》の結成と招集案―――おそらく、それだけでは肯首しなかった。
己の俗っぽさに内心で呆れつつも、期待に高まる鼓動は大人げなく、落ち着かない。サガンは口許が弛むのを自覚した。
さらさら……と、衣擦れの音が近づく。ホール内の並みいる国家の重鎮達も気付き、入り口へと視線が集まりはじめた。そんな中。
一群の、濃紺の短いマントを揃いに、あとは思い思いの正装を纏った奏者達が現れた。
さぁっ……と、人の波が引いてゆく。真っ直ぐホールの奥、演奏形態に並べられた椅子の場所までの道がひらいた。
コツ、と革靴の音が響く。
ざわめきが、鳴りを潜めていた。
ゆっくりと足を前に出す。それだけで人目を引く黒髪の男性が、まずは先頭に歩み出る。
濃い緑の瞳、渋味を加えて尚甘く整った容貌。大陸中に信奉者ありと謳われるレガートの歌長、アルムだ。
すでに観客を魅了する気は満々らしく、表情は華やかな演出者そのもの。
コツ、コツと歩を進め、にこりと微笑った。
「失礼」
ただ一言、深いテノールが耳を打つ。
夥しい視線が、かれに捕らえられた。
歌長の歩みは止まらない。かれに続いて楽士の一団が整然と並び入る。その中に、まだ若い楽士三名に守られるように進む妖精の姫君がいた。
(―――…え?)
人びとは二度見する。
つややかな黒髪は、すべらかな頬の横で一房ずつ柔らかく揺れている。
優美な眉、黒く長い睫毛に縁どられた、今は伏し目がちな澄んだ青い瞳。品よく通った鼻梁に愛らしい微笑みを湛える珊瑚色の唇。
青い衣装の袖は細腕をぴたりと覆い、手の甲を中指の付けねまで隠すもの。その手をエスコートするのは栗色の括り髪を背に垂らす、涼やかな楽士。
小柄な姫君の肩から背にかけては、薄く透ける白銀の紗の布が空気をはらんでふわりと靡く。
それは左右二枚に分かれており、折り畳まれた妖精女王の羽のような形をしていた。その一端ずつを、騎士然とした赤髪の楽士と艶やかな銀髪の楽士が地に付かぬよう、片手でさりげなく持っている。
ほう……と、吐息のさざ波が広がった。
老いも若きも、男も女もない。ただひたすら魅了されつつある人びとが、束の間、それぞれの悩みの種から解放される瞬間が、もうすぐ訪れる。
―――期待を越えた、確信に似た高揚感。
それらが、じわじわとホールを埋め尽くした。