108 舞踏の先生と父の思惑
エウルナリアは、淡い菫色の正装姿のまま、階段を降りた。気は急くが、慌てず優雅に――を心がけて。
絨毯の上では、足音よりもシャッ…シャッ…という、衣擦れの音のほうが耳に入る。
エウルナリアの口許は自然と微笑の形に。ただし、少し困ったような表情になった。
(なるほど、淑女の礼法は、こういう動きにくい服装をうつくしく見せるための、故あっての知恵だったのね…納得すぎる)
静かに一階に降り立つ。
コツ、コツ…と、真新しい舞踏用の靴の踵が石の床に微かに響く。
やがてコツン、と止まり、一礼―――紛うことなき、淑女の臣下の礼。
顔回りの黒髪は落ちてこない。襟足は背に垂らしたまま、今は横を編み込んでハーフアップにしてある。
面は伏せて、しかし背筋は凛と伸びたまま。エウルナリアは鈴ふる声で挨拶の口上を述べた。
「――アルユシッド殿下。ようこそ、おいでくださいました。
おそらく、貴方が先生なのではないかと思っておりました……実に、この度はわたくしの至らなさが招いた事態ですのに、ご足労いただき、申し訳ありません……
…?あの――――…殿下?」
なかなか返答がなかったので、つい、ちらりと小首を傾げなから上目遣いに確認する。
暗紅色の瞳と、視線が絡んだ。
瞬間、ハッと戻る表情。
白銀の柔らかな髪の青年はゆるゆると、どこか、幸せそうな笑みを浮かべた。
「…失礼、エウルナリア嬢。どうぞ楽にして。足労などとんでもない。役得ですよ――それは、正装ですね。明日の?」
「えぇ。普段まったく着ることがありませんでしたから、試着を………だめ、でした?どこか、おかしいかしら……」
自信なさげに、みずからの装いを確認し始めた黒髪の少女に、目を丸くした青年は「まさか」と破顔した。
す、と身をかがめ、右手で少女の左手をとると、指先に掠る程度の口づけを落とす。
その、一連の自然な流れ。
予想外の接触と温もりに、エウルナリアは思わずビクッ!と、身体を震わせた。
ちいさな手から、その震えは青年に伝わってしまっている。何となく恥ずかしくなり、「すみません…」と、口の中で呟くと、更に笑みが深まる気配がした。
「綺麗ですよ、とても。露をまとう花の妖精の姫君みたいに。
――どうしようかな、明日はずっと他のパートナーに渡さず、独り占めしていたい」
きゅ、と少しだけ少女の指を握る手の感触がつよくなる。
なぜか止まらない動悸に、エウルナリアは困り果てた顔で、右手を心臓のあたりに添えた。顔が、熱い。
「あ……あの…残念ながら、私、踊れないんです。その、不思議なんですが父は、ダンスの教師をつけるのを忘れてたようで……私も、うっかり失念していました」
アルユシッドは「あぁ、そのこと」と、眉を上げた。
「心当たりならありますよ。以前、歌長が言っていました。皇宮の大広間で人びとを眺めながらね。『エルゥには、ぎりぎりまでダンスを教えたくないな……その辺の男に、触らせたくない』と」
くすくす、くすくすと実に楽しそうに笑うアルユシッド皇子の秀麗な顔を、穴が空くほど見つめてから。
エウルナリアは大きな青い目に涙を滲ませると、内心で思いきり叫んだ。
(…お、とうさま……の、ばかぁーーーっ!!)




