107 ダンスの前に
『――わかったわ。そういうことなら任せて。今日このあと、とびっきりの先生をバード邸に送ってあげる。
あ、一応、客間に泊めてあげてね。どうせ、夜も特訓するんでしょう?』
帰り際、自信満々のゼノサーラ皇女に衆目のある場所で言われては、受け入れるより他にない。
エウルナリアはつい、『……有り難く、ご厚意を頂戴いたします?』と素で返してしまった。勿論、こっぴどく怒られた。
バード邸に着いた馬車を降り、御者に礼を伝えて、主従は庭を歩く。
初夏の盛り、めずらしい晴天の昼下り。庭の緑は目に鮮やかで、木洩れ日が気持ちいい。
時折、ざあぁぁ………と、湖からの風が木々の間を吹き抜ける。腰まで伸びた少女の黒髪と制服の裾もその都度、律儀に揺れた。
頬にかかる髪を形のよい耳に掛けながら、エウルナリアは左隣を歩くレインの横顔を、そうっと見上げる。
――グランほどではないが、すっきりとした上背はまだ成長途中。若木のように、季節を越えるたび伸びる手足。年齢のわりに大きな手。顔は言うまでもなく綺麗で、憂いを帯びた灰色の瞳にかかる伏し目がちな栗色の睫毛などは、どこの美女だと思う。
……言えば怒られるので、言わない。
只気付かれないように、微笑みを浮かべた。
(明日のことがなかったら、もう少しのんびり散歩出来たんだけどな……)
今日の午後の専科は一時間だけだったから、まだ日が高い。
時刻は、午後二時五十分。
急いで、出来ることをしないと――と、意識を切り換えた。
* * *
「え?ダンスですか。もう?」
邸に着いてすぐ、四年前の春に学院を卒業した先輩のフィーネに確認をとる。そのまま明日への準備になだれ込んだ。
時刻は午後三時半。
二階にあるエウルナリアの部屋は、今、ちょっとした戦争状態だ。
乳母のキリエにも手伝ってもらって、ダンスの練習に相応しいドレスや靴、普段は見向きもしなかった正装などを並べてもらっている――寝台や、ソファーの上に。
エウルナリアはそれらをまじまじと眺め、他人事のようにぽつり、と溢した。
「着たことないドレスが、たくさん……よくあったね。これだけ」
キリエは床に届く丈のイブニングドレスを数着手に取り、順に小柄な黒髪の令嬢に充てがっている。どの色が映えるか、じっくり見立てているらしい。
性格も体型も大らかな乳母はゆっくりと、しかしどこか呆れた声音で主家の姫君を諭す。
「何を仰るんですか。お嬢様は少ない方ですよ。普段、頓着なさらないから…
でもまぁ、成人前ですからね。十六歳になられる前には、一度きちんと採寸して、大量に仕立ててもらう事になると思いますよ」
「あぁ…うん。そうよね……」
少し、遠い目になった。
ちなみに現在、試着の真っ最中である。「コルセット、何それ?」体型のエウルナリアでも、姿勢を補整する意味合いも兼ねて、それ用の下着は身に付けないといけないらしい。
よって、レインには下がってもらっている。今頃はかれも、自身の準備にてんやわんやだろう。
ふと、気づいた。
「ねぇ、フィーネ。平民のひとはどうするの?」
「……あぁ、ご存じなかったんですね?学院には貸し衣装室があるんですよ。ダンスの講義で必要なものは、全部そこで借りられます。靴やアクセサリーも。
中央講堂の裏手、食堂のある棟があるでしょう?あそこの二階が全部、そうだったと思います。気に入れば、同じ型の新品を買い取ることもできるとか」
エウルナリアは、成る程と納得した。
……あの建物には、あまり出入りしていない。
やがて、主の少女の問いに答えつつ、小物を整え終えたフィーネが一着のドレスを手に戻ってきた。すごく嬉しそうな顔だ。
――こういう時、フィーネとレインは姉弟なのだと実感する。似ている。
「お母様、こちらの薄桃色なら、まちがいありませんわ」
「そう?ちょっと幼すぎやしないかしら。最近のお嬢様なら、こっちの寒色系もいけると思うんだけど……」
「いえいえ、可愛らしさを前面に出してこそのお嬢様です」
すごい。きっぱりと言い切った。
本人より一生懸命で、いっそ清々しい。流石フィーネ。
「何でもいいよ……」
力なく呟くと、母子が揃ってこちらを向いた。
「何でもよくありませんわ!」
「いいわけ、ありません!」
完璧な同調率である。
令嬢は、くすくすと笑った。
「じゃあ、そっちの、淡い菫色にしようかな」
あえて、どちらも選ばない。
エウルナリアが指したそれは、未だ寝台の上にあった一着。愛らしさと上品さを備えた、透ける小さなパフスリーブに絹の光沢を放つ生地のドレス。
胸元で切り替えが施され、豊かなドレープを連想させる、ランダムに腰の辺りから裾の方へと流線上に縫い付けられた小粒の真珠。それが、波の泡のようにも見えるAラインだった。
デザインも好みだったが、何より足さばきが良さそう…と、思ったのが決め手。ダンス初心者なのだから。
結局、定番に近い色になったことに渋い顔をされたが――充ててみると、やはり映える。
特に反対されることもなく認可され、するすると着替えた。
コンコン、と扉が叩かれ、来客を告げられたのはその時だった。




